タグ

歴史に関するkenjouのブックマーク (61)

  • 徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

    徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。 この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。 にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退しなかった唯一の大名になっています。 このことが、後に家康が天下人となるための、布石として機能することになりました。 この文章では、そんな家康と秀吉の戦いについて書いてみます。 【小牧・長久手の戦いに勝利した徳川家康の肖像画】 信長の死と秀吉の台頭能寺の変で織田信長が死去した後、信長の子や家臣たちが、織田氏の主導権を巡って争いました。 信長の仇を討って飛躍した秀吉は、織田信雄(信長の次男)を推戴し、織田家重臣の丹羽長秀、池田恒興(つねおき)を味方につけ、有利な状況を作り上げます。 そして賤ヶ岳の戦いに勝利し、敵対した柴田勝家や滝川一益、織田信孝(信長の三男)

    徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/09/22
    書きました。
  • 応仁の乱と戦国時代の始まりについて

    応仁の乱は1467年から1477年まで、11年もの長きに渡って続いた内戦です。 室町幕府の将軍家と守護大名、そして朝廷の公家と皇族までもが東軍と西軍に別れて抗争を繰り広げました。 乱が発生した直接の契機は、実力者の細川勝元と山名宗全が対立したことにあり、両陣営に様々な勢力が参加していったことで、収拾のつかない事態となりました。 この時代は政治の中枢を担うべき将軍の権威が、著しく低下していった時期にあたっており、そのために家臣たちの争いを鎮めることができず、内乱が発生したのです。 そしてこの乱の結果、幕府や朝廷の統制力が低下し、地方で独立割拠するものが次々と現れ、いわゆる戦国時代が訪れることになりました。 この文章では、応仁の乱の経緯や、当時の社会の変動の様子について、書いてみようと思います。 【応仁の乱発生時の将軍・足利義政の肖像画】 不安定な将軍の権力室町幕府はその発祥の頃から、足利将軍

    応仁の乱と戦国時代の始まりについて
    kenjou
    kenjou 2017/08/29
    応仁の乱について書きました。
  • 北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?

    北条早雲は伊豆や相模(神奈川県)に独立した勢力を築いた、史上初の戦国大名です。 元々は室町幕府に仕える役人でしたが、駿河の守護大名・今川氏の後継者争いに介入し、功績を立てて一城を与えられました。 以後は中央に戻ることなく、甥の今川氏親を補佐しつつ、伊豆や相模に侵攻し、独自の勢力圏を構築していきます。 そして領民の生活を重視する新しい統治体制を構築し、武家政治のあり方に大きな影響を及ぼしました。 この文章では、早雲はどうして最初の戦国大名になったのか、について書いてみます。 【北条早雲の肖像画】 伊勢氏の一族に生まれる早雲の生年については2説あり、1432年か、もしくは1456年の生まれだとされています。 室町幕府で代々、政所(まんどころ)の執事を務めていた伊勢氏の出身で、伊勢盛時というのが最初の名前です。 政所は、土地の所有権をめぐる訴訟を扱う役所で、地権者の連合政権である室町幕府にとって

    北条早雲(伊勢宗瑞)は、どうして最初の戦国大名になったのか?
    kenjou
    kenjou 2017/08/08
    書きました。
  • 橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯

    左内は幕末に福井藩の医者の子として生まれ、適塾で蘭学(オランダ由来の西洋学問)を習得した人物です。 若年の頃より優れた知性を備えており、世界情勢に通じ、幕末において日の取るべき道を示した思想家としても活動しています。 やがてその才能を認められ、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)の抜擢を受けて藩政改革に参与し、国事にも携わるようになります。 そして同志となった西郷隆盛とともに、英明で知られる一橋慶喜を将軍に擁立する運動を推進し、幕閣や朝廷にもその存在を知られるようになりました。 しかし、井伊直弼が強行した安政の大獄によって処刑され、わずか26才で惜しくも世を去っています。 この文章では、そんな左内の生涯について書いてみます。 【橋左内の肖像画(島田墨仙作)】 福井藩の医師の子として生まれる左内は1834年に、福井藩に仕える医師・橋長綱の長男として誕生しました。 幼い頃より向学心が強く

    橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯
    kenjou
    kenjou 2017/07/25
    書きました。
  • 蕭何 内政や統治に優れ、劉邦を支えた名臣の生涯について

    蕭何(しょうか)は劉邦を世に送り出し、彼が漢の皇帝になるまでその覇道を支えた名臣です。 統治能力に優れており、項羽との戦いに苦戦する劉邦に兵員や軍需物資を供給し続け、継戦能力を維持するのに貢献しました。 それ以外にも韓信の才能を見出して大将軍に推薦するなど、人材登用の面でも活躍しています。 戦いには参加しなかったため、やや地味な存在ではありますが、もしも蕭何がいなければ、劉邦が中国大陸の覇者になることもなかったでしょう。 この文章では、そんな蕭何の生涯について書いてみます。 【蕭何の肖像画】 沛県に生まれ、役人となる蕭何は劉邦と同じ沛県の出身で、秦帝国が大陸を支配していた頃には、その現地採用の役人となっていました。 決して身分は高くありませんでしたが、真面目な性格で有能であったため、上役から評価され、地元の住民たちからも慕われるようになっていきます。 この時の部下に、後に漢の丞相(じょうし

    蕭何 内政や統治に優れ、劉邦を支えた名臣の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/05/30
    歴史の読み物を更新しました。今回は蕭何についてです。
  • 共謀罪への危機感の差は、歴史知識の差から生じるのかもしれない | 現代の歴史

  • 曹操はどうして官渡の戦いで袁紹に勝利できたのか?

    三国志の時代、西暦200年に曹操と袁紹は官渡(かんと)の地で決戦を行い、曹操が勝利を収めました。 この時の兵力は曹操が4万で、袁紹が10万であり、圧倒的に袁紹が有利な情勢でした。 しかし袁紹の陣営は人材が多いもののまとまりを欠いており、袁紹自身の優柔不断さと、戦略眼の乏しさが不安材料となっていました。 これに対し、曹操の陣営は結束が固く、荀彧や荀攸といった優れた軍師たちが曹操をよく補佐し、数の不利を補っていきます。 この文章では、曹操はどうして強者であった袁紹に勝利できたのか、について書いてみます。 【官渡の戦いに勝利した曹操の肖像画】 群雄同士の争いに勝利した曹操と袁紹黄巾の乱に続いて董卓の暴政が行われた結果、後漢の王朝の権威はすっかりと凋落し、中国大陸を統制するための実力を失ってしまいました。 このため、大陸の各地で群雄たちが割拠するようになり、北東部では曹操、袁紹、呂布、劉備、公孫瓚

    曹操はどうして官渡の戦いで袁紹に勝利できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/05/22
    歴史の読み物を更新しました。今回は曹操と袁紹が戦った官途の戦いについてです。
  • 島津家久はどうして沖田畷の戦いで龍造寺隆信に勝利できたのか?

    1584年、「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信は、3万の大軍を率いて九州の島原半島に攻め込みました。 これは島原を支配していた有馬晴信が隆信を裏切ったため、彼を討伐するのが目的でした。 このために有馬晴信は外交関係を構築していた島津義久に救援を求めますが、島津軍の主力は肥後(熊県)で隆信の勢力とにらみ合っていたため、大軍を派遣する余裕がありませんでした。 このため、義久の末弟・家久を大将とした3千の兵を援軍として送り込み、有馬晴信の要請に応えることにします。 有馬軍と島津軍を合わせても1万に満たない規模であり、状況は圧倒的に不利でしたが、家久の立てた作戦が見事に的中し、劣勢を覆して隆信を討ち取ることに成功しました。 この文章では、家久がいかにしてこの逆転勝利を実現したのか、について書いてみます。 【沖田畷の戦いで敗れた龍造寺隆信の肖像画】 当時の九州の情勢この頃の九州は、肥前(佐賀県)を中

    島津家久はどうして沖田畷の戦いで龍造寺隆信に勝利できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/05/08
    歴史の読み物を更新しました。今回は島津家久と龍造寺隆信が戦った沖田畷の戦いについてです。
  • 島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について

    島津義弘と豊久は、天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」に、1500の兵を率いて参戦しました。 そして西軍に属するものの、石田三成との確執から戦場ではほとんど戦っていません。 西軍が大敗する形で決着がついてからようやく動き出し、数万の敵軍がひしめく戦場を突破して撤退に成功しています。 島津側も大きな損害を受けましたが、この壮絶な撤退行軍は関ヶ原の戦いの最後を飾る、際立った挿話となっています。 この文章では、そんな義弘と豊久の撤退戦、「島津の退き口(のきぐち)」について書いてみます。 【関ヶ原で壮絶な撤退戦を行った島津義弘の肖像画】 少数でしか参加できなかった島津軍1600年に行われた関ヶ原の戦いは、天下分け目の決戦であり、その後の日歴史の流れを変えた重要な転換点になっています。 この戦いに参加した島津義弘はその重要性を理解しており、国の薩摩(鹿児島県)に対して何度も兵員の増強を要請

    島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について
    kenjou
    kenjou 2017/04/27
    歴史の読み物を更新しました。今回は「島津の退き口」についてです。
  • 武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?

    1572年、京への上洛を目指す武田信玄は、遠江(静岡県西部)の三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康と織田信長の連合軍と戦い、これに圧勝しました。 これによって信玄は東海方面での優位を確定させ、家康と信長を強く圧迫し、窮地に陥れています。 しかし信玄はこの戦いの後、間もなく病死してしまい、ついに上洛を果たすことはできませんでした。 危機を脱した信長と家康は反撃に転じ、後にそれぞれ天下を制しています。 この文章では、戦国時代の重要な転機になった三方ヶ原の戦いの顛末と、戦いの前後の状況について書いてみます。 【徳川家康を圧倒した武田信玄の肖像画】 信玄と信長の関係性信玄と信長、そして家康は、かつてはそれぞれに同盟を締結していた間柄でした。 信玄は1560年代には、既存の領地である甲斐(山梨県)と信濃(長野県)の周辺に勢力を拡大し、それを固めることを戦略目的にしていました。 このため、尾張(愛知県)

    武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/04/14
    歴史の読み物を更新しました。今回は三方ヶ原の戦いについてです。
  • 張良 王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師の生涯について

    張良は劉邦に仕え、漢帝国の建国に貢献した人物です。 いわゆる軍師の役割を果たし、常に的確な戦略を立てて劉邦に助言を与え、その勢力の拡大に尽くしました。 元々は秦に滅ぼされた韓という国の遺臣で、このために秦の打倒を念願とし、始皇帝の暗殺を謀るなどしていました。 秦が滅び、項羽に勝利し、漢帝国が成立した後には小さな領地をもらって隠遁し、仙人になるための修行を積みながら、静かな余生を過ごしました。 この文章では、そんな張良の生涯について書いてみます。 【張良の肖像画】 祖国が攻め滅ぼされる祖父も父も韓という小国の宰相(大臣)を務めており、張良は名門の家柄の出身でした。 しかし張良が生まれた頃には隣国の秦の勢力が増大し、韓を圧迫するようになっています。 やがて張良が20才になった頃、ついに韓は秦によって攻め滅ぼされてしまいました。 この時に張良は秦への復讐を誓い、家財を売り払って資金を作ります。

    張良 王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/03/15
    歴史の読み物を更新しました。今回は張良についてです。
  • 立花宗茂 「日本無双」と呼ばれた名将の生涯について

    立花宗茂は戦国時代に、主に九州で活躍した武将です。 「立花の3千は他家の1万にも匹敵する」と言われたほどの精強な軍団を率い、各地の戦いで目覚ましい武功を立てました。 宗茂の指揮能力は際立って優れており、そのうえ武術の達人でもあったことから、「西国一」や「日無双」といった賞賛を送られています。 また、宗茂は生涯を通して忠義の精神を貫いており、戦乱の世において一度も人を裏切ったことがなく、この点でも豊臣秀吉や徳川家康といった為政者たちから高く評価されています。 この文章では、そんな宗茂の生涯について書いてみます。 【立花宗茂の肖像画】 高橋紹運の長男として生まれる宗茂は1567年に、大友宗麟に仕える高橋紹運(じょううん)の子として生まれました。 大友氏は北九州で栄えた戦国大名で、一時は九州の半分を支配するほどの勢威を誇っていました。 父・紹運はその大友氏の重臣であり、こちらも「名将」と呼ばれ

    立花宗茂 「日本無双」と呼ばれた名将の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/03/02
    歴史の読み物を更新しました。今回は立花宗茂についてです。
  • 豊臣秀次はどうして秀吉によって抹殺されたのか?

    豊臣秀次は秀吉の養子となって関白の地位についた人物です。 元々は秀吉の甥でしたが、秀吉に実子がいなかったことから重用されるようになり、成長するにつれて順調に地位が高まっていきました。 そしてついに天下人の後継者に指名されて関白に就任しますが、秀吉に実子の秀頼が生まれたことにより、その流れが反転します。 自分の立場が脅かされることを恐れた秀次は次第に健康を蝕まれ、秀吉との関係に軋轢を生み、やがて自害にまで追い込まれます。 この文章では、どうして一度は天下人になりかけた秀次が、秀吉に抹殺されてしまったのか、について書いてみます。 (なお、秀次は生涯のうちに何度も姓名が変わっているのですが、煩雑になるため、この文章では「秀次」で通して書いていきます。) 【豊臣秀次の肖像画】 秀吉の甥として生まれる秀次は1568年に秀吉の姉「とも」と、弥助という馬貸し業を営む男との間に生まれました。 幼名を治兵衛

    豊臣秀次はどうして秀吉によって抹殺されたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/02/16
    歴史の読み物を更新しました。今回は豊臣秀次についてです。
  • 歴史に見る「海の民」と「陸の民」の対立構造について

    アメリカを始めとする世界的な政治情勢の混乱の原因は、古代から連綿と続く沿岸部と内陸部の対立が、現代において先鋭化していることにあるのではないか、という仮説を考えた。 例えば日歴史においては、平安時代末期の源氏と平氏の抗争がこれに当たる。 源氏に属した勢力は、騎兵を中心とした陸上で戦う兵士によって構成されており、海上の扇を矢で撃ち落とした那須与一の物語は、その象徴だと言える。 海上でゆらぎ続ける扇を、馬上から弓矢で射落とすという「陸で育ったものが、馬の力を借り、すさまじい技量によって海と船を制する」ことを表しているこの逸話には、そのまま源氏と平氏の戦いのありさまが凝縮されている。 これ以前にも、平氏の大軍が、源氏の一族である木曽義仲と戦った際に、角に松明をくくりつけられた牛の大群に蹂躙されて敗れる、という挿話も平家物語で語られている。 これが史実かどうかはおくとして、馬にせよ牛にせよ、陸

    歴史に見る「海の民」と「陸の民」の対立構造について
    kenjou
    kenjou 2017/02/13
    歴史の知識をからめたエッセイ的な物を書いてみました。
  • 北条氏康はどうして河越夜戦で上杉憲政や足利晴氏の大軍に勝利できたのか?

    戦国時代に関東で勢力を広げていた北条氏康は、1546年に河越城を8万という大軍に包囲され、危機に陥ります。 これは関東管領の上杉憲政や、古河公方の足利晴氏が、北条氏討伐のために各地の諸侯に呼びかけ、兵力を結集した結果です。 対する北条氏の兵力は1万程度のものでしたが、氏康は果敢な奇襲攻撃によってこの大軍を討ち破り、関東における優位を確定させました。 この「河越夜戦」は後世から「日三大奇襲」に数えられ、戦国時代の代表的な戦いの一つとして知られることになります。 この文章では、どうして氏康は圧倒的な兵力差を覆して勝利できたのか、について書いてみます。 【北条氏康の肖像画】 戦いの背景 – 北条氏の武蔵への進出まず、この戦いが発生した背景から触れていこうと思います。 戦国時代の関東地方は、室町幕府より任じられた古河公方が中心となって、関東管領の上杉氏がそれを支える、という体制によって秩序が形成

    北条氏康はどうして河越夜戦で上杉憲政や足利晴氏の大軍に勝利できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/02/11
    歴史の読み物を更新しました。今回は北条氏康が1万対8万の戦力差を覆して勝利した「河越夜戦」についてです。
  • 毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?

    毛利元就は1555年に厳島で陶晴賢(すえはるかた)の大軍と戦い、これを討ち破りました。 元就はこの時、晴賢の4分の1程度の戦力しか持っていませんでしたが、巧みな戦術によって勝利しています。 この戦いをきっかけに毛利氏は飛躍し、やがて元就は中国地方8ヶ国もの太守となりました。 この文章では、元就はどうして戦力で劣りながらも陶晴賢に勝利できたのか、について書いてみます。 【毛利元就の肖像画】 毛利氏は大内氏に従属していた毛利氏は元就の代になるまでは、安芸(広島県西部)の一領主であるに過ぎず、近隣の大勢力である尼子氏や大内氏に従属することで、その勢力を維持していました。 元就は大内氏の傘下の時代に、出雲(島根県)に勢力を持つ尼子氏に攻め込まれて逆に討ち破ったり、小早川氏や吉川氏などの諸豪族の力を取り込むなどして、その名声と実力を高めていきます。 こうして大内氏の中で存在感が増していき、安芸の中心

    毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?
    kenjou
    kenjou 2017/02/07
    歴史の読み物を更新しました。今回は厳島の戦いについてです。
  • 武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

    武田信玄は甲斐(山梨県)を拠点として周辺の諸国に勢力を伸ばし、一大強国を作り上げた戦国大名です。 軍事や調略、内政や家臣団の統率にも優れており、武田氏を戦国最強と呼ばれる軍団に育て上げました。 上杉謙信と川中島で何度も戦火を交えたことでも知られています。 やがて信玄は徳川家康や織田信長を脅かし、上洛して天下を制することを目指すようになりますが、病のために寿命が尽き、その野心を達成することはできませんでした。 この文章では、そんな信玄の生涯について書いてみます。 【武田信玄の肖像画】 武田信虎の子として生まれる信玄は1521年に、甲斐守護の武田信虎の次男として誕生しました。 幼名は太郎といいます。 信玄には兄がいましたが、幼い頃に死去してしまい、これによって信虎の後継者になりました。 母は甲斐の有力な領主・大井氏から嫁いだ大井夫人です。 信玄が生まれる直前に、今川氏が甲斐に攻め込んで来ており

    武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/02/03
    歴史の読み物を更新しました。今回は武田信玄についてです。
  • 浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?

    北近江(滋賀県)の大名・浅井長政は織田信長と同盟を結び、京への上洛に協力しました。 しかし信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めたことをきっかけに決裂し、裏切って敵に回っています。 そして石山願寺や武田信玄と手を結んで包囲網を形成し、信長を大いに苦しめました。 やがて勢力を盛り返した信長に封じ込まれてゆき、最後には朝倉義景とともに敗れ、滅亡しています。 この文章では、長政はどうして信長を裏切り、滅亡を迎えることになったのかについて、書いてみます。 【浅井長政の肖像画】 浅井氏は六角氏に従属していた長政は1545年に北近江の領主・浅井久政の嫡男として誕生しました。 この頃の浅井氏は弱体化しており、南近江を支配する六角義賢に従属することで、その勢力を保っていました。 このために長政は若い頃、義賢から一字を拝領して賢政(かたまさ)と名のっています。 このあたりは今川義元に従属し、元康と名のってい

    浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?
    kenjou
    kenjou 2017/01/30
    歴史の読み物を更新しました。今回は浅井長政についてです。
  • 徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯

    徳川家康は三河(愛知県東部)の小領主から身を起こし、織田信長と同盟を結んで勢力を伸ばした人物です。 子どもの頃に人質になったり、武田信玄に苦戦したり、豊臣秀吉に臣従したりと数多くの苦難を経験しましたが、最終的には天下を制しています。 家康が開いた江戸幕府は長期安定政権として、264年に渡って平和な時代を築きました。 この文章では家康がどのような道のりをたどって天下人となり、世の安定のために尽くしたのか、について書いてみます。 【徳川家康の肖像画】 松平広忠の嫡男として生まれる家康は1542年に三河の小領主・松平広忠の嫡男として誕生しました。 幼名は竹千代といいます。 母の於大(おだい)は近隣の領主・水野忠政の娘でしたが、水野氏はやがて松平氏が敵対する織田氏と同盟を結んでしまいます。 このため家康が3才の時に離縁され、実家に戻されました。 こうして家康は、幼いころに母と生き別れになっています

    徳川家康 将軍となって江戸幕府を開いた男の生涯
    kenjou
    kenjou 2017/01/24
    歴史の読み物を更新しました。今回は徳川家康についてです。
  • 加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について

    加藤清正は豊臣秀吉に仕え、肥後(熊県)の大名になった武将です。 軍事だけでなく財務や内政、築城も得意としており、肥後の発展に大いに貢献しました。 民衆からの支持を受けて死後に神格化され、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれて親しまれ、今でも信仰の対象になっています。 晩年には豊臣氏と徳川氏との対立の緩和に尽力し、政治家としても成熟した姿を見せました。 この文章では、そんな加藤清正の生涯について書いてみます。 【加藤清正の肖像画】 秀吉の縁者として生まれる清正は1562年に尾張(愛知県)の中村で生まれました。 中村は秀吉の生地でもあり、母の伊都は秀吉の母・大政所の従姉妹でした。 このため、生まれながらにして秀吉との縁が深かったことになります。 父は加藤清忠という人物で、若い頃は斎藤道三に仕えた武将でした。 しかし戦場で負傷したことをきっかけに武士をやめ、鍛冶屋を営んでいました。 父は清正が

    加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について
    kenjou
    kenjou 2017/01/20
    歴史の読み物を更新しました。今回は加藤清正についてです。