エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
被爆と出自、70年近く隠し続けた。今なぜ、自身の名で被爆体験を語るのか。 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)Dialogue for People
記事へのコメント3件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
被爆と出自、70年近く隠し続けた。今なぜ、自身の名で被爆体験を語るのか。 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)Dialogue for People
頭を圧するほどの強烈な日差しが容赦なく降り注ぐ8月最初の午後。広島記念平和公園の木々の間からは、... 頭を圧するほどの強烈な日差しが容赦なく降り注ぐ8月最初の午後。広島記念平和公園の木々の間からは、耳の中でこだまするほどのセミの声が響いてくる。うだるような暑さの中でも、慰霊碑に手を合わせに来る人の姿が絶えない。いまだ引き取り手のない遺骨、7万柱が供養されている原爆慰霊塔の前に差しかかったとき、日傘を差しながらゆっくりと歩いていた李鐘根(イ・ジョングン)さんが、噛みしめるように語った。「あの混乱の中で、姉を探しに行くことさえできなかったんです。だからここを訪れる度、姉の名を呼ぶんですよ」。1945年8月6日、陸軍の被服支廠(ししょう)で働いていた鐘根さんの姉は、今も行方がつかめないままだ。 鐘根さんは16歳の時、当時勤めていた広島鉄道局に出勤途中、爆心地から約1.8キロの場所で被爆した。その体験を人前で証言し始めたのは、2012年、80歳を超えてからだった。「自分の体の火傷にね、ウジがわくん
2022/08/01 リンク