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信用創造はなぜ打ち出の小槌ではないのか──まともなマクロ経済論議のために - 経済学と会計学のあいだ
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意外と知られていない銀行と国債のしくみ:中野剛志「奇跡の経済教室」最新講義第3回 |BEST TiMES(ベ... 意外と知られていない銀行と国債のしくみ:中野剛志「奇跡の経済教室」最新講義第3回 |BEST TiMES(ベストタイムズ) 最近上の記事のような議論をよく目にします。*1それはこういうものです。銀行がお金を貸すというのは数の限られた金の延べ棒を渡すのとは違って、貸し付ける行為自体が預金を作り出すので、貸し付けるためのお金が枯渇することはないのだと。だから返済能力にまず間違いがない相手──例えば政府──にはいくらでもお金を貸すことができるし、それによって民間への貸付が減ることもなければ、金利上昇の原因にもならないのだと。なぜなら金の延べ棒はある人に渡してしまえば別の人には渡せないけれども、預金は通帳の数字に過ぎないので、ある人に貸したからと言って別の人に貸せなくなることはない(むしろ貸しただけ増える)から──と、こういう議論です。そしてこの手の議論はしばしば、古典派経済学は金の延べ棒を貸し出