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ノモンハン事件の検索結果1 - 13 件 / 13件

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ノモンハン事件に関するエントリは13件あります。 歴史戦争軍事 などが関連タグです。 人気エントリには 『「戦車に火炎瓶とシャベルで挑む」たった1人の軍人・辻政信が推し進めた“ノモンハン事件”とは | 文春オンライン』などがあります。
  • 「戦車に火炎瓶とシャベルで挑む」たった1人の軍人・辻政信が推し進めた“ノモンハン事件”とは | 文春オンライン

    解説:「失敗の本質」最初の事例、強気一辺倒の参謀の行く果ては? 今年80周年を迎えたノモンハン事件。「事件」と銘打たれているが、日ソ両軍で計約4万5000人の死傷者を出した、れっきとした戦争だった。昨年もNHKの8月企画で取り上げられ、中心人物の著書が最近復刊されるなど、話題は尽きない。それは、戦争に表れた大日本帝国陸軍の特質がそのまま、その後の太平洋戦争に持ち込まれたからでもある。いわば帝国陸軍の「宿痾」が如実に表れたといっていい。「事件からは多くの教訓と示唆が得られたはずであり、物量を誇る米英との大東亜戦争に対する貴重な教訓になるはずであった」(戸部良一ら「失敗の本質」)。しかし、実際はそうならなかった。それはなぜか。そして、その特質は80年たったいまも、日本人の組織や集団に付きまとっているのではないか。それがノモンハン事件の持つ現代性だろう。 ガダルカナル島の戦い、インパール作戦に続

      「戦車に火炎瓶とシャベルで挑む」たった1人の軍人・辻政信が推し進めた“ノモンハン事件”とは | 文春オンライン
    • ノモンハン事件、第2次大戦の「着火点」 欧米に新視点:朝日新聞デジタル

      第2次世界大戦は、欧州ではなく極東アジア・モンゴルの草原で始まった――。日本と旧ソ連が衝突した1939年の“ノモンハン事件”について、こうした新たな見方が欧米で広がりつつある。歴史家らは、そこにソ連の独裁者、スターリンの思惑を見る。 「ノモンハン事件は、規模としては主要な戦いとは言えない。しかしその影響は絶大だった」 こう指摘する英国の著名な歴史作家、アントニー・ビーヴァー氏は、文筆活動の集大成といえる第2次大戦の通史を、ノモンハン事件から書き起こした。「それは、ユーラシア大陸の東と西を初めて結びつけた戦いだった。そして欧州戦線の分岐点となった独ソ戦の行方も左右した」と語る。 モンゴル東部を流れるハルハ河の一帯には、80年余が過ぎた今も“大戦の発火点”と呼ぶべき跡が生々しく残されている。

        ノモンハン事件、第2次大戦の「着火点」 欧米に新視点:朝日新聞デジタル
      • 「水、水、水」と叫びながら殺された兵士たち 悲惨すぎる戦争の始まりだった“ノモンハン事件”の裏側 | 文春オンライン

        昭和14年5月12日払暁に来襲したソ聯軍を迎えて火ぶたを切ったノモンハンの徹底的敗北を軍事通たりし筆者がその裏面史を描く 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「ノモンハンの敗戦」(解説を読む) 関東軍には以前から一種の悪癖があった。陸軍省、参謀本部を小馬鹿にしたり、時の政府の方針など屁とも思はず、自分たちのやりたい放題のことをやる。それが日本として対内的にも対外的にもどんなマイナスになろうと知らぬ顔で通そうとする気風である。 この関東軍の悪癖は軍部全般に伝染し、やがて日華事変を巻き起すのであるが、それは本題から外れるので省略する。とに角、昭和初頭、高級参謀河本大作大佐が軍司令官や参謀長にも内緒で満洲王張作霖を暗殺し、田中義一内閣を瓦解に至らしめ、次いで間もなく満洲事変を惹き起して成功してからは関東軍はいよいよ本領(?)を発揮して張皷峯事件から、ノモンハン事件に発

          「水、水、水」と叫びながら殺された兵士たち 悲惨すぎる戦争の始まりだった“ノモンハン事件”の裏側 | 文春オンライン
        • 実は日本軍の大勝利だった「ノモンハン事件」 「空の戦い」で終始ソ連軍を圧倒 「日ソ中立条約」に引っ掛かってしまったことは痛恨の極み(夕刊フジ) - Yahoo!ニュース

            実は日本軍の大勝利だった「ノモンハン事件」 「空の戦い」で終始ソ連軍を圧倒 「日ソ中立条約」に引っ掛かってしまったことは痛恨の極み(夕刊フジ) - Yahoo!ニュース
          • 歴史を動かしたノモンハン事件 第2次大戦の「起点」に:朝日新聞デジタル

            幾重にも連なるくぼみが、草原一面に広がる。モンゴルの首都ウランバートルから東へ約1200キロ。悪路の中、車で3日間かけてたどり着いた。「鳥の視点」で見て初めて、くぼみだらけのこの場所が持つ意味が理解できる。 ここで1939年に起きた国境侵犯をめぐる紛争は、日本ではその地名からノモンハン事件と呼ばれる。眼前に広がるのは、その跡だ。日本・旧満州国の連合軍が旧ソ連・モンゴル連合軍と衝突し、日本側が大打撃を受けた。くぼみと思っていたのは、ソ連側が物資の貯蔵に使ったとみられる径約10メートルの円形壕(ごう)だった。碁盤の目状に200基近くが並ぶ。中国との国境に接した一帯は、航空機の接近は今も禁じられている。昨年5月、朝日新聞が同行取材した現地調査団によるドローン撮影で、その異容が明らかになった。 すぐ西を流れるハルハ河沿岸の南北約7キロの区間に、測地衛星の画像では先ほどの200基を含めた約1430基

              歴史を動かしたノモンハン事件 第2次大戦の「起点」に:朝日新聞デジタル
            • ノモンハン事件 「作戦の神様」が遺していた失敗の本質手記

              旧日本軍の敗因を分析した『失敗の本質』(1984年刊)は、小池百合子・都知事が愛読書とするなど、日本型組織の問題点を知る上での重要参考書となっている。 書いたのは研究者たちだったが、全く似たような分析を、当事者である「大本営参謀」が終戦直後に書き残していた。74回目の終戦記念日を前に、超一級の歴史資料が発掘された。 ◆没後50年で公開 去る7月8日、1939年に起きたノモンハン事件から80年の記念式典が、現場となったモンゴル東部のハルハ河近くに建てられた慰霊碑のもとで開かれた。当時の満州国とモンゴルの国境線で勃発した日本とソ連の武力衝突は、日本が第二次大戦の泥沼にはまっていく端緒となったとされる。 このノモンハン事件で作戦参謀を務めたのが、日本陸軍の辻政信だった。辻はノモンハン事件やマレー上陸作戦を指揮し、“作戦の神様”と称された一方、独断専行や部下への責任転嫁に対する批判も多く、世間の評

                ノモンハン事件 「作戦の神様」が遺していた失敗の本質手記
              • 悲壮な肉弾戦で惨敗、「ノモンハン事件」の教訓とは 日本を破滅に導いた国境紛争、連続した世界を生きている私たち | JBpress (ジェイビープレス)

                今年2019年は、「ノモンハン事件」から80年にあたる。 「ノモンハン事件」は、1939(昭和14)年5月11日に始まり、同年の9月16日に停戦交渉が成立し終結した、国境線をめぐる日ソ間の軍事衝突である。国境付近の大草原を舞台にした3次にわたる激戦で、双方ともに1万人の戦死者、2万人以上の負傷者を出している。「事件」というよりも、実質的に「戦争」であった。 「昭和」がすでに遠い時代となりつつある現在だが、ノモンハン事件は、依然としてネガティブな意味合いで使用されている。ロングセラー『失敗の本質』(野中郁次郎他)でも失敗事例として冒頭に取り上げられているくらいだ。 ノモンハン事件は、その2年後に開戦した太平洋戦争につながるものであり、最終的に日本を破滅に導いた出発点にあるという認識が、日本では一般的に共有されているといってよいだろう。そして、当事者の「関東軍」は、中央の統制がきかない、暴走す

                  悲壮な肉弾戦で惨敗、「ノモンハン事件」の教訓とは 日本を破滅に導いた国境紛争、連続した世界を生きている私たち | JBpress (ジェイビープレス)
                • 大量の自殺者を出した「ノモンハン事件」敗北のヤバイ真相(佐藤 優) @gendai_biz

                  「腹きり」を躊躇しない ノモンハン事件(1939年5月11日~9月16日)は、当時の満州国とモンゴルの国境地帯で起きた地域紛争だ。日本にとっては、日露戦争(1904~'05年)後、初めての本格的な近代戦争だった。 日本・満州連合軍対ソ連・モンゴル連合軍の間で展開された戦闘であったが、実質的には日本軍とソ連軍の戦いだった。この戦いで日本軍は壊滅的な打撃を受けた。 〈10日あまりの戦いで、ノモンハン事件の帰趨は決した。関東軍第二十三師団はその7割が損耗し、事実上、壊滅した。ソ連側の死傷者数は2万5000人、一方、日本側は2万人。死傷者数ではソ連の被害が甚大だが、作戦目的を達したのはソ連だった。関東軍はソ連・モンゴルの主張する国境線の外に完全に追いやられたのである。 ノモンハンを勝利に導いたジューコフは、その翌年、大将の称号を与えられた。スターリンにも謁見が許され、ジューコフは日本軍についてこう

                    大量の自殺者を出した「ノモンハン事件」敗北のヤバイ真相(佐藤 優) @gendai_biz
                  • もし17万人のロシア軍が北海道に侵攻したら…音威子府村で第2師団は全滅、第2のノモンハン事件という現実 | デイリー新潮

                    「週刊新潮」の発売前日に速報が届く! メールマガジン登録 デイリー新潮とは? 広告掲載について お問い合わせ 著作権・リンクについて ご購入について 免責事項 プライバシーポリシー データポリシー 運営:株式会社新潮社 Copyright © SHINCHOSHA All Rights Reserved. すべての画像・データについて無断転用・無断転載を禁じます。

                      もし17万人のロシア軍が北海道に侵攻したら…音威子府村で第2師団は全滅、第2のノモンハン事件という現実 | デイリー新潮
                    • 隠された中佐の自決 ノモンハン事件「精神主義」の象徴:朝日新聞デジタル

                      モンゴル東部で1939年、日本と旧ソ連が衝突したノモンハン事件は後の太平洋戦争でも見られた、現場の将兵の責任を厳しく問うような「精神主義」がはびこる転機になったとされる。事件後に自決した将校の孫が昨秋、当時の記録を調べたところ、死因は「脚気(かっけ)」や「脳溢血(いっけつ)」となっていた。なぜ死因は改ざんされたのか――。 自決したのは当時45歳だった井置栄一中佐。ソ連軍の総攻撃が始まった39年8月20日、隊長を務めていた第23師団捜索隊は激戦地の一つだった「フイ高地」で包囲された。「頑強な抵抗」と評された戦いぶりを見せたが、水や食糧、弾薬の補給、通信すら絶たれる中、4日後に撤退を決断。フイ高地にいた23師団捜索隊759人中、269人が脱出した。 1939年5月、日本の傀儡(かいらい)国家だった旧満州国と、旧ソ連の影響下にあったモンゴルの国境をめぐって両陣営が衝突。戦闘は4カ月近くに及んだ。

                        隠された中佐の自決 ノモンハン事件「精神主義」の象徴:朝日新聞デジタル
                      • ノモンハン事件 「作戦の神様」が遺していた失敗の本質手記(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

                        旧日本軍の敗因を分析した『失敗の本質』(1984年刊)は、小池百合子・都知事が愛読書とするなど、日本型組織の問題点を知る上での重要参考書となっている。 【写真】知られざる軍神・辻政信 書いたのは研究者たちだったが、全く似たような分析を、当事者である「大本営参謀」が終戦直後に書き残していた。74回目の終戦記念日を前に、超一級の歴史資料が発掘された。

                          ノモンハン事件 「作戦の神様」が遺していた失敗の本質手記(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース
                        • もし17万人のロシア軍が北海道に侵攻したら…音威子府村で第2師団は全滅、第2のノモンハン事件という現実(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

                          もしロシアが日本に攻めてきたら、いったいどうなるんだろう──こんな不安を感じながら、ウクライナ侵攻のニュースを見ている日本人は少なくないようだ。 【写真12枚】自衛隊は夏、静岡県御殿場市の東富士演習場畑岡地区で「富士総合火力演習」を行う。戦車は火を噴き、ヘリコプターからは兵士が地上に降り、ミサイルも発射される *** 時事通信は3月11日、「北方領土でミサイル演習」との記事を配信した。 《インタファクス通信によると、ロシア軍東部軍管区は10日、クリール諸島(北方領土と千島列島)で地対空ミサイル「S300V4」の発射演習を行ったと発表した》 Twitterには不安の声が投稿された。 《今度は日本? 攻める気か? プーチン火遊び止めよ!! 》 《ミサイル演習、北海道の人たちも怖がってると思うのでやめてほしいです》 《やっぱりか……不安しかないよ……》 当然ながらこれまで防衛省は、ロシアやソ連に

                            もし17万人のロシア軍が北海道に侵攻したら…音威子府村で第2師団は全滅、第2のノモンハン事件という現実(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
                          • ノモンハン事件80年、戦死の大尉つづった日記 故郷の石巻で元女川高校長が保管 | 河北新報オンラインニュース

                            中国東北部で1939年夏に起きた国境紛争「ノモンハン事件」から今年で80年になる。旧ソ連軍の大規模な攻勢を前に23歳で命を絶たれた石巻市出身の旧陸軍大尉の日記が、同市内で人知れず保管されている。多くの遺品と共に日記を預かる元女川高校長佐々木慶一郎さん(72)は「未来ある人間の命を奪うのが戦争だ」と戦場に散った若者を悼む。 日記を残したのは、稲井村(現石巻市稲井)出身の後藤東一郎大尉。石巻中(現石巻高)卒業後、33年4月に陸軍士官学校に入学した。第7師団第28連隊配属で38年2月までに中国東北部へ赴き、39年8月24日、敵弾に倒れた。 日記は計10冊。陸士入学直前から戦死2カ月前の39年6月までの日々を、700ページ超にわたってつづる。 いずれも表紙裏には「将校生徒タルノ誇ヲ忘ルヘカラス 淡泊ヲ以テ終始スヘシ」との墨書きがある。強い使命感を持ちながら、冷静さを失わない将校を目指していた姿をし

                              ノモンハン事件80年、戦死の大尉つづった日記 故郷の石巻で元女川高校長が保管 | 河北新報オンラインニュース
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