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瞑想と悟りの醍醐味、あるいは「ぼく」に降りてきているものの「凄さ」と「ダサさ」について - *魂の次元*
仏教では「無我」を説きます。 ふだん自分と思っているものは、よくよく吟味すると、独立し ていて、恒... 仏教では「無我」を説きます。 ふだん自分と思っているものは、よくよく吟味すると、独立し ていて、恒常的に「自分」と呼べるようなものではない、というわけです。 ですから「ぼく」が考えたり、感じたりしていることも「ぼくの考え」、「ぼくの感覚」ではなく、客観的な表現をすれば「この体に起こっている考え・感覚」ということになります。 ヴィパッサナーと呼ばれる初期仏教の瞑想を練習していると、このような「理解」が体験的なレベルで生まれてきます。 ある程度まとまった時間、瞑想の練習をしていると、「さっき浮かんだ考えも、今感じてる感覚も、大空に浮かぶ雲のようなもので、ただやってきては去っていくもので、それが自分だと思う必要はないんだな」というような実感が生まれるわけです。 瞑想というものによって、自分に対するとらわれに気づき、そこから離れる自由に生きる可能性を生み出すような「実感としての理解」が得られること
2019/09/16 リンク