ブックマーク / fktack.hatenablog.jp (23)

  • ノルウェイの森感想 - 意味をあたえる

    休みでノルウェイの森を最後まで読んだ 私がこの小説を初めて読んだのは19歳か20歳のときでその後もちょこちょこ読んだりした気がするがあるときから私は村上春樹断ちをしていたのでものすごく久しぶりに読んだ 印象は違った 若い頃に読んだときは主人公ワタナベが気障(あるいは傲慢)にかんじたが今読むと誠実さをかんじたしときには気の毒に思う場面もあった 私が好きなのは直子が死んだ後に日中をさまよい歩いてあるとき出くわした若い漁師に「なんで泣いてるんだ?」と訊かれ「母親が死んだから」ととっさに嘘ををつくシーンで好きというか印象に残ったシーンで私は騙されて寿司をべさせたり四つ折りにした五千円札を渡す漁師に同情をおぼえたがやはりこのシーンもワタナベがかわいそうになった というか大切な人をうしなったという点では嘘ではないのだ しかしその五千円でちゃっかり東京行きの切符を買うワタナベもワタナベなのだが 後半

    ノルウェイの森感想 - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2019/04/15
    ワタナベが乗るドイツへ向かう飛行機は外交官の永沢さん会いにいっているのでは、というのが誰かの考察がおもしろかったです。永沢さんはワタナベにそれらしいこと告げていて、なるほど思いました
  • こだわり - 意味をあたえる

    何日か前に読んだ記事でその人は小学低学年のころを思い出していて一辺1センチの正方形の対角線の長さを測ったら1.4センチだったが他の多数は1.5センチであったが教師は多数のほうを採用しその人は邪険にされた。こうしてかいつまんで書くと嘘っぽいがクラスの中の声の大きな人が「こうだ」というと主張すると全体がそれになびいてしまうことはよくあった。あっただろうか? 記事を書いた人はこうしたことは社会にでるとむしろ当然のことであり正しいが少数の人はその正しさを他の人に納得させられない限り後にその正しさが明るみに出てもむしろそのときに他を納得させられなかったから責めに帰されるという。私はなんだか話がつながらないし腑に落ちる内容ではなかったがいくら「責められて当然」という話の分かる風な顔をしていても内面ではだいぶこだわっている風がかんじてとれた。 私にも同じような経験がありこれは昔かいた小説にも書いたが中学

    こだわり - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2017/09/09
    女子が「大丈夫だから」、のところで女子大生というキーワードが浮かんできて何だかなあ、と思った
  • 文章力の筋トレと重量上げ - 意味をあたえる

    もっと一杯舞って頂戴 - 母父トニービン 昨日あじさいさんのブログを読んでいたらタイトルの言葉がでてきて気に入ったので使わせてもらいます。そうやってムキムキマッチョになった先には何があるのだろう。 こうした物書きの運動への比喩は無理があると思っているが「走り込み」だけはなんとなくわかると思っているがそれは村上春樹が言っていたからという理由だけでその記憶がなければ「走り込み」も無理あるとかんじる。逆に村上春樹が「文章の重量上げ毎日欠かしたことはありません」と言ったら私は賞賛するだろう。私はミーハーなのである。 一方で私はズレをかんじる。ズレとはよく匿名の記事などに「素晴らしい文章」という褒め言葉が記されることがあるが私は何が素晴らしいのかよくわからないことが多々あるのである。私はたくさん読み物をしたからそういう感覚が麻痺しちゃったのかもしれない。てにをはがしっかりしているのが良い基準なのか。

    文章力の筋トレと重量上げ - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2017/07/13
    比喩に関する言及が好きですね
  • 子供がかわいいとはあまり思わない - 意味をあたえる

    他人が子供を連れてきたら「かわいい」と褒めるのが社交辞令みたいな記事があって読んでそういえば私はあまり子供をかわいいとは思わないことに気づいた。だからと言って積極的に嫌悪を抱かないが他人の子なら「ああ面倒くさい」とか「関わりたくない」と思う。子供は手がかかるし未熟だから自分でもそれが当然だと思っていて王様のように振る舞うからである。私は決して下僕ではないから自分のプライドを守るためにそこのところをわからせたいと思うがそうすると周りからは変な目で見られる。あるいは私がそういうことを主張するとみんなは冗談だと思って笑うのである。確かに100パーセントマジかと言ったらそれは嘘になるが割と私は気で「お互いを尊重しようぜ」みたいなことは言う。気だから当然幼児語赤ちゃん語などは使わない。そういうのは場合によっては相手を下に見るような態度にとられるからである。 私はそういえばかなり幼いころから子供が

    子供がかわいいとはあまり思わない - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2017/05/15
    母も昔から幼い私に、あたしは子供が嫌いと言っていました
  • こんな能力が - 意味をあたえる

    一昨日の記事で犬に絡まれる若い母子というのを書いたが(昨日だったかもしれぬ)そういうことを思い出すと私は多くの人と同じように (あの母子は今何をやっているだろうか) と思いそれがわからないことに奇妙さをかんじる。おそらく子供はもちろん母親も何十年も前に野良犬にからまれたことなんて忘れてしまっただろうがそう考えるとますます奇妙だ。私は記憶というものが自分の中で完結してしまうことに不自然さをかんじる。 なので私がひとつ超能力が得られるとしたら思い浮かべた人の近況がわかるみたいな能力が欲しいと思う。欲しくはないがあればもっと日々の違和感がなくなってすっきりする。近況がわかるというのはよくある透視能力のようなリアルタイムで精緻なものではなくてお盆に親戚のおばさんが噂話でするようなレベルのわかるである。「あのときの子は去年結婚したんだよ、嫁さんはなんとか村の」みたいな。不明瞭だったり要領がつかめなか

    こんな能力が - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2017/04/08
    近況がわかるというのはよくある透視能力のようなリアルタイムで精緻なものではなくてお盆に親戚のおばさんが噂話でするようなレベルのわかるである /
  • 会話 - 意味をあたえる

    小説の会話のリアリティについて私は思うことを書くがまず初めに思いついたのは小島信夫の「寓話」であの中で小島と森敦の会話が出てくる。森敦も実在の人物で小島と「寓話」の内容「あそこが傑作だったね」みたいな話をする。の中でタイトルと同名のが出てくるときというのは一般的にそもそものタイトルがそのものを指していなかったりまたはの中のはまったく別物だったりして数学で言うゼロ除算とかなんとか参照を避けようとするが「寓話」に出てくる寓話はそのものである。じゃあどうやって矛盾を避けるのかというと寓話は雑誌に連載されていたので前月号の内容について二人は話すのだ。考えてみると単純な原理だがこういうことを大真面目にやっている小説は読んだことがない。「コロコロコミック」とかだとマンガの中でその漫画を読んだりしている描写が出てきてアハハとなる。しかし寓話はアハハとならない。奇妙な小説である。 二人が電話で

    会話 - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2017/03/01
    瞬間的に思うことがよくあります。特に最後の「調子がいいと嘘がばんばんかける。」というところ。それでもなおそれが、日記ではないブログの中でのみ成立しうるフィクションの在り方かな、と思っています
  • ダメなものはダメ - 意味をあたえる

    橘玲「言ってはいけない(新潮新書)」を読んだ。このは副題が「残酷すぎる真実」となっており、また帯には「このの内容を気安く口外しないでください」と書いてあるが、私としてはそこまでショッキングな内容というわけではなかった。ピンとこないぶぶんもあった。だけれども確かに家族や友人に気軽に話す内容でもないと思った。結論として「ダメなものはダメ」というふうになりやすく、話しても空しくなるからだ。 私はおそらく十代のころから普通に「努力してもダメなものはダメだ」という風な感覚で生きてきたが、私以外の人がその言葉を口にすると無性に腹が立った。理由を考えると「(ダメなものはダメなんだから)努力しても仕方ない」と、後ろ向きな捉え方をして、やけっぱちになったり、生きていても意味がないみたいな雰囲気になるからである。すると、私はこの「ダメなものはダメ」を前向きに捉えている節がある。 理由を考えてみると、私は1

    ダメなものはダメ - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/12/16
    気になっていたあの本
  • 勧進帳 - 意味をあたえる

    子供とテレビを見ていたら、市川団十郎が子供向けに勧進帳の説明を行っていた。なぜならそれは子供向けのチャンネルだったからである。その前は長を履いたを、見たことのない俳優が半分ひとり芝居で演じていた。半分、とはたまにアニメーションを挟むという意味合いである。巨人を騙してネズミに変身させ、はネズミをべてしまう。私の記憶ではノミに変身させて足でつぶしていたような。混濁であろう。 私は市川団十郎とその息子についてかなり胡散臭い印象を抱いており、子供向けに優しい口調でストーリーと歌舞伎について語られていたが、どこかて私の子供を騙そうとしているんじゃないかと、気が抜けなかった。勧進帳という話自体も、私は義経に対してあまり良いイメージを持っておらず、それは手塚治虫の「火の鳥 乱世編」の影響であるが、高校三年の日史の先生も 「義経はアカン」 みたいな主張を当時していた。日史の教師はまた、 「銀行

    勧進帳 - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/11/15
    勧進帳と聞くと、池上さんが記者時代に先輩から目一杯叩き込まれた、事件内容の伝達方法に関してを思いだします
  • 連帯責任 - 意味をあたえる

    【連帯責任】自分は掃除をサボらなかったのに「悪かった点」を書けと言われ「反省点はない」と書いた結果 - Togetter 上記のページに出てくる「欠点のない少女」というのは、私が以前読んだ保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」の冒頭に出てくる、教師の 「大昔とはいつか?」 との質問に、 「お母さんのお母さんのお母さんのお母さんが生まれる前」 と答えた少女に似ていると思った。というか、同じカテゴリーである。上記のページに出てくる少女は、教師の「反省点を挙げよ」の問いに「反省すべき点はない」と答え、吊し上げられた。明らかに教師は苛ついている。一方大昔の方の少女もお母さんのお母さんのお母さんのお母さんが生まれる前、という答えに冷ややかな反応をされたという。教師は「○○年前」のような答えを期待して生徒に問うている。その答えを読み取れない人とは、すなわち社会不適合者なのである。学校という装

    連帯責任 - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/11/03
    おもしろき
  • 引き剥がせないわたし - 意味をあたえる

    一昨日こちらの記事を読んで、私も同じ風に考えている、と思った。しかし意味合いは違うのかもしれない。私は物心ついてすぐくらいから、どうして自分が自分以外にありえないのか、奇妙であった。台所の換気扇の近くの椅子を見つめながらネストする自分という枠にくらくらした。椅子は私(居間)の方を向いており、そこは父と母の喫煙席でもあった。元はどこでも構わず煙草を吸う夫婦であったが、私が喘息になってから、喫煙エリアを設け、それは台所の換気扇の前と、父の部屋であった。椅子にはタオルがかけられ、そこで手を拭く決まりだった。流しの前には電子レンジがあり、その取っ手にもタオルがかけられていたが、そちらは皿を拭く用であり、それで手を拭こうとすると注意された。その電子レンジの前で、私が小学5年のときに家に帰ると何故か父がいて、私がその理由を問いただす前に弟が事故に遭ったと知らされた。父は仕事人間で昼間にいることは滅多に

    引き剥がせないわたし - 意味をあたえる
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    masa1751 2016/10/29
    とても嬉しい!
  • どうしてシステマティックなものに冷たさを感じるのか - 意味をあたえる

    義理の祖母の葬式があり、義理なので私はいちばんうしろの席に座った。私の住む地域では葬儀はよほど大きな家でなければセレモニーホールという場所で行われそこは畳の部屋ではなく椅子が並べられている。私が小学生のときに祖父が死んでそのときは自宅に座布団を並べて一体どこまでガマンしたら正座を解いていいのかに腐心したが、今はそういうのはない。祖父が死んだのは六月で私は小学六年で一周忌のときは中学に上がった。中学に上がったら制服で式には出なければならず、しかし私は学ランを着るのが嫌だったのでワイシャツで出たら、その日は雨で名前の知らない親戚のおじさんに、 「寒いだろ」 とからかわれるように言われた。そこは寺で寺には木と竹がたくさん生えていて、下も土で夏なら涼しくて気持ちよさそうだがまだ夏は遠かった。そばに蛇口があって、昔はそこに口をつけて飲んだ記憶があるがいつからか、「井戸水なので飲まないように」と注意書

    どうしてシステマティックなものに冷たさを感じるのか - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/10/02
    本当にこういうのが好き
  • 文章をうまく書くには体言止めを使うと良い - 意味をあたえる

    たまにホットエントリーされている記事のコメントを読むと、「文章がうまい」とほめられているものがあり、うまいとほめられる法則を自分なりに考えると、どうやらそういう記事は体言止めが使われているようだ。体言止めというのは、「体言止めを使う私」「台風が過ぎ去った翌日の川」というように、人や物を最後に持ってくる手法でこうして書いてみると確かに「私は文章という物を意識しています」という感じがして、ほめる側がほめやすい環境が整う。あと「止め」だけあって、独特の間が生まれる。実は私は文章における「間」というものが苦手で妙なところに句読点が入ったり、改行が入るのも苦手で話が飛ぶ場合でもわざと改行を入れなかったりする。間は現実味を破壊する。そもそも私は自分がしゃべるように書きたいと思っているので、体言止めみたいなしゃべり方をすると気持ち悪いから書くときもあまり使いたくはない。しゃべるように書くとはおそらく誰も

    文章をうまく書くには体言止めを使うと良い - 意味をあたえる
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    masa1751 2016/09/17
    気を付けよう…。でもよくわかります!書いてるときも読んでるときも良く感じますし自分
  • 好きという感情の乱暴さ - 意味をあたえる

    少し前に保坂和志に会ったある若い女性が人に 「が大好きなんですね」 と言ったら、それは認識不足だ、と返されたという旨のツイートがなされていて「認識不足」というワードだったか忘れたがとにかく「お前なに言っちゃってんの?」みたいな反応だった。保坂和志は小説にしろ随筆にしろがよく登場し私はは全く飼ったことがないが、けっこうに詳しくなってしまった。渋谷のほうではが商品のように扱われているとか(なにも渋谷に限った話ではない)。とにかくその若い女性のバカ丸出しなコメントに加えて小説家はみんなひねくれ者であるという一般論を掛け合わせれば、 「好きというのはミスリードだ」 という発言につながってもなんら不思議ではない。それでは実は保坂和志は大好きなのか。 一方私は長い間無趣味の状態が続いていて、瞬間的にはフットサルをやってみたりと、趣味らしい行為もするが長続きしない。下の子供が小学校中学年に

    好きという感情の乱暴さ - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/09/10
    違った視点が見えました。言及してくださり嬉しいです!
  • 残暑が暑い - 意味をあたえる

    義理の祖母が入院をし、そこに色んな人の感情が絡まり合っている。義父にしろ義母にしろ農村の出であり、一方私の父は同じ地方の出だが、母は東京の出身で、あと関わってきた仕事というかが違うから私の家はあまり土のにおいがしない。結婚して義父母の親戚は誰と会っても独特の、土のようなにおいがした。それは別名中上健次のにおいと言っても良かった。中上健次とか村上龍の小説は読んでいて照りつける日差しのような不快さというか、息苦しさがある。少し前に中上健次「千年の愉楽」を読んだが、どうにもこうにもスケベで読むのが途中で嫌になった。実際そんな描写はないが、乾いた女性器に男性器を合わせるような息苦しさが読んでいてある。三度目か四度目の射精のような気だるさがある。もちろん性描写に限らず、である。 それと近いものを義父母に感じる。驚くほど純粋な人たちである。義母の家の近くには被差別部落があり、義父の家はつい何十年か前ま

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    masa1751
    masa1751 2016/09/06
    残暑が暑いですね、、、
  • 文章が下手になった - 意味をあたえる

    仕事でメールを書く機会が多くなり、思っていることがうまく文字にできず苦労する。そんなときは一行目と二行目を入れ替えるとうまくいったりする。苦労するというのは、つまり私は周りに仕事のできるやつと思われたい、という姿勢の現れだろうか。相手を気遣うと「なに言ってんですか?」みたいな返事が来る。私は電話の方が手っ取り早いというタイプだ。しかし最近ではしゃべっていても結局なにが言いたいんだ? みたいなことが多い。もともと私は前もってしゃべることを考えても、しゃべりながらそのとき思ったことを無理やり入れ込んでしまうことが多く、そういう脳直結のリアルタイムでしゃべれることが私の売り、と思っている節がある。だけれどもそっちの後からのほうに熱を入れ込んでしまうと、元来た道がわからなくなってしまう。黙っていると相手が取り持ってくれたりするから、会話と便利な装置だ。 私が喋るのが下手になった、あるいは文章が下手

    文章が下手になった - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/08/30
    保坂さんの小説の自由というのを読んだところ、すごい勝手ですが、fktackさんのような文章だな~と浸ってしまいました。よくわからないんですけど、順番って大切ですよね。
  • 結局殴る - 意味をあたえる

    私の記事はタイトルと内容が合っていないことがたびたびあるが、それはタイトルを書いてから内容に移るからである。もちろんタイトルを決め、それについて書くよう努力すればタイトルにそぐった内容を書けるのかもしれないが、タイトルを書き終わり、文に移ろうとするとするときになにかノイズのようなものが混じってしまい、タイトルを書くときの思考にどうしてもなれない。例えば鳥というタイトルで、実際に鳥について書こうとすると、どこか嘘をついているような、後ろめたい気持ちになってしまう。私は思うに、私の場合タイトルはタイトルで完結しているためではないか。つまり、タイトルで書いた文字以上のものはない、という仮説である。たとえば文学というものがあるが、かなり短い文字数でも場合によっては文学と認められるパターンもあるようだから、タイトルの文字数で完結するというのは異様なかんじがするが、異様にかんじる私が異様なだけかもし

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    masa1751
    masa1751 2016/07/29
    わかります
  • 「ゆとり」という評価が思考停止の足がかりとなる - 意味をあたえる

    前も同じようなことを書いたが、仕事のできない若い人について、 「ゆとりだから」 と評するのは非常に危険なことだ。危険というか、残念というか、愚かさの坂を転げ落ちるというか。それはある年代の教育を受けた人たちは他の年代に比べて何かが足りなくて、代わりによけいな物が付加された、という客観的視点に寄りかかるからで、客観的、というのは場合によってはみんながそうだからそうだ、というような自分の視点の放棄による責任逃れのうまい手段になる。 仕事ができない人というのに当たったら、やはり世代ではなく、その人自身を見るべきではないか。その人の性格とか経験とか家庭環境とかそういう情報を統合し、評価者オリジナルのダメな理由というものを仮説立てなければいけない。それが二人以上になれば何らかの法則性を見出すことができ、十人二十人になって初めて「世代」という言葉を使えるようになるのではないか。どうしてこんな風に慎重に

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    masa1751
    masa1751 2016/07/12
    思考停止というのがとてもしっくりきます
  • 社会に出たからって - 意味をあたえる

    プロブロガー、という言葉をよく目にする。なりたいという人がいるのなら、なったら良いと思う。ぜったいなれる、という人も、無理かもしれない、という人もいるかもしれないが、人の心意気は結果にはあまり影響しない。 先に社会に出て、という意見を目にし、それはブロガーに限らずだがそういう意見には耳を貸さないほうがいい。私からアドバイスがあるとしたら、基的に他人の言うことは聞かないほうがいい、である。どっちに転んでも後悔するのが人生だが、自分の決断による結果なら、まだ諦めもつくからだ。と、言ってみたがそうじゃないかもしれない。とにかく後悔はする。 私は十代のころに親に盛んに 「後悔しない人生を送れ」 と言われたような気がしたが、二十代の終わりくらいに父親と話をする機会があり、私は親を満足させようと、 「何にせよ、後悔しない選択をしたい」 と言ってみたら、 「そんなの無理に決まってんだろ、どうして未来

    社会に出たからって - 意味をあたえる
  • 机上の空論的将来 - 意味をあたえる

    平日朝7時15分からEテレで、「はなかっぱ」というアニメが放送されている。EテレのEはエデュケーションのEだヨ、と私は周りに得意げに話すが、実はちゃんと調べたことはないが、言い返す人はいないから間違ってはいないのだろう。 「はなかっぱ」ははなかっぱという男と彼が住む村の日常を描いたコメディであるが、はなかっぱは学生であるから、学校や友達が登場する。その感じが私にはたまらなく懐かしく、話自体は他愛のない、オチも展開もどこかの二番煎じのような目新しさの欠片もないものだが、私はその微笑ましい友達とのやり取りから目が離せない。はなかっぱは男であり、彼の構成するグループは男ばかりだが、たまに女子が混ざることもあり、それがたまらない。私の小学5、6年はそういう日常だった。 少し前に高校時代の友達と飲んでいるとき、 「今までの人生でいちばん楽しかった時期はいつ?」 みたいなことが話題にあがり、私はきっぱ

    机上の空論的将来 - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/05/02
    僕も絶対に小学5年、と答えます
  • 昨日の記事について - 意味をあたえる

    書いていて気持ち悪くなった。 #はてなブログ 文章の型について、逆再生バージョン - 意味をあたえるhttps://t.co/6slRYsOXQC— fktack (@fktack) 2016年1月21日 昨日の記事とは、普段とは逆向きに書いていく行為を指していて、いつもとは違う脳の働きが行われていることを、リアルタイムで感じた。頭蓋骨の後頭部のあたりを文字が通過していくような感覚があり、気持ち悪くなった。目の裏側である。もう最後のほうは当にイヤんなった。最後とは最初である。最初の段落で「憤慨した」と記してあるが、実際の私は別に憤慨などしておらず、私は普段はそういう誇張とか勢いからくる大げさな演出が嫌いで、低空飛行とか地をはうような文字の並びが好きで、過剰なくらい淡々と書くのだが、淡々と文字を並べることすら苦痛になった。あと、「ぢゃないか」とわざとレトロな風に書いたのも、そういうわかりや

    昨日の記事について - 意味をあたえる
    masa1751
    masa1751 2016/01/22
    すくなくとも僕は昨日の記事を、違和感を抱かずに読み終えてしまいました