今日はエルビスさんからのリクエストでインドの宗教の話です。 まず、バラモン教は初期のヒンズー教という理解でいいようです。 ヒンズー教は、インドの宗教の総称的なもので宗派により様々に異なるのですが、ここでは仏教と比べるために、アドヴァイタというインドの世界観を取り上げることにします。 アドヴァイタは不二一元論と訳されますが、この世界全体がブラフマーと呼ばれる単一の実在の現れであるという考え方です。 月も太陽も、あなたもわたしも、すべてはブラフマーという神あるいは宇宙原理の現れなのだと考えるのです。 そして現れているものは、いわば幻なのだとします。 ブラフマーがたまたまその形を取っているだけで、そこには物事の本質はないと考えるのです。 するとぼくたちが普段自分だと思っているものも幻にすぎないことになります。 このとき自分というものを詳細に見ていくと、自分の心の奥底に不変の実体が見えてきて、それ
仏教では「無我」を説きます。 ふだん自分と思っているものは、よくよく吟味すると、独立し ていて、恒常的に「自分」と呼べるようなものではない、というわけです。 ですから「ぼく」が考えたり、感じたりしていることも「ぼくの考え」、「ぼくの感覚」ではなく、客観的な表現をすれば「この体に起こっている考え・感覚」ということになります。 ヴィパッサナーと呼ばれる初期仏教の瞑想を練習していると、このような「理解」が体験的なレベルで生まれてきます。 ある程度まとまった時間、瞑想の練習をしていると、「さっき浮かんだ考えも、今感じてる感覚も、大空に浮かぶ雲のようなもので、ただやってきては去っていくもので、それが自分だと思う必要はないんだな」というような実感が生まれるわけです。 瞑想というものによって、自分に対するとらわれに気づき、そこから離れる自由に生きる可能性を生み出すような「実感としての理解」が得られること
前々回仏教をめぐる言葉の問題④ - 瞑想集中治療室 の最後で少し触れましたが、『スッタニパータ』のような最古層の韻文資料を 含む経典において語られているのは、素朴な形の四聖諦と八正道です。 それを要約するとこのようになります(道の部分は八正道に対応させています) 苦:種々の煩悩が生まれる=苦しみ 集:(ナーマ・ルーパに対して)執着する→煩悩が生まれる→苦が生じる 滅:(苦の原因を知り)執着から離れる→煩悩がなくなる→苦が消滅する 道:執着や煩悩を正しく知り(智慧、正念、正知、正見) 煩悩や執着の起こるような状況から離れる (出家、持戒、正思、正語、正業、正命、正精進) 静かなところで過ごし心を統一する(独坐、禅定、正定) これらの実践は基本的に苦がどのように生じ、苦をどのように制し修め滅していくかを といたもので、すくなくともここでは「無常」と「無我」という二つは 説明上必要のない概念です
このゴールデンウィークにタイのスカトー寺、およびウィリヤダンマ・アシュラムで修行と指導に励む僧侶方が来日し、関西と北陸で瞑想会や法話会が開催されました。 私は5月5日に石川県かほく市で行われた「気づきの瞑想会(チャルーン・サティ)1日瞑想会」に参加しました。 気づきの瞑想会(チャルーン・サティ)1日瞑想会 日時 2019年5月5日(日・祝) 10:00〜16:00 場所 石川県西田幾多郎記念哲学館 指導僧侶 スティサート・パンヤーパティポー師(スカトー寺副住職/ノース師) サンティポン・ケーマパンヨー師(トゥム師) 進行 浦崎雅代さん(翻訳家) 上の写真の左からノース師、トゥム師、ジョー師、浦崎さん。 タイの僧侶は出家順に左から並んでいきます。 大学を卒業後、すぐに出家され僧歴19年のノース師が一番左。大学卒業後は建築デザインの世界で活躍され、50歳を越えてから出家されたトゥム師は僧歴16
マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想に興味のあるあなたに朗報です。 瞑想って実はとっても簡単で、しかも効果抜群なんです。 なにしろ、 気が向いたときに「鼻から三回深呼吸する」、 たったこれだけのことを続けていけばいいんですから。 簡単すぎて、信じられませんか? それではもう少し詳しく見ていくことにしましょう。 ※なお、この記事ではマインドフルネスもヴィパッサナーも含めてすべて瞑想と呼ぶことにします。 なぜ鼻で三回深呼吸するだけで、頭がすっきりするのか? 判断せずに今を受け入れる。瞑想の長期的な目標は「好き嫌い」をなくすこと。 「好き嫌い」がなくなったら、人生味気なくない? なぜ鼻で三回深呼吸するだけで、頭がすっきりするのか? 瞑想の効果にはいろいろなものがありますが、たとえば、 頭がスッキリする、 頭の回転がよくなる、 気持ちが落ち着く、 自分に自信が持てるようになる、 といったことが挙げ
どうしてマインドフルネスの練習をすると人生が楽しくなって、仕事もできるようになるのか、今日は超絶簡単に説明してみます。 好き嫌いをなくせば、人生は楽勝モードになります。 なぜ「好き嫌い」をなくすと、「悩み」もなくなるのか。 「好き嫌い」をなくすなんてできるの? 「好き嫌い」をなくしたら、人生味気なくなりそうなんだけど……。 はじめは3回の深呼吸だけでオーケー。マインドフルネスの練習の基礎の基礎。 仏教と瞑想・ヴィパッサナー・マインドフルネスの関係。 最後にひとつだけ注意点を。魔境に入り込まないために。 好き嫌いをなくせば、人生は楽勝モードになります。 マインドフルネスという方法論は、 「今自分に起こっていることを、価値判断せずにただ観察すると、悩みはやがて消え去っていく」 という、あまりに簡単すぎて 「いきなり信じろと言われても困っちゃうなー」 的な人間心理の原則にもとづいています。 「価
日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。 日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。 佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎のブッダ像 前で) Q1 こちらの協会では、ヴィパッサナー瞑想を指導しているそうですが、なぜ、今、注目されているのですか。 ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想とも言われます。経典に使われるパーリ語から説明しますと、「ヴィ」というのは「よく・詳細に」、「パッサナー」は「観る」と
ヴィパッサナー瞑想は「気づきの瞑想」と呼ばれますが、瞑想する目的は気づくことそれ自体、あるいは気づきによって何かを「悟る」ことではなく、「今この瞬間に心を置き続けられるようになる」ことなのではないか――最近はそんな風に思うようになりました。 今この瞬間に心を置き続けられれば、悩みや苦しみの大半はなくなります。なぜなら、悩みや苦しみは、本質的には過去と未来にしか存在し得ないものだから…。 けれど、言葉にすれば簡単な「今この瞬間に心を置く」ということが、実はとても難しい。感情への執着を自由に手放せるようになってはじめて、「"今ここ"こそが涅槃である」という言葉が現実的な響きを帯びてくる。 それは、チルチルとミチルが大冒険の果てに「幸せの青い鳥は実は自分の家にいた」と気づいたことに、どこか似ているような気がします。 修行を通じて何かをつかもうとするな、どこかにたどり着こうとするな…とはよく言われ
思考することと「今」に意識を置くことは、トグルスイッチで切り替えられる電気回路の流れに似ていると思います。 思考モードにはまっている時は、「今」に意識を置けていない。今、この瞬間に留まっている時は、思考は姿を潜めている。 瞑想実践を始めたばかりの頃、このスイッチはほとんどの時間「思考」側に倒れていました。そのうちに目まぐるしくオンオフを繰り返すようになり、最近は自分の意思でどちらかに倒すことができるようになりつつあります。 道を歩いている時、キッチンで皿を洗っている時など、ふと気づくと思考モードにはまっていることがある。それが必要な思考であれば考えるべきことだけ考えて、考え終えたら「思考したい」という欲を手放すことでスイッチを「今」の側に倒すのです。 「今」に意識を置き続けるということは、思考したいという感情への執着を手放し続けるということでもあるかもしれません。 瞑想修行とは、究極的には
ヴィパッサナーで観る対象は、大きく四つある。 一つ目は身体、二つ目は感覚、三つ目は心、四つ目は法。身体を観るのは身随感、感覚を観るのは受随感、心を観るのは心随感で、法を観るのが法随感。 私が漫才師なら「そのまんまやんけ!」とツッコミを入れるところだが、ともあれ一般にはそのように呼ばれているようだ。 四つといってもこれらは全て関連しているため、どれか一つを特に選んで「今日は受随感で行こうっと♡」…というような事ではない、と思う。 そういうやり方も出来るかもしれないが、苦から自由になろうという目的から考えて、身体や感覚や心だけを眺めることにあまり意味はないだろう。ヴィパッサナーの理論をきちんと学んだわけではないのであくまでも私的体験からの推測ではあるが、人を苦しみから自由にする鍵は、多分4つ目の「法」が握っている。そして、この「法」は身体、感覚、心をまとめて観察することによって観えてくるものな
私は数か月で高校を中退してからバイト歴もなく家にいるニートで、もう三十路目前です。 不登校になるきっかけは、今思えば些細な事の積み重ねでした。 人間関係が築けず孤立したこと、慣れない運動部で疲弊したこと、私の珍解答を晒した教師への反感、 ちょっとした病気になって学校を休んだこと、成績が悪化したこと、それで通えなくなりました。 私の小中学校時代の唯一のとりえが学力でした。塾に通っていたのと少しだけ早熟だったおかげでしょう。 コミュニケーション能力が低くとも、どんくさくても、友達が少なくても、性格が少し歪んでいようとも、 学級委員に立候補すれば自分の場所を確保できました。将来は学問を仕事にできればと思っていました。 アイデンティティをなくした当時の私は家で勉強に専念することを考えていました。 すぐに高卒認定をとって、大学受験の参考書を揃えましたが、自分で継続して勉強することは難しい。 知り合い
怠けとは欲である、という話を聞いたことがある。 人は気力が出ない、動くエネルギーがないから怠けるのではなく、「何もしないという状態にとどまっていたい」という欲に動かされ、強大なエネルギーを傾けて怠けている、というようなことだ。 「怠けは欲だ」とおっしゃっていたのはのはスマナサーラさんという初期仏教の僧侶の方なのだが、それを読んで、なるほど、それは確かにそうかもしれないと膝を打った。 Amazonのレビューを見ると、スマナサーラさんの本の読者は強烈なシンパと強烈なアンチに別れるようだが、個人的にはこの方の書かれるものは結構好きである。 仏教にかけられていた神秘のベールを剥ぎ、私のような一般の読者にもわかる形で提示したのは、この方の大きな功績なのではないかと思う。 ライターとしての私のテーマは「難しいことを分かりやすく」であり、そういう点でもこの方の御著書には学ぶところが少なくない。 それはさ
般若心経というお経があります。 このお経の内容をひと言で説明すると、「この世のすべては空(くう)である」ということになります。 と、そのように言うことは簡単なのですが、ここで「空とは何か」というのが難しいところで、というのも、これは言葉では説明できない、自ら経験して、体感しなければならないことだからなのです。 もちろん般若心経の中でも「空」とは何かが説明してあり、例えば「無老死亦無老死尽」とあります。 これは「老死もなく老死が尽きることもない」と読むわけですが、これが「老死は空である」ということの説明になっています。 ふつうに「空」というとき、例えば「空洞」という言葉は「中が空っぽ」ということですから、「中がない」ということです。 けれども、般若心経が説明するのは、あるものが「空である」ということは、それが「ない」と同時に、そのないものが「尽きることもない」というのですから、普通に考えれば
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