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武田勝頼が新府城を棄てたのは、穴山梅雪の裏切りが直接の理由ですか。もともとは、織田の侵攻に対して備える目的で築城された新府城ですが、在城2... - Yahoo!知恵袋
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時系列で見ると、 2月28日 勝頼が諏訪から新府城へ撤退。 3月1日 穴山梅雪が裏切る。 3月2日 高... 時系列で見ると、 2月28日 勝頼が諏訪から新府城へ撤退。 3月1日 穴山梅雪が裏切る。 3月2日 高遠城落城。 3月3日 織田軍が諏訪まで侵入。 勝頼は都留郡の岩殿城に後退することを決める。 3月4日 徳川軍、甲斐に侵攻。 武田軍は諏訪では一万数千いた兵が、新府城に着いた時には僅か千人あまりに激減していました。 新府城は巨大な城で、少数の兵で守るのには向いてないことや、高遠城は守備兵が三千いたのにも関わらず半日で落とされているため、千人では無理だと判断したと思います。 そこで勝頼は、従兄弟でNo.2の武田信豊に信濃の小諸へ向かわせ北信濃と上野の兵力を集結させるよう指示します。 勝頼自身は織田徳川軍から距離を取り時間を稼ぐとともに、甲府と都留郡の兵力をかき集め体制を立て直すことを考えたと思います。 というわけで、勝頼が新府城を捨てた理由を考察すると、 ①新府城に到着した時点で兵数が激減して