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邪馬台国から白村江の戦いまで概要・後編 - 横から失礼します
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邪馬台国から白村江の戦いまで概要・後編 - 横から失礼します
現状私の考える、邪馬台国から白村江の戦いまでの大まかな流れの話・後編です。 分かれた後 九州に残っ... 現状私の考える、邪馬台国から白村江の戦いまでの大まかな流れの話・後編です。 分かれた後 九州に残った勢力は 畿内の大和王朝は 遣隋使、遣唐使、そして白村江の戦いへ 分かれた後 前回は、九州の邪馬台国が、畿内と九州に2つの勢力に分かれるまでを考えました。 yokositu.hatenablog.com 今回は、その後の白村江の戦いまでの流れを考えてみます。 九州に残った勢力は 九州に残った勢力は、当然大陸からの侵攻に備えたはずです。 しかし、結局侵攻されることはありませんでした。 そういった状況の中、九州に残っていた亡命者から、奪われた地の奪還の機運が高まります。 それによって行われた朝鮮半島への侵攻が、高句麗の「広開土王碑」に記録されている倭による侵攻と考えます。 朝鮮半島南部から侵攻し、百済、新羅を勢力下におきますが、最終的に高句麗に敗退することになります。 その後に、朝鮮半島南部の権益