フリーアナウンサーの長谷川豊さんが9月19日に更新した「自業自得の人工透析患者は殺せ」とするブログなどが大きな批判を集め、長谷川さんがニュース番組などを降板する騒ぎになった。 このブログに対し、Change.orgで2万5000以上の抗議署名を集めた腎臓病患者の野上春香さん(仮名、41)は、ハフポスト日本版のインタビューに答えた後、10月15日に都内で長谷川さんに直接対面し、抗議の署名を手渡すとともに、長谷川さんとの対話に臨んだ。
フリーアナウンサーの長谷川豊さんが9月19日に更新した「自業自得の人工透析患者は殺せ」とするブログなどが大きな批判を集め、長谷川さんがニュース番組などを降板する騒ぎになった。 このブログに対し、Change.orgで2万5000以上の抗議署名を集めた腎臓病患者の野上春香さん(仮名、41)は、ハフポスト日本版のインタビューに答えた後、10月15日に都内で長谷川さんに直接対面し、抗議の署名を手渡すとともに、長谷川さんとの対話に臨んだ。
Home > ニュース > 大隅良典名誉教授のノーベル賞受賞決定を受けて、元基礎生物学研究所長・元岡崎国立共同研究機構長 毛利秀雄名誉教授の寄稿を掲載いたします 隣のおじさん-大隅良典君(ノーベル生理学・医学賞の受賞を祝して) 私が東京大学教養学部の助教授になりたての頃、同じフロアーで生化学の権威であった今堀和友先生の研究室に入ったばかりの卒研生が、バランスのとり方が悪くて生物学教室の冷却遠心機のローターを飛ばしました。それが大器晩成の人、ノーベル賞受賞者・大隅良典君との最初の出会いです。彼は教養学部の理科系のシニア学科として、数学から地学まで幅広いバックグラウンドをもった人物を育てることを目的とした基礎科学科の第二期生で、同学科の神代時代の秀才の一人です。奥さんの萬里子さんも同じ研究室だったので、当時見かけたことがありました。 大学院時代、ポスドク時代は離れていたのでよく知りません。ロッ
こんにちは。ヨッピーです。突然ですが皆さんは「ヤマハのコピペ」をご存じでしょうか。 ヤマハの歴史 ・最初は輸入ピアノの修理→楽器関係作る ・楽器やってた流れで電子楽器も作る→DSPも作る ・DSPを他に利用しようとして→ルーター作る という流れで、楽器、電子機器、ネットワーク関係の製品を作るようになった。 じゃ、なんで発動機や家具とかも作ってるかというと、 ・ピアノの修理で木工のノウハウが溜まる→家具を作る→住宅設備も作る ・戦時中に軍から「家具作ってるんだから木製のプロペラ作れるだろ」といわれて戦闘機のプロペラ作る→ついでにエンジンも作る ・エンジン作ったから→バイクも作る ・エンジン作ったから→船も作る→船体作るのにFRPを作る ・FRPを利用して→ウォータースライダー→ついでにプールも作る ・プールの水濁ったんで→浄水器作る ・失敗作の浄水器で藻が大繁殖→藻の養殖
もう85になる父が死ぬ前にやり残したことがあると言ってきた。 なんでも言ってみろと言ったところ、 「ワニワニパニック」をもう一度やりたいという。 なんでも20年ぐらい前。まだ家に風呂がなかったので、 家族で近所の銭湯に通っていたが、そこで父はワニと日々対決していたそうだ。 今、あらためてワニワニパニックがおいてある所といっても、 イオンなどのゲームコーナーぐらいかしら?と思い いくつか回ってみたところ、どこにもない。 (ほとんどメダルゲームばかりだ) 銭湯もがんばっていたが、5年前に潰れてしまった。 ヤフオクやメルカルで探しても、まともな完動品は売ってなかった。 仕方がないので、両手に靴下をはめ、パクパクさせて、 「叩いてごらん」と誘ったが、 「なんか違う」と一蹴され、鼻で笑われた。 これにはさすがに温厚なわたしも、もう怒ったぞー。
蓮舫議員の出自をめぐる話題が炎上している。 騒いでいる人たちは、彼女が「二重国籍」である可能性を疑っている。そして、彼女が二重国籍なのだとすると、それは国を代表する政治家としてふさわしくないと言い張っている。 「私は蓮舫議員の出自を問題視しているのではない。国籍に関する法的な処理の細部をあげつらおうとしているのでもない。ただ、公党の代表選に出馬する人間としての説明責任を問うているだけだ」 という感じの、より慎重な言い方で彼女の非を鳴らしている人々もいる。 個人的に、後者の主張は、卑怯な姿勢に感じられる。 実際には出自にツッコミを入れているにもかかわらず、表面上はあくまでも「政治家としての質問への答え方」を問題にしているかのようなポーズをとっているからだ。 出自や血統が気に食わないのなら、思っている通りにそう言えば良い。 出自を持ち出すことに後ろめたさを感じるのであれば、はじめから何も言うべ
マシコ・ピロ族のメンバー。ペルーのアマゾンの森に住み、アルト・マドレ・デ・ディオス川の河岸に定期的に出没する。2015年7月に撮影。(PHOTOGRAPH BY RON SWAISGOOD) ペルーの美しい村、シペチアリ。緑豊かなこの村を通る曲がりくねった山道に突如、鋭くとがれた2mの竹槍を装備したマシコ・ピロ族が現れた。 「なぜ私を殺そうとするの?」 1月に初めてマシコ・ピロ族に遭遇したシペチアリ村のルフィナ・リヴェラ副村長――小柄ながら、威圧的な女性だ――は、そう叫んだ。 その後も、彼らの来訪は続いた。アルト・マドレ・デ・ディオス川から歩いて1時間。アマゾンのジャングルの奥深くの静かな村から、鍋やなたが消えていた。 3月には、ひとりの老女が狙われた。1本の矢が、老女のスカートをかすめて飛んでいった。5月の初めには、村の男たちが出かけたすきを狙って、マシコ・ピロ族がやってきて農作物を奪っ
Watch Ichiro in the on-deck circle. The guy never stops moving. Go ahead and look at some video of it. He’ll take a few warmup swings, then all of a sudden he’ll be crouching down, knees bent, rocking from side to side. He’ll stand up to take a couple more swings, and then he’ll be back down in a wide stance, doing this crazy thing where he rolls his shoulders back and forth. The whole routine is
About 株式会社/一般社団法人ピリカの代表です. 科学技術の力で, あらゆる環境問題を解決することを目指しています. 一歩目はポイ捨てごみ問題から. ついにPokemon GOが日本でリリースされた。山手線のホームでゼニガメを捕まえて、そこから3日間感動しっぱなしだった。Pokemon GOのBGMはどこか懐かしくて、イヤホンで聞きながら散歩してるだけでも、子供の頃に夢にまでみた冒険の世界に飛び出したみたいだった。 大好きだったポケモンが街のいたるところに隠れているなんて、想像するだけでもワクワクしてしまう。意味もなくポケストップ近くにあるコンビニまで足を運んだり、普段自転車で移動するところを徒歩にしてみたり、気がつけば自分の行動が変わっていた。家から会社まで最短経路で移動するだけだった通勤が、とにかく普段歩かない裏道を歩く冒険になった。ゲームでこんなにドキドキしたのはいつ以来だろうか
子育て死ぬ系の記事が理解も共感も出来ない_はてな匿名ダイアリー の記事について、書くべきかどうか迷ったけれども書きます。 一番言いたいこと:自分を基準に他人を測らないで 僕の一番嫌いな言葉に『普通は~』っていうのがあって、もう、それに小学校の頃からずっと苦しめられてきていて。 普通に、人の顔と名前を覚えることができなかったし、普通に、球技や運動もできなかった。他にも色々普通はできることができなくて、それで、ずいぶんと多分、人の数倍は努力をしたのだけれども、結局いろんなことがなんともならなかった。逆に勉強はできて、中学卒業するまでほとんど勉強らしい勉強をしたことがなかったし、それでも、周りからは頑張ってると思われていた。 人のどうやって努力しても人並みにさえできないことと、何もしないでも、人一倍できることっていうのは、それぞれ違う。そりゃたしかに、平均値、偏差というのはあって、ほとんどの人は
私の記憶の始まりは、田舎に向かう新幹線の途中。 全く知らないおじさんに話しかけて、遊んでもらっていた。 一緒に乗ってたのはお母さんと妹。お母さんは妹をきつく抱いて、私が遊び呆けているのを黙って見ていた。 しばらく乗って、薄暗い駅に降り立った。おじさんが迎えにきて、私たちを車に乗せた。途中、おじさんがタコの吸盤の話をし始め、その話があまりにも怖くて大人になるまでタコが食べれなかった。 これは、私と、ちょっと変わったお母さんのお話です。 お母さんはほどなくして、パートを始めた。スーパーのフードコートでのアイスクリーム売りが彼女のお仕事だった。 私はその当時4歳。お母さんはずっと働きに出ていなかったから、おじいちゃんに主に遊んでもらっていた。おじいちゃんは新聞の漢字を私に教えるのが大好きで、そのおかげか6歳になるころには赤川次郎の三毛猫ホームズくらいなら読めるようになっていた。 絵を描くのも大好
弟の結婚生活がおかしなことになっている。 たぶん結婚したのが間違いだったような、そういう二人ではある。だけど子供も生まれてるし、間違いだとしてもなんとかうまくやってほしい。 けどそれでうまくやれるなら家庭裁判所とかいらないですよね・・・ ここ数日、頭が煮えている。とにかく吐き出す。 弟は十五年前に私の友人に一目惚れし、その恋はいまだ終わらずに続いてる。 弟は貧相な体格でぼそぼそとうつむき加減に喋る少年だった。いじめられたりはしなかったようだが、クラスでは冷遇されがちで友人は少なかった。 そんな弟が一目惚れをきっかけに体を鍛え始め、ファッション雑誌などを買ってくるようになった。 友人は成績優秀な明るい美少女だったので、少しでもふさわしい男になろうとしたんだと思う。弟の努力は凄かった。 弟は変わった。筋肉がついて体が大きくなったし、表情も変わってよく笑うようになった。他人の目をきちんと見て話が
「25cm屈折赤道儀※(以降、25cm赤道儀)」は、1971(昭和46)年2月に開設された岐阜天文台の依頼によってニコン(当時:日本光学工業)が製作した。ニコン製の屈折式では最大級のこの天体望遠鏡について解説する。 ※赤道儀:日周運動を行う天体の動きを追尾できる天体望遠鏡。 ニコンは創業間もない1920(大正9)年ごろ、口径5cm、7.5cmの屈折望遠鏡を生産していた。1922(大正11)年には「50cmカセグレン式※1反射赤道儀」を試作したが、十分な性能が得られず、実用にいたらなかった。 1931(昭和6)年、東京科学博物館(現:国立科学博物館)に「20cm屈折赤道儀」を納入。この望遠鏡は高い評価を得て、2006(平成18)年まで設置されていた。 戦後、1950(昭和25)年ごろはアマチュア用の5cm、6.5cm屈折赤道儀を生産。また、天文台などの施設用として、1951(昭和26)年
北村はじめのちょっと立ち読み20 2012年は「国際協同組合年」:日本のテーマ 「"若者:協同組合の未来"」 「震災復興のために 協同組合に何ができるか」 シンガポール血の粛清 陰で救った篠崎護 1.日本占領時期死難人民祈念碑 シンガポールの市庁舎前の広場の一角に建つ、高さ120メートルの白い尖塔。気温30度を優にこえる蒸し暑い日、久しぶりに足を運んでみた。大理石の礎石には、「日本占領時期死難人民祈念碑」という字が刻まれている。 「死難人民」とは日本軍が占領中に粛清した華僑住民を指す。その数、5000人から7000人まで諸説あるが、相当な規模の犠牲者が出たことは、日本軍側の資料でも間違いない。改めて粛清された方々のご冥福を切に祈りたい。 ユダヤ人へのビザ発給で約6000人もの尊い命をナチス・ドイツの迫害から救った杉原千畝(ちうね)は、腕が腫れあがり、万年筆が折れてもビザを書き続けた。今年は
GW中に実家・義実家に帰省したものの居心地が悪い方、4月のPTA役員決めで面倒な委員になってしまって頭を抱えている方、新卒で働き始めた会社に既にうんざりしている方などなど、どうにもモヤモヤしている人向けに昨年の発言小町の良トピを独断と偏見でまとめました。 ほっこりしていってください。 ※男の悩みもあるよ! 小町で相談して良かった! レスを楽しむトピ 「私がおかしいのでしょうか」「はい、あなたがおかしいです」 釣り釣りしい その悩み、何かがおかしい その発想はなかった! 隣人がトラブルメーカー 恋は盲目、周りは迷惑 なさそうである話 やっぱり怖いのは人間~小町ホラー~ 締め 関連記事 小町で相談して良かった! 発言小町は相談サイトですから、相談することで悩みが解決したものを見られるのが楽しいですよね。そんなトピです。 2人の育児と義理の両親の介護 : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 :
『風雲児たち』などでお馴染みの漫画家みなもと太郎先生がTBSラジオ『タマフル』に出演。漫画家さいとう・たかを先生が日本の漫画界に起こした革命と、あまり知られていないその偉大な功績について話していました。 只今「サタラボ」今回は「さいとう・たかを特集 by みなもと太郞」歴史漫画の大傑作『風雲児たち』などで知られる、漫画家・みなもと太郎先生がさいとう先生について語ってくれます! #utamaru #tbsradio #radiko pic.twitter.com/xN0fHYFTwb — tamafle954 (@tamafuru954) 2016年4月30日 (宇多丸)ここからが、本日の本編でございます。漫画家さいとう・たかをさんがいかに日本の漫画界に革命を起こしたのか? 革命ですよ、みなさん。解説していただきます。レジェンドが、伝説的存在が伝説的存在を語る特集となっております。それでは、
今から17年前の初夏、乙武洋匡さんが後にも先にも一度だけ、京都の私の住み家、寂庵(じゃくあん)へ訪れてくれた。たしか乙武さん、23歳の時だった。早稲田の学生で、すでに「五体不満足」という本を出版して、本は売れに売れ、有名人になっていた。 その乙武さんと私との対談を、雑誌「現代」が企画した。 約束の時間通り、現代の長身の編集者が軽々、乙武さんを胸に抱き、門から入ってきた。玄関に入るなり、私の足元へ、軽い荷物を置くように、抱いてきた乙武さんをひょいと置いた。乙武さんは、その瞬間、私の目には、一個のぬいぐるみのように見えた。そのショックで、私はうろたえてしまった。本も読み、写真も見てはいたが、実際に両手、両足のないその人を目撃した瞬間の驚きは、予期以上のものであった。この体で生まれ、早稲田の学生になって、ベストセラーの本を出すまでの歳月、人のしないどれだけの苦労をしてきたかと思うだけで胸がいっぱ
福原家、江家の親族を代表いたしまして、新婦の兄・フモフモ編集長より、御礼の言葉を述べさせていただきます。 Tweet Share on Tumblr カテゴリ:卓球 2016年04月07日07:00 ただいまご紹介にあずかりました、新婦の腹違い・種違いの兄、フモフモでございます。福原家、江家を代表いたしまして、一言ご挨拶申し上げます。 本日はご多忙の折、愛と宏傑君のために、このような大勢の方にお集まりいただき、誠にありがとうございます。先ほどより皆様からのご祝辞、激励のお言葉、温かい心遣いの数々を頂戴し、感謝の念にたえません。 ツイッターで「息してるか?」と蘇生役を買って出ていただいた方。メールで「元気出してください、まだ羽生クンがいますよ」と励ましていただいた方。はてなブックマークで「フモフモ憤死」とめでたき席に似つかわしくない心配ブコメをいただいた方。そして、本日の媒酌の労をおとりいた
「自炊に凝ってるんです。昨日は、フグちりの余りで作ったカレーがおいしくてねえ」=東京都港区で、内藤絵美撮影 動物愛、ふっと消え 今は小説書きたい 濃いコーヒーをすするのを日課にしている東京・南青山のカフェで、衰えの話を始めた。「32歳でがんで胃を切ってから、体力をつけようと馬に乗り始めたんです。50でも60でも野山を走る『山賊馬術』をやってたんですけど、70になったら全力疾走で腰がずきんずきん痛んで、乗れなくなったんです」 8日間一睡もせずマージャンを打ち続けた記録を持ち、海外ロケでも風邪一つひかなかったスタミナだったが、衰えは脳にも来た。「60まで取材ノートを持たなかったんです。相手の名前や電話番号なんか全部覚えてたのに、思い出せなくなり、いかんなあって思ったんです」 この記事は有料記事です。 残り1575文字(全文1860文字)
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