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柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12) - 大和徒然草子
1507(永正4)年の細川政元暗殺(永正の錯乱)から始まる細川京兆家家督を巡る争いで、ライバルの細川澄... 1507(永正4)年の細川政元暗殺(永正の錯乱)から始まる細川京兆家家督を巡る争いで、ライバルの細川澄元を阿波へ撃退した細川高国は、10代将軍・足利義稙をも京から追い出して新将軍・足利義晴を擁立するなど、20年にわたって京都で政権を握りました。 しかし、家中の内紛から1527(大永7)年に高国政権は内部から崩れ、阿波に逼塞していた細川澄元遺児・晴元と三好元長が桂川原の戦いで将軍・義晴と高国を撃破すると、義晴、高国は近江へ逃亡。 高国政権は崩壊して晴元方が京都の支配権を握り優勢となります。 高国政権崩壊により高国の意向で結ばれた筒井氏と越智氏の同盟はほころびを見せ、1529(享禄元)年に筒井順興は領土的野心から河内の畠山稙長と結んで越智領へ侵攻。 再び筒井と越智の抗争が再燃しました。 柳本賢治の大和侵攻 梟雄・木沢長政の登場 天文の大和一向一揆 参考文献 柳本賢治の大和侵攻 桂川原の戦いで将
2023/08/25 リンク