タグ

戦国に関するkenjouのブックマーク (44)

  • 徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

    徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。 この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。 にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退しなかった唯一の大名になっています。 このことが、後に家康が天下人となるための、布石として機能することになりました。 この文章では、そんな家康と秀吉の戦いについて書いてみます。 【小牧・長久手の戦いに勝利した徳川家康の肖像画】 信長の死と秀吉の台頭能寺の変で織田信長が死去した後、信長の子や家臣たちが、織田氏の主導権を巡って争いました。 信長の仇を討って飛躍した秀吉は、織田信雄(信長の次男)を推戴し、織田家重臣の丹羽長秀、池田恒興(つねおき)を味方につけ、有利な状況を作り上げます。 そして賤ヶ岳の戦いに勝利し、敵対した柴田勝家や滝川一益、織田信孝(信長の三男)

    徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/09/22
    書きました。
  • 北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?

    北条早雲は伊豆や相模(神奈川県)に独立した勢力を築いた、史上初の戦国大名です。 元々は室町幕府に仕える役人でしたが、駿河の守護大名・今川氏の後継者争いに介入し、功績を立てて一城を与えられました。 以後は中央に戻ることなく、甥の今川氏親を補佐しつつ、伊豆や相模に侵攻し、独自の勢力圏を構築していきます。 そして領民の生活を重視する新しい統治体制を構築し、武家政治のあり方に大きな影響を及ぼしました。 この文章では、早雲はどうして最初の戦国大名になったのか、について書いてみます。 【北条早雲の肖像画】 伊勢氏の一族に生まれる早雲の生年については2説あり、1432年か、もしくは1456年の生まれだとされています。 室町幕府で代々、政所(まんどころ)の執事を務めていた伊勢氏の出身で、伊勢盛時というのが最初の名前です。 政所は、土地の所有権をめぐる訴訟を扱う役所で、地権者の連合政権である室町幕府にとって

    北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?
    kenjou
    kenjou 2017/08/08
    書きました。
  • 島津家久はどうして沖田畷の戦いで龍造寺隆信に勝利できたのか?

    1584年、「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信は、3万の大軍を率いて九州の島原半島に攻め込みました。 これは島原を支配していた有馬晴信が隆信を裏切ったため、彼を討伐するのが目的でした。 このために有馬晴信は外交関係を構築していた島津義久に救援を求めますが、島津軍の主力は肥後(熊県)で隆信の勢力とにらみ合っていたため、大軍を派遣する余裕がありませんでした。 このため、義久の末弟・家久を大将とした3千の兵を援軍として送り込み、有馬晴信の要請に応えることにします。 有馬軍と島津軍を合わせても1万に満たない規模であり、状況は圧倒的に不利でしたが、家久の立てた作戦が見事に的中し、劣勢を覆して隆信を討ち取ることに成功しました。 この文章では、家久がいかにしてこの逆転勝利を実現したのか、について書いてみます。 【沖田畷の戦いで敗れた龍造寺隆信の肖像画】 当時の九州の情勢この頃の九州は、肥前(佐賀県)を中

    島津家久はどうして沖田畷の戦いで龍造寺隆信に勝利できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/05/08
    歴史の読み物を更新しました。今回は島津家久と龍造寺隆信が戦った沖田畷の戦いについてです。
  • 島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について

    島津義弘と豊久は、天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」に、1500の兵を率いて参戦しました。 そして西軍に属するものの、石田三成との確執から戦場ではほとんど戦っていません。 西軍が大敗する形で決着がついてからようやく動き出し、数万の敵軍がひしめく戦場を突破して撤退に成功しています。 島津側も大きな損害を受けましたが、この壮絶な撤退行軍は関ヶ原の戦いの最後を飾る、際立った挿話となっています。 この文章では、そんな義弘と豊久の撤退戦、「島津の退き口(のきぐち)」について書いてみます。 【関ヶ原で壮絶な撤退戦を行った島津義弘の肖像画】 少数でしか参加できなかった島津軍1600年に行われた関ヶ原の戦いは、天下分け目の決戦であり、その後の日歴史の流れを変えた重要な転換点になっています。 この戦いに参加した島津義弘はその重要性を理解しており、国の薩摩(鹿児島県)に対して何度も兵員の増強を要請

    島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について
    kenjou
    kenjou 2017/04/27
    歴史の読み物を更新しました。今回は「島津の退き口」についてです。
  • 武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?

    1572年、京への上洛を目指す武田信玄は、遠江(静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康と織田信長の連合軍と戦い、これに圧勝しました。 これによって信玄は東海方面での優位を確定させ、家康と信長を強く圧迫し、窮地に陥れています。 しかし信玄はこの戦いの後、間もなく病死してしまい、ついに上洛を果たすことはできませんでした。 危機を脱した信長と家康は反撃に転じ、後にそれぞれ天下を制しています。 この文章では、戦国時代の重要な転機になった三方ヶ原の戦いの顛末と、戦いの前後の状況について書いてみます。 【徳川家康を圧倒した武田信玄の肖像画】 信玄と信長の関係性信玄と信長、そして家康は、かつてはそれぞれに同盟を締結していた間柄でした。 信玄は1560年代には、既存の領地である甲斐(山梨県)と信濃(長野県)の周辺に勢力を拡大し、それを固めることを戦略目的にしていました。 このため、尾張(愛知県)

    武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/04/14
    歴史の読み物を更新しました。今回は三方ヶ原の戦いについてです。
  • 立花宗茂 「日本無双」と呼ばれた名将の生涯について

    立花宗茂は戦国時代に、主に九州で活躍した武将です。 「立花の3千は他家の1万にも匹敵する」と言われたほどの精強な軍団を率い、各地の戦いで目覚ましい武功を立てました。 宗茂の指揮能力は際立って優れており、そのうえ武術の達人でもあったことから、「西国一」や「日無双」といった賞賛を送られています。 また、宗茂は生涯を通して忠義の精神を貫いており、戦乱の世において一度も人を裏切ったことがなく、この点でも豊臣秀吉や徳川家康といった為政者たちから高く評価されています。 この文章では、そんな宗茂の生涯について書いてみます。 【立花宗茂の肖像画】 高橋紹運の長男として生まれる宗茂は1567年に、大友宗麟に仕える高橋紹運(じょううん)の子として生まれました。 大友氏は北九州で栄えた戦国大名で、一時は九州の半分を支配するほどの勢威を誇っていました。 父・紹運はその大友氏の重臣であり、こちらも「名将」と呼ばれ

    立花宗茂 「日本無双」と呼ばれた名将の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/03/02
    歴史の読み物を更新しました。今回は立花宗茂についてです。
  • 豊臣秀次はどうして秀吉によって抹殺されたのか?

    豊臣秀次は秀吉の養子となって関白の地位についた人物です。 元々は秀吉の甥でしたが、秀吉に実子がいなかったことから重用されるようになり、成長するにつれて順調に地位が高まっていきました。 そしてついに天下人の後継者に指名されて関白に就任しますが、秀吉に実子の秀頼が生まれたことにより、その流れが反転します。 自分の立場が脅かされることを恐れた秀次は次第に健康を蝕まれ、秀吉との関係に軋轢を生み、やがて自害にまで追い込まれます。 この文章では、どうして一度は天下人になりかけた秀次が、秀吉に抹殺されてしまったのか、について書いてみます。 (なお、秀次は生涯のうちに何度も姓名が変わっているのですが、煩雑になるため、この文章では「秀次」で通して書いていきます。) 【豊臣秀次の肖像画】 秀吉の甥として生まれる秀次は1568年に秀吉の姉「とも」と、弥助という馬貸し業を営む男との間に生まれました。 幼名を治兵衛

    豊臣秀次はどうして秀吉によって抹殺されたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/02/16
    歴史の読み物を更新しました。今回は豊臣秀次についてです。
  • 北条氏康はどうして河越夜戦で上杉憲政や足利晴氏の大軍に勝利できたのか?

    戦国時代に関東で勢力を広げていた北条氏康は、1546年に河越城を8万という大軍に包囲され、危機に陥ります。 これは関東管領の上杉憲政や、古河公方の足利晴氏が、北条氏討伐のために各地の諸侯に呼びかけ、兵力を結集した結果です。 対する北条氏の兵力は1万程度のものでしたが、氏康は果敢な奇襲攻撃によってこの大軍を討ち破り、関東における優位を確定させました。 この「河越夜戦」は後世から「日三大奇襲」に数えられ、戦国時代の代表的な戦いの一つとして知られることになります。 この文章では、どうして氏康は圧倒的な兵力差を覆して勝利できたのか、について書いてみます。 【北条氏康の肖像画】 戦いの背景 – 北条氏の武蔵への進出まず、この戦いが発生した背景から触れていこうと思います。 戦国時代の関東地方は、室町幕府より任じられた古河公方が中心となって、関東管領の上杉氏がそれを支える、という体制によって秩序が形成

    北条氏康はどうして河越夜戦で上杉憲政や足利晴氏の大軍に勝利できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/02/11
    歴史の読み物を更新しました。今回は北条氏康が1万対8万の戦力差を覆して勝利した「河越夜戦」についてです。
  • 毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?

    毛利元就は1555年に厳島で陶晴賢(すえはるかた)の大軍と戦い、これを討ち破りました。 元就はこの時、晴賢の4分の1程度の戦力しか持っていませんでしたが、巧みな戦術によって勝利しています。 この戦いをきっかけに毛利氏は飛躍し、やがて元就は中国地方8ヶ国もの太守となりました。 この文章では、元就はどうして戦力で劣りながらも陶晴賢に勝利できたのか、について書いてみます。 【毛利元就の肖像画】 毛利氏は大内氏に従属していた毛利氏は元就の代になるまでは、安芸(広島県西部)の一領主であるに過ぎず、近隣の大勢力である尼子氏や大内氏に従属することで、その勢力を維持していました。 元就は大内氏の傘下の時代に、出雲(島根県)に勢力を持つ尼子氏に攻め込まれて逆に討ち破ったり、小早川氏や吉川氏などの諸豪族の力を取り込むなどして、その名声と実力を高めていきます。 こうして大内氏の中で存在感が増していき、安芸の中心

    毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/02/07
    歴史の読み物を更新しました。今回は厳島の戦いについてです。
  • 武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

    武田信玄は甲斐(山梨県)を拠点として周辺の諸国に勢力を伸ばし、一大強国を作り上げた戦国大名です。 軍事や調略、内政や家臣団の統率にも優れており、武田氏を戦国最強と呼ばれる軍団に育て上げました。 上杉謙信と川中島で何度も戦火を交えたことでも知られています。 やがて信玄は徳川家康や織田信長を脅かし、上洛して天下を制することを目指すようになりますが、病のために寿命が尽き、その野心を達成することはできませんでした。 この文章では、そんな信玄の生涯について書いてみます。 【武田信玄の肖像画】 武田信虎の子として生まれる信玄は1521年に、甲斐守護の武田信虎の次男として誕生しました。 幼名は太郎といいます。 信玄には兄がいましたが、幼い頃に死去してしまい、これによって信虎の後継者になりました。 母は甲斐の有力な領主・大井氏から嫁いだ大井夫人です。 信玄が生まれる直前に、今川氏が甲斐に攻め込んで来ており

    武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/02/03
    歴史の読み物を更新しました。今回は武田信玄についてです。
  • 浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?

    北近江(滋賀県)の大名・浅井長政は織田信長と同盟を結び、京への上洛に協力しました。 しかし信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めたことをきっかけに決裂し、裏切って敵に回っています。 そして石山願寺や武田信玄と手を結んで包囲網を形成し、信長を大いに苦しめました。 やがて勢力を盛り返した信長に封じ込まれてゆき、最後には朝倉義景とともに敗れ、滅亡しています。 この文章では、長政はどうして信長を裏切り、滅亡を迎えることになったのかについて、書いてみます。 【浅井長政の肖像画】 浅井氏は六角氏に従属していた長政は1545年に北近江の領主・浅井久政の嫡男として誕生しました。 この頃の浅井氏は弱体化しており、南近江を支配する六角義賢に従属することで、その勢力を保っていました。 このために長政は若い頃、義賢から一字を拝領して賢政(かたまさ)と名のっています。 このあたりは今川義元に従属し、元康と名のってい

    浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?
    kenjou
    kenjou 2017/01/30
    歴史の読み物を更新しました。今回は浅井長政についてです。
  • 徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

    徳川家康は三河(愛知県東部)の小領主から身を起こし、織田信長と同盟を結んで勢力を伸ばした人物です。 子どもの頃に人質になったり、武田信玄に苦戦したり、豊臣秀吉に臣従したりと数多くの苦難を経験しましたが、最終的には天下を制しています。 家康が開いた江戸幕府は長期安定政権として、264年に渡って平和な時代を築きました。 この文章では家康がどのような道のりをたどって天下人となり、世の安定のために尽くしたのか、について書いてみます。 【徳川家康の肖像画】 松平広忠の嫡男として生まれる家康は1542年に三河の小領主・松平広忠の嫡男として誕生しました。 幼名は竹千代といいます。 母の於大(おだい)は近隣の領主・水野忠政の娘でしたが、水野氏はやがて松平氏が敵対する織田氏と同盟を結んでしまいます。 このため家康が3才の時に離縁され、実家に戻されました。 こうして家康は、幼いころに母と生き別れになっています

    徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯
    kenjou
    kenjou 2017/01/24
    歴史の読み物を更新しました。今回は徳川家康についてです。
  • 加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について

    加藤清正は豊臣秀吉に仕え、肥後(熊県)の大名になった武将です。 軍事だけでなく財務や内政、築城も得意としており、肥後の発展に大いに貢献しました。 民衆からの支持を受けて死後に神格化され、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれて親しまれ、今でも信仰の対象になっています。 晩年には豊臣氏と徳川氏との対立の緩和に尽力し、政治家としても成熟した姿を見せました。 この文章では、そんな加藤清正の生涯について書いてみます。 【加藤清正の肖像画】 秀吉の縁者として生まれる清正は1562年に尾張(愛知県)の中村で生まれました。 中村は秀吉の生地でもあり、母の伊都は秀吉の母・大政所の従姉妹でした。 このため、生まれながらにして秀吉との縁が深かったことになります。 父は加藤清忠という人物で、若い頃は斎藤道三に仕えた武将でした。 しかし戦場で負傷したことをきっかけに武士をやめ、鍛冶屋を営んでいました。 父は清正が

    加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/01/20
    歴史の読み物を更新しました。今回は加藤清正についてです。
  • 柴田勝家 信長の筆頭家老として活躍した猛将の生涯について

    柴田勝家は戦国時代に織田信長の重臣として活躍した武将です。 「日で最も勇猛果敢」と評されたほどに戦場での働きが優れていました。 信長の父・信秀の代から織田氏に仕えていましたが、一時は信長と敵対したため、用いられなかった時期もあります。 しかし天下取りを目指す信長は、やがて勝家の武勇を必要とするようになり、重臣として返り咲いています。 信長の死後には羽柴秀吉と覇権を争い、「賤ヶ岳の戦い」という大きな戦いを引き起こしました。 この文章では、そんな勝家の生涯について書いてみます。 【江戸時代に描かれた勝家の肖像】 尾張に生まれ、織田信秀の家臣となる勝家は1522年に、尾張(愛知県)の上社村で生まれました。 出自ははっきりとしていませんが、柴田氏は尾張守護・斯波(しば)氏の庶流であったと言われています。 勝家はやがて尾張で頭角を表した織田信秀に仕え、下社村に領地を得ています。 武勇に優れていたこ

    柴田勝家 信長の筆頭家老として活躍した猛将の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/01/11
    歴史の読み物を更新しました。今回は柴田勝家についてです。
  • 井伊直政 赤備えを率いて活躍した「井伊の赤鬼」の生涯について

    井伊直政は徳川家康に仕え、四天王のひとりに数えられた名臣です。 軍事だけでなく、調略や外交にも秀で、家康の天下統一に大いに貢献しました。 やがては若くして家康の筆頭家臣の地位につき、井伊家をおおいに繁栄させてもいます。 しかし関ヶ原の戦いで負傷したにも関わらず、休みなく働き続けたことで体を壊し、41才で死去してしまいました。 この文章では、そんな直政の生涯について書いてみます。 【井伊直政の肖像画】 井伊直親の長男として生まれる直政は1561年に遠江(静岡県西部)の国人領主・井伊直親の長男として生まれました。 幼名は虎松といいます。 井伊氏は鎌倉時代の頃から、500年に渡って井伊谷(浜松湖の北の一帯)を治めていた一族です。 戦国時代になると時に独立し、時に駿河(静岡県東部)の今川氏に臣従して、その勢力を保っていました。 父が謀反の疑いで殺害される父・直親は今川氏真の家臣でしたが、1562年

    井伊直政 赤備えを率いて活躍した「井伊の赤鬼」の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/01/05
    歴史の読み物を更新しました。今回は井伊直政についてです。
  • 茶々(淀殿) 豊臣秀頼を生んだ女性の生涯について

    茶々(ちゃちゃ)は豊臣秀吉のとなって秀頼を生み、やがて豊臣家の実権を握った女性です。 浅井氏と織田氏の一族に生まれ、戦乱の中で父と母を失いました。 そして自身も大坂の陣という大戦に敗れ、豊臣家を滅亡に導いてしまっています。 この文章では、そのような激動の生涯を過ごした茶々について書いてみます。 【茶々の肖像画】 浅井長政とお市の方の間に生まれる淀殿は1569年に北近江(滋賀県北部)を支配する大名・浅井長政の娘として生まれました。 茶々と名付けられ、これが生涯を通しての名前となります。 (「淀殿」や「淀の方」は秀吉の子を生んで以降の称号のようなものです。) 母はお市の方で、織田信長の妹です。 信長は長政と同盟を結び、自身の覇道の協力者とするために、妹を嫁がせて義弟にしていました。 信長が血縁者をよその家に嫁がせるのは珍しく、それほど長政を厚く信頼していたのですが、後に両者は敵対することにな

    茶々(淀殿) 豊臣秀頼を生んだ女性の生涯について
    kenjou
    kenjou 2016/12/30
    歴史の読み物を更新しました。今回は茶々についてです。
  • 「豊臣秀吉が天下人になれたワケ」という電子書籍を近いうちに発売します | 歴史の読み物

    kenjou
    kenjou 2016/12/27
    歴史の読み物を更新しました。今回は豊臣秀吉についてです。
  • 今川氏真 父・義元の死後に全てを失うも、しぶとく生き延びた武家貴族の生涯について

    今川氏真(うじざね)は「海道一の弓取り」と言われた東海道の大名・今川義元の嫡子です。 父が織田信長に討たれた後、9年ですべてを失って大名としての今川氏を滅ぼしてしまいました。 その後はかつて父の家臣だった徳川家康の元で生きのび、子どもや孫は旗に取り立てられ、小さいながらも今川氏を存続させることには成功しました。 この文章では、そんな氏真の生涯について書いてみます。 【集外三十六歌仙に選ばれた今川氏真】 今川義元の嫡子として生まれる氏真は1538年に今川義元と正室の定恵院との間に生まれました。 定恵院は甲斐守護・武田信虎の娘で、武田信玄とは叔父・甥の関係にあったことになります。 1554年には相模(神奈川県)を支配する北条氏康の娘・早川殿と結婚をしており、周辺の大名たちとの間に血縁関係を結んでいました。 この氏真の結婚も含め、今川・武田・北条は三国間で同盟を結び、それぞれに後背の安全を確保

    今川氏真 父・義元の死後に全てを失うも、しぶとく生き延びた武家貴族の生涯について
    kenjou
    kenjou 2016/12/26
    歴史の読み物を更新しました。今回は今川氏真についてです。
  • 藤堂高虎 8人の主君に仕え、伊勢32万石の大名にのしあがった「忠義の武将」の生涯について

    藤堂高虎は近江の出身で、足軽から身を起こして各地を渡り歩き、8人もの主君に仕えた武将です。 最終的には徳川家康や秀忠に仕えて信頼され、伊勢の32万石の大名にまでのし上がっています。 初めは自身の立身のために励んでいましたが、やがては公のために献身的に尽くす精神性を身につけ、幕府から重用されるようになっていきます。 この文章では、そんな高虎の生涯について書いてみます。 【藤堂高虎の肖像画】 近江の農家に生まれる高虎は近江(滋賀県)の藤堂村で、1556年に生まれました。 かつて藤堂家は藤堂村の小領主だったのですが、没落して一農家の身分にまで落ちぶれていました。 高虎は武勇に優れていたことから、家を出て侍として身を立てることを決意します。 そして北近江の大名・浅井長政に足軽として仕官しました。 足軽は最下級の兵士のことで、身一つで戦闘力を提供する身分です。 高虎は190cmの長身の持ち主で、その

    藤堂高虎 8人の主君に仕え、伊勢32万石の大名にのしあがった「忠義の武将」の生涯について
    kenjou
    kenjou 2016/12/22
    歴史の読み物を更新しました。今回は藤堂高虎についてです。
  • 山内一豊 妻の千代に助けられ、国持ち大名にまで出世した武将

    山内一豊は織田信長の家臣で、豊臣秀吉、徳川家康とその時々の勝者に仕えることで戦乱の時代を生き延びた武将です。 それほど大きな功績を立てることはなかったものの、の千代の助けを得て着実に出世を遂げ、最後は土佐一国の主にまでなっています。 当人はある程度の武勇はあるものの、特別に優れた能力はなかったのですが、周囲の人々の助けを得て勢力を築いていきました。 この文章ではそんな山内一豊について書いてみます。 【山内一豊の肖像画】 山内盛豊の子として生まれる一豊は山内盛豊の三男として、1545年に誕生しています。 山内盛豊は尾張(愛知県)の岩倉城主・織田信賢の家老として仕えていた武将です。 織田信賢は尾張の北半分を支配しており、やがて尾張の南半分を制した新興勢力の織田信長と争うようになります。 そして1559年に信長に敗れて織田信賢は滅亡し、父の盛豊は討ち死にしてしまいます。 主家と当主を失ったこと

    山内一豊 妻の千代に助けられ、国持ち大名にまで出世した武将
    kenjou
    kenjou 2016/12/16
    歴史の読み物を更新しました。今回は山内一豊についてです。