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源平合戦で木曽義仲の活躍支えた「謎の参謀」正体
治承4(1180)年9月、信濃国の木曽義仲は挙兵し、平家方の武将を次々と破っていく。越後の豪族・城氏を... 治承4(1180)年9月、信濃国の木曽義仲は挙兵し、平家方の武将を次々と破っていく。越後の豪族・城氏を横田河原合戦(信濃国)で破り、寿永2(1183)年には、越中国の砺波山で平維盛(平清盛の孫)率いる北陸追討軍と激突することになる。 勢いにのる義仲は信濃にありながら、越前国に「火打城」を築かせる。『平家物語』によるとその数6000余騎、平泉寺の長吏(寺の長)、斎藤太、林六郎、富樫入道らが城に立てこもったという。彼らは、横田河原合戦後に義仲の直属の家来になった。義仲は、彼ら北陸の武士たちに火打城を守らせ、平家の大軍の侵攻に備えようとしたのである。 平家の軍勢は城を囲むも、城の前後は山で、川も流れている天然の要害であったので、容易に攻めることはできず、日数が経つばかりであった。 平泉寺の長吏・斎明の裏切りで落城 勝敗はその後もなかなか決しないかに見えたが、城内にいた平泉寺の長吏・斎明が実は平家