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  • 座談会 岡倉天心と近代の日本美術 情報紙「有鄰」No.390 P2 - 隔月刊情報紙「有鄰」

    岡倉天心は横浜の生まれといわれ、若くして東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)の校長となり、その後、日美術院を創設し、またボストン美術館に勤務して日米間を往復、『東洋の理想』や『茶の』など、英文の著作を通じてアジアを擁護し、日の伝統文化を世界に紹介するなど、幅広い業績を残しています。 ここ二、三年の間に天心に関するさまざまな研究が出版されていますので、それらの最新の成果を伺いながら、天心の人物像をご紹介いただきたいと思います。 ご出席いただきました青木茂先生は幕末明治期の洋画を中心にご研究で、以前『神奈川県美術風土記』の中で「岡倉覚三と横浜」という論文を執筆しておられます。 中村愿さんは『岡倉天心全集』全九巻(平凡社)の編集に際して資料収集に携わり、昨年『美の復権−岡倉覚三伝』をまとめられました。 森田義之先生はイタリア近世美術をご専攻ですが、茨城大学五浦(いづら)美術文化研究所長

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    haruhiwai18 2024/03/29
    "大学の卒業論文に国家論を書いたところ、提出間際に妻の基子が焼いてしまったので、急遽、美術論を書いて提出したといいます。これは、私は一雄さんの創作ではないか"  →「座談会 岡倉天心と近代の日本美術」
  • 情報紙『有鄰』No.416 P3 - 隔月刊情報紙「有鄰」

    これは株と同じで、僕の集めているのは関東大震災の前、東京大空襲の前というのが基なんです。これは両方の大火災に燃やされて物がないんです。 一番最初は浮世絵から入ったんだけど、浮世絵の世界では、たとえば、僕の好きな新版画の川瀬巴水の絵で言えば、大正十二年の前は高くて、十二年の後はガタンと下がるんです。なぜかというと、震災前に巴水が描いていたのは、焼けてほとんどない。震災後はまだ出回っているんです。ところが、東京大空襲でまたなくなっているけど、それはしようがない。だから、震災前のは少ないというのに気がついたんです。

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    haruhiwai18 2018/08/24
    "医者から「…絵でも見て少しのんびりしなさい」と言われたので、骨董屋にたのんで、どんどん病室に持ち込ませた。病院から「うちは骨董屋じゃない」と怒られましたよ(笑)。" →面白い(こなみ
  • 有鄰 No.441 P1 「横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱」 - 隔月刊情報紙「有鄰」

    昭和20年夏、といってもピンとこない人が多くなった。 近頃の若い人ほとんどが西暦を使っている。 昭和20年夏はつまり1945年夏、いまから59年も前の遠い昔のことになる。 この間ずっと平和の空気だけを満喫している若い人たちには、アメリカをはじめ世界の国々を敵として、日人が3年7か月以上も戦った太平洋戦争のあったことなど、信じられない夢物語ということになろう。 その年の8月、東京も横浜も、米空軍のB29の爆撃により、見渡すかぎりの焼野原になっている。 敗北は決定的となっている戦闘であったが、やせ衰えた人々は、その瓦礫の上で眼だけはギラギラと光らせ、なお”徹底抗戦あるのみ”と闘志をみなぎらせていた。 しかし、昭和天皇の強い意思表明もあり、日政府は14日昼には御前会議の決定にもとづき、降伏によって戦争を終結することをひそかに決定した。 そしてそのことを天皇じきじきのラジオ放送を通して、翌15

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    haruhiwai18 2015/07/28
    "が、そのときには、リーダーの佐々木元大尉の姿は完全に消えていた。 大尉は放火の法廷時効を迎えるまで15年間も地下に潜っていたという。" →民間人を参加させておいて、自分は逃走かました国粋主義者の例。
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