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  • 正岡子規は赤福餅の俳句を詠んだのか?: 正岡子規 病牀六尺の青春

    伊勢土産として有名な赤福。つい先日、包装紙に100年以上に渡って使われてきた正岡子規の「到来の赤福もちや伊勢の春」という俳句に裏付け資料がないと指摘され、店が情報提供を呼びかけているとの報道がありました。 朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASK8S777MK8SPFIB00M.html 気になったので愚陀仏庵の話はお休みして、子規が赤福の句を詠んだのかどうか考えてみました。 赤福では1911(明治44)年から子規の俳句に使っていて「1900(明治33)年、門弟の山勾玉から赤福を土産に受け取った子規が、ありし日の伊勢参りを懐かしんでこの句を詠んだ――。そんなエピソードが創業家で語り継がれ、赤福のホームページでも紹介」していながら、肝心の俳句が子規の作品だとする資料がどこにもないことが分かったというお話です。 「買ひにやりけり春の伊勢旅籠」

    正岡子規は赤福餅の俳句を詠んだのか?: 正岡子規 病牀六尺の青春
  • 子規・漱石 愚陀仏庵の52日②松風会が門下に: 正岡子規 病牀六尺の青春

    前回に続いて愚陀仏庵のお話です。正岡子規と夏目漱石が同居生活を送った愚陀仏庵は松山の中心部二番町というところにありました。建物そのものは太平洋戦争中に消失しています。旧松山藩主久松家の別荘萬翠荘(松山市一番町、坂の上の雲ミュージアムの近く)の敷地内に復元されていた愚陀仏庵は2010年に土砂崩れで全壊してしまいました。再建しようという話も持ち上がっていますが、どうなっているかはよく分からないです。元々愚陀仏庵があった場所は駐車場になっています。 漱石は明治28(1895)年4月に帝大卒の英語教師として松山中学に赴任。旧松山藩士上野義方宅の離れ(愚陀仏庵)で下宿を始めたのは6月下旬でした。当時の漱石の月給は校長の60円を上回る80円。子規の月給はMAXが40円でした。 俳句を作り始めようと思っているところだ子規の帰郷は8月25日。いったん叔父の大原恒徳の家に腰を落ち着けます。彼の帰郷を待ってい

    子規・漱石 愚陀仏庵の52日②松風会が門下に: 正岡子規 病牀六尺の青春
    kanakanabun35
    kanakanabun35 2017/08/31
    松山は子規より、漱石で売ってる印象。野球と言えば子規だろうに坊っちゃん球場だし、坊っちゃん文学賞、坊っちゃん団子…坊っちゃんだらけ。
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