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蜜月だった義満を相手に大内義弘が挙兵!なぜ応永の乱は起きた?
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蜜月だった義満を相手に大内義弘が挙兵!なぜ応永の乱は起きた?
応永六年(1400年)12月21日は、【応永の乱】により守護大名の大内義弘が敗死した日です。 戦国時代で「... 応永六年(1400年)12月21日は、【応永の乱】により守護大名の大内義弘が敗死した日です。 戦国時代で「大内氏」といえば、大内義隆を思い出される方が多いかもしれません。 義隆は、親しい部下だったとされる陶晴賢に【大寧寺の変】で殺され、その陶晴賢も【厳島の戦い】で毛利元就相手に敗死。 やがて中国エリアは毛利の一強時代となるわけですが、そこで滅ぼされるまでの大内家は、同地方でも最大クラスの勢力を誇っておりました。 ではなぜ没落したか? というと、この応永の乱にまで遡れるのかもしれません。 ※以下は大内義隆の生涯まとめ記事となります