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明智光秀による本能寺の変 足利義昭黒幕説も「なぜ」を問う議論は続く
明智光秀が本能寺の変に踏み切った理由についてはかつて、信長に辱められた「怨恨(えんこん)説」や天... 明智光秀が本能寺の変に踏み切った理由についてはかつて、信長に辱められた「怨恨(えんこん)説」や天下取りの「野望説」など、個人的な視点で理解されていた。しかし近年は研究が進み、織田政権内部の対立や戦国大名らとの関係の中で発生したとの解釈が重視されるようになってきている。 3年前、岡山市の林原美術館での石谷家(いしがいけ)文書の発見は、信長が四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏への対応を変更したことを機に、長宗我部氏との交渉担当だった光秀が面目を失い、進退窮まって変を起こしたとする「四国説」を浮上させることとなった。 さらに今回の書状から、光秀は最終的に足利義昭との連携を構想していたと読むことができる。 本能寺の変のあと、光秀は畿内や安土城のある近江の平定を目指したが、頼みとする細川藤孝(ふじたか)(幽斎)や筒井順慶は協力を断ってきていた。 孤立状態の光秀としては、かつての主君でもあった義昭を戴(
2017/09/12 リンク