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太平洋戦争の検索結果81 - 107 件 / 107件

  • 「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった 論説委員会 大島三緒 - 日本経済新聞

    8月は「戦争」がメディアにあふれる季節である。いわゆる「8月ジャーナリズム」だが、あの惨禍と過ちを記憶する記号として、やはり「8.15」の意味は大きい。令和の時代にも、決してゆるがせにはできぬ日付だ。もっとも、そこには落とし穴もある。この日付だけで戦争を振り返ると、軍部や政治家が暴走して続けた戦争に、多くの日本人が「巻き込まれた」という被害者イメージが強まるのである。前線での玉砕と餓死。本土

      「8.15」の落とし穴 悲しみの前には熱狂があった 論説委員会 大島三緒 - 日本経済新聞
    • 紫電改エンジン「誉」見つかる 呉の海軍航空廠跡 大和ミュージアムで公開 | 中国新聞デジタル

      太平洋戦争中に旧日本海軍の戦闘機「紫…

        紫電改エンジン「誉」見つかる 呉の海軍航空廠跡 大和ミュージアムで公開 | 中国新聞デジタル
      • 特攻を超える戦死率75%…その戦場を生き抜いた搭乗員は何を見たか(神立 尚紀) @gendai_biz

        1942年6月のミッドウェー海戦での敗戦により、日米の形勢が逆転して以降、日本軍の拠点は次々と米軍に奪われていった。この猛攻をぎりぎりのところでくい止めていたのは、ソロモン諸島に展開する海軍航空部隊の搭乗員たちだった。 この劣勢を逆転するため、1943年6月16日に決行され、のちに「ルンガ航空戦」と名付けられた総攻撃では、手痛い敗北を喫し、多くの腕のいいベテランパイロットを失う。 この一連の戦いを担った部隊は、のちに編成された特攻専門部隊よりはるかに多くの搭乗員が犠牲となった。彼らはそのなかで、何を見て、どう戦っていたのか? 戦局の転換点となったルンガ沖航空戦 太平洋戦争中期、昭和18(1943)年2月、日本軍は約半年にわたって激しい攻防を続けていたソロモン諸島のガダルカナル島から撤退。連合軍はここを足がかりに、日本軍の一大拠点であるニューブリテン島ラバウルを窺い、さらなる攻勢を強めようと

          特攻を超える戦死率75%…その戦場を生き抜いた搭乗員は何を見たか(神立 尚紀) @gendai_biz
        • [PDF]『焼き場に立つ少年』の写真

          • 「経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」田中角栄の言葉に突き動かされて――藤井裕久の使命感 - Yahoo!ニュース

            「戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」――。田中角栄元首相にそう言われたという。その言葉が私の根っこにあると語るのは、藤井裕久・元衆議院議員(87)だ。大蔵官僚から国会議員になり、自民党、新生党、民主党などを渡り歩きながら、常に政界の中心にいた人物である。藤井さんは2012年に政界を引退した後も、全国各地に足を運んで戦争体験を語っている。なぜ、そんなことをしているのか。その思いを聞いた。(河野正一郎/Yahoo!ニュース 特集編集部) 東京・白金台にあるマンションの3階。エレベーターのない急な階段を上がると、藤井裕久事務所がある。政界引退から7年、87歳になったいまも、藤井さんはこの事務所に毎日のように通っているという。「足腰の鍛錬ですよ」。そう笑う藤井さんには、一つの使命感がある。

              「経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」田中角栄の言葉に突き動かされて――藤井裕久の使命感 - Yahoo!ニュース
            • 「大東亜戦争」を削除…朝日新聞の言葉狩りに屈していいか 評論家・潮匡人氏インタビュー

              陸上自衛隊の第32普通科連隊の公式Xで「大東亜戦争」の言葉が使われた投稿陸上自衛隊の部隊が戦没者追悼行事への参加を紹介するSNSへの投稿で「大東亜戦争」という言葉を使ったことが、朝日新聞の記事で「政府はこの呼称を公式文書では用いていない」などと批判され、「大東亜戦争」などの表現の削除に追い込まれた。「侵略戦争の正当化」などの批判も出ているが、「大東亜戦争」は使ってはいけない言葉なのか。元自衛官で、旧防衛庁広報誌編集長も務めた評論家の潮匡人氏に話を聞いた。 (菅原慎太郎) 評論家の潮匡人氏――陸自第32普通科連隊が今月5日、硫黄島(東京都)で行われた日米合同の戦没者追悼式典に参加したことを紹介する文章をX(旧ツイッター)に投稿した際、「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島」といった表現を使用したために、朝日新聞に批判された 「『大東亜戦争』という言葉に何の問題があるのか。むしろ問題は防衛省・自衛隊側

                「大東亜戦争」を削除…朝日新聞の言葉狩りに屈していいか 評論家・潮匡人氏インタビュー
              • WEB特集 忘れられた「上海事変」戦記は語る | NHKニュース

                「第一次上海事変」を詳しくご存じの方は、それほど多くないと思います。1932年に中国の上海で起きた日中両軍の衝突ですが、同じ時期に起きた「満州事変」に比べて“忘れられた戦い”と言えるかもしれません。 その「第一次上海事変」に関する貴重な記録が、金沢市内に残されていたことが取材でわかりました。見つかった資料からは、生死をかけた戦場の真っ只中で正確な記録を必死で残そうとした、当時の軍人たちの姿が浮かび上がってきます。 (金沢局 記者 森山睦雄)

                  WEB特集 忘れられた「上海事変」戦記は語る | NHKニュース
                • 戦後78年 ようやく私は日本人になりました | NHK | WEB特集

                  おびえる表情で写真に映る少女。 去年12月に発見されたその写真は、太平洋戦争下のフィリピンでアメリカ軍が作成した捕虜名簿の中にありました。 当時6歳の少女は、いわゆる「残留日本人」。 国籍がないまま長年フィリピンで暮らし、日本国籍を求め続けてきました。 戦後80年近くがたって見つかった写真はこの夏、84歳になった少女の人生を大きく変えることになりました。 (報道・映像センター 桑原義人、マニラ支局長 酒井紀之) フィリピン南部ミンダナオ島の中心都市、ダバオから車で2時間。 広大なバナナ農園を抜け、さらにそこから険しい山道を登るとー。 竹で編まれた昔ながらの小さな家に、彼女は暮らしていました。 私たちを笑顔で迎えてくれたのが、84歳になったペラヒア・ディアモナさん、日本名、星子ハルコさんでした。 山の斜面に建てられた、水道もガスも無い家からは、ハルコさんが戦後、生活に苦労してきたことがうかが

                    戦後78年 ようやく私は日本人になりました | NHK | WEB特集
                  • 悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

                    「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。だって相手は小学校6年生の坊やですよ。そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」 秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。秋篠宮家の“家庭教師“になったのが「終戦記念日」だったのは、偶然ではないのだろう。平成から令和へと新時代を迎えた今、半藤氏がその日のことを本誌に明かした。 「最初に秋篠宮父子にお会いしたときに言ったんです。私は東京下町生まれなものですから、“ひ“と“し“が上手く発音できません。だか

                      悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問(FRIDAY) - Yahoo!ニュース
                    • 人間魚雷で散った兄、2分35秒の肉声 母の遺品から:朝日新聞デジタル

                      モノ語る【5】 母の遺品にあった1枚の古びたレコード。そこに残されていたのは、太平洋に散った亡き兄の声だった。 押し入れのトランクの中から見つかったレコード盤。そっと針を落とすと、懐かしい声が流れ始めた。 「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして長い間育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう」 塚本悠策さん(84)=千葉県松戸市=が東京・田端で暮らしていた母親の遺品を整理していた、40年ほど前のことだ。「二度と聞くことはできないと思っていたのに……」。声の主は兄の太郎さん。21歳で西太平洋に散り、遺体すら見つからなかった。

                        人間魚雷で散った兄、2分35秒の肉声 母の遺品から:朝日新聞デジタル
                      • 「アメリカ半端ねぇ」東京湾のB-29残骸に見る隠れた先進性 いかに技術のカタマリだったか | 乗りものニュース

                        戦時中に墜落して東京湾で発見されたアメリカのB-29爆撃機の主脚とタイヤ。詳細を見ると75年以上前に作られたとは思えないテクノロジーが垣間見えました。そこには当時の日本では追いつけなかった先進技術も盛り込まれていました。 海底から見つかった戦争遺物とその正体 2020年11月30日、千葉県木更津沖の東京湾において操業中の底引き網漁船が、水深22mほどの海底で金属製の物体を網に引っ掛けました。このおよそ1tはありそうな大きな塊とタイヤは、後の調査で航空機の主脚、しかも太平洋戦争中に墜落したアメリカの爆撃機、B-29「スーパーフォートレス」の主脚とタイヤであると判明したのです。 拡大画像 「超空の要塞」と呼ばれたアメリカの長距離戦略爆撃機B-29。最高速度は640km/h以上、航続距離は6400km、爆弾は最大9t搭載可能で、搭乗員は11名であった(画像:アメリカ空軍)。 B-29爆撃機は太平

                          「アメリカ半端ねぇ」東京湾のB-29残骸に見る隠れた先進性 いかに技術のカタマリだったか | 乗りものニュース
                        • 紫電改エンジン「誉」見つかる 広島・呉の旧日本海軍航空廠跡の地中から(中国新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

                          太平洋戦争中に旧日本海軍の戦闘機「紫電改」などに搭載された高性能の国産エンジン「誉(ほまれ)」の主要部が、広島県呉市広黄幡町の米陸軍広弾薬庫の地中から見つかった。寄贈を受けた大和ミュージアム(呉市)は28日までに洗浄・保存処理を終え、6月3日からの企画展で初公開する。 【動画】見つかったエンジン 在日米陸軍基地管理本部(神奈川県座間市)によると、2018年9月11日、広弾薬庫ののり面整備工事中に、地下約1メートルから掘り出された。広弾薬庫は戦争末期に誉の量産を図っていた第11海軍航空廠(しょう)の跡地で、戦後70年余り、地中で眠っていたとみられる。同年12月、同管理本部施設局環境部長代理の名義で寄贈された。 出土品のサイズは、円柱形のクランクケースが直径約50センチ、回転軸のクランクシャフトが長さ約90センチ。エンジンの中心部に当たる。外周に2重星形に計18気筒あったシリンダーのピストンへ

                            紫電改エンジン「誉」見つかる 広島・呉の旧日本海軍航空廠跡の地中から(中国新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
                          • 「ワシは人殺しだ…」戦争体験者が流した涙、その理由とは

                            Search, watch, and cook every single Tasty recipe and video ever - all in one place! News, Politics, Culture, Life, Entertainment, and more. Stories that matter to you.

                              「ワシは人殺しだ…」戦争体験者が流した涙、その理由とは
                            • コラム:小川忠のインドネシア目線 日本はインドネシアとともに戦ったか?

                              小川 忠 (跡見学園女子大学教授、元国際交流基金ジャカルタ日本文化センター所長) 「親日国インドネシア」を巡る誤認 前回に続いて今回も歴史記憶をテーマとしたい。ネット上で流れる俗説に「インドネシアが親日的なのは、日本がインドネシア独立戦争をともに戦い助けたからだ」というものがある。これをうのみにして、インドネシアの人びとと接すると危うい。二つの事実誤認がある。 第一に、確かに現在のインドネシアは、世界有数の親日国だが、独立以来この国が親日的だったわけではなく、筆者が初めて足を踏み入れた80年代には少なからず反日感情も存在していた。その理由の一つは1942~45年の日本の軍政支配が苛政であったと記憶する占領体験世代がまだ存命であったことだ。 第二の誤認は、インドネシア独立戦争時の日本の立場をめぐるものである。国としての日本はインドネシア独立戦争を支援したわけではない。というのは降伏した日本に

                                コラム:小川忠のインドネシア目線 日本はインドネシアとともに戦ったか?
                              • 若林宣 on Twitter: "満州第731部隊だけでなく、アジア・太平洋戦争期の陸軍衛生部を追っていると、中国本部でも病院勤務の軍医が人体実験をする話とか出てくる始末でしてね。内地ではできない実験もはばかることなくできることから、日本医学界にとって魅力的な場だったのだろうと思うほかなく。"

                                満州第731部隊だけでなく、アジア・太平洋戦争期の陸軍衛生部を追っていると、中国本部でも病院勤務の軍医が人体実験をする話とか出てくる始末でしてね。内地ではできない実験もはばかることなくできることから、日本医学界にとって魅力的な場だったのだろうと思うほかなく。

                                  若林宣 on Twitter: "満州第731部隊だけでなく、アジア・太平洋戦争期の陸軍衛生部を追っていると、中国本部でも病院勤務の軍医が人体実験をする話とか出てくる始末でしてね。内地ではできない実験もはばかることなくできることから、日本医学界にとって魅力的な場だったのだろうと思うほかなく。"
                                • 黒田福美、反日に踏みつぶされても諦めない!「朝鮮人特攻隊員の無念」を弔う理由(週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース

                                  韓国の首都ソウルから南へ40キロに位置する龍仁市、そこに法輪寺という美しい寺がある。この境内の一角に、太平洋戦争当時、朝鮮人でありながら日本兵あるいは日本軍属として戦死した人々を弔う『帰郷祈願碑』がある。石碑ならば普通建っていそうなものだが、ある事情から横たえられた姿で安置されている。 【写真】建てられた祈願碑と、執拗な抗議で半分埋められた祈願碑ほか 2018年10月17日。寺では「重陽節法要」が行われていた。 「重陽節」とは、旧暦の9月9日に行う節句。韓国では、「非業の死」を遂げた方をお祀りする意味があるという。 法輪寺本堂で日本人と韓国人の参加者たちを前にひとりの日本人女性が、流暢な韓国語、そして日本語で挨拶をした。女優の黒田福美(63)である。 「みなさん、こんにちは。『帰郷祈願碑』を法輪寺に安置してから10回目の法要を迎えました。そしてまた、新しいスタートが始まります」 黒田といえ

                                    黒田福美、反日に踏みつぶされても諦めない!「朝鮮人特攻隊員の無念」を弔う理由(週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース
                                  • 「なぜ日本は絶対に負ける戦争に突入したのか」戦争で負けないためにやるべきだったこと ヒントは「大東亜共栄圏」にある

                                    しかし、なぜ日本は日中戦争の泥沼にはまる中、天然資源の最大の輸入国であり、約8倍の国力を有するアメリカに対する負け戦を始めたのだろうか。日本人にとって特別な意味を持つ戦争である、この太平洋戦争の原因について、国際関係理論(international relations theory)は興味深い示唆を与えてくれる。 リベラリズムの視点からすると、戦前の日本の国内体制は未成熟な民主主義で、好戦的な軍人に文民政府がハイジャックされた結果、非合理的な拡張主義的戦争が起きたということになる。 ドイツの哲学者カントは『永遠平和のために』で、平和の条件として、民主主義(共和政)、経済的相互依存、国際制度の3点を挙げたが、少なくとも、当時の日本はそのうちの一つの条件(この際、民主主義)を十分に満たしていなかったということである。 石油全面禁輸で「戦争をするしかない」と考えるように 政治学者のジャック・スナ

                                      「なぜ日本は絶対に負ける戦争に突入したのか」戦争で負けないためにやるべきだったこと ヒントは「大東亜共栄圏」にある
                                    • 米兵もむせび泣いた硫黄島の激戦、75年前の傷癒えぬ元兵士は語る(ナショナル ジオグラフィック日本版) - Yahoo!ニュース

                                      東京都心部から約1200キロの硫黄島に米海兵隊が上陸したのは、今から75年前の1945年2月19日だった。当初、米軍は簡単な掃討作戦とみなしていたものの、戦闘は5週間に及ぶ。その激しさは、百戦錬磨の米海兵隊員の心も折るほどだった。 ギャラリー:米兵もむせび泣いた硫黄島の激戦、75年前の傷癒えぬ元兵士は語る 写真7点 硫黄島の戦いに参加したビル・モンゴメリー氏は今、95歳。最近では右耳がまったく聞こえず、左耳もあまり聞こえない。しかし、硫黄島と呼ばれる岩だらけの島で、20歳だった自分の鼓膜に響いた戦場の音は、今も忘れない。そして、そこに掲げられた米国旗を見たときの、この上ない喜びも。それは米軍の歴史に永遠に刻まれる出来事だった。 「私たちが上陸して5日目のことです。私が一人きりで離着陸場の端の斜面に寝転がっていると、船の警笛が聞こえました。壕内にいた仲間から歓声が上がりました」 モンゴメリー

                                        米兵もむせび泣いた硫黄島の激戦、75年前の傷癒えぬ元兵士は語る(ナショナル ジオグラフィック日本版) - Yahoo!ニュース
                                      • NT/fiv💉💉| on Twitter: "どこの神社も何もないって言うわけだよな…という史料が見つかったのが本日のハイライト 史料を死守してくれた当時の方々に、改めて感謝していきたい https://t.co/y2Tjs1nvZg"

                                        どこの神社も何もないって言うわけだよな…という史料が見つかったのが本日のハイライト 史料を死守してくれた当時の方々に、改めて感謝していきたい https://t.co/y2Tjs1nvZg

                                          NT/fiv💉💉| on Twitter: "どこの神社も何もないって言うわけだよな…という史料が見つかったのが本日のハイライト 史料を死守してくれた当時の方々に、改めて感謝していきたい https://t.co/y2Tjs1nvZg"
                                        • 【おんJ民発】架空戦記「新訳 零戦戦記」 でネット小説サイト総合1位目指すで!!【異世界や悪役令嬢はもう飽きた?】 : 野獣先輩が選ぶ!?神SS&日本応援まとめ

                                          零戦が全く違うコンセプトで作られとったらって話や。 メアド、パス登録して、お気に入り登録、コメントや毎日のアクセスをオナシャス!!🙇‍♂️🌸 https://www.alphapolis.co.jp/novel/31830291/388496851

                                            【おんJ民発】架空戦記「新訳 零戦戦記」 でネット小説サイト総合1位目指すで!!【異世界や悪役令嬢はもう飽きた?】 : 野獣先輩が選ぶ!?神SS&日本応援まとめ
                                          • 撃沈した空母飛龍から生還した父 「命救われた」艦長の命令(西日本新聞) - Yahoo!ニュース

                                            長崎・対馬を代表する歴史研究者で、初の名誉市民でもある故永留久恵さんは、ちょうど1世紀前に生まれた。もともと教師だが太平洋戦争では真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に従軍。生きて帰り、その後は隣国との友好を唱えた。残した著書や史彦さんが伝え聞く話を通じて戦禍がもたらした世情を振り返り、いまの平和を見つめる。 【写真】師範学校の卒業アルバムに納まる永留久恵さん ×   × 戦艦霧島は、永留久恵さんら大勢の乗員を乗せて南下した。当時乗員たちはいつ、どこで戦闘に入るのか知らされないまま。大隅半島の佐多岬を回り太平洋に出ると、全員に甲板集合の号令が掛かり、陸上との通信禁止を告げられた。戦争が近い、そう感じた。 一度北上した後の1941年12月8日、その時が訪れた。霧島を含む艦隊はハワイ西北の海上にいたが、日付が変わった未明の艦内に「総員起こし」の号令が響く。明け方に近くの航空母艦から戦闘機や爆撃機が真珠

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                                            • 歴史に学ぶ経済制裁、なぜ日中・日米戦争を止められなかったのか?

                                              ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。西側諸国は経済制裁を科し、ロシアの侵攻を止めたい意向だが、その効果のほどは明らかでない。実は、満州事変から日米開戦に至る過程で、当時の日本に対する経済制裁が企画・実行された。これらは日本軍の行動をとどめることはできなかった。それはなぜか。経済制裁の歴史を、波多野澄雄・筑波大学名誉教授に聞く。 (聞き手:森 永輔) ロシアによるウクライナ侵攻の終わりが見えない状況です。2月24日から今日まで、この侵攻劇の軍事面・人道面に加えて経済面に人々の目が向けられてきました。経済面の要素の1つに経済制裁があります。今日は、波多野さんの専門である昭和戦史を振り返るとともに、経済制裁が効果を持ったのかどうか伺います。 波多野澄雄・筑波大学名誉教授(以下、波多野):日本が満州事変を起こして以降、日本に対する経済制裁が何度か試みられました。しかし、日本の大陸進出の方針を変

                                                歴史に学ぶ経済制裁、なぜ日中・日米戦争を止められなかったのか?
                                              • 日本の沈没潜水艦、慰霊碑除幕 80年後、80人の名刻む―豪:時事ドットコム

                                                日本の沈没潜水艦、慰霊碑除幕 80年後、80人の名刻む―豪 2022年02月18日15時41分 オーストラリア北部ダーウィン沖で沈没した旧日本軍の潜水艦「伊号第124」乗員の慰霊碑前に立つ山上信吾駐豪大使(左から4人目)ら関係者=18日、ダーウィン 【ダーウィン(オーストラリア北部)時事】オーストラリア北部ダーウィン沖で、太平洋戦争の開戦直後に旧日本軍の潜水艦「伊号第124」が沈没して80年余りが過ぎた。ダーウィンでは18日、乗員80人全員の名前を刻んだ慰霊碑の除幕式が催された。 極東情勢やいかに 米中さや当てに軍艦の日本周回◆真珠湾攻撃80年 伊号第124は開戦から間もない1942年1月、連合国側の重要拠点と見なすダーウィンの沖合を機雷敷設や哨戒のために航行中、豪軍の爆雷などの攻撃を受けて沈没。乗員全員が戦死した。船体は引き揚げられず、遺骨は今も水深50メートルの海底に眠る。沈没の翌2月

                                                  日本の沈没潜水艦、慰霊碑除幕 80年後、80人の名刻む―豪:時事ドットコム
                                                • 「最初のUFO事件」は日本軍潜水艦がキッカケ? 全米が戦慄した「ロサンゼルスの戦い」 | 乗りものニュース

                                                  世に「UFO」という言葉を広めた「ロズウェル事件」からさかのぼること5年あまり、記録に残る最初のUFO事件といえる大騒ぎがLAで起きていました。引き金を引いたのは旧日本海軍の潜水艦 伊十七とか。その顛末を追います。 発端は日本軍からの「クリスマスプレゼント作戦」か 「ロサンゼルスに空襲警報!」「敵機数25!」――まだ真珠湾攻撃の衝撃が冷めやらぬ1942(昭和17)年2月25日午前1時44分、ロサンゼルスのアメリカ陸軍 防空レーダーが西方約190kmの地点に、アメリカ本土へと接近してくる未確認飛行物体を探知します。それらは日本軍機と見なされ、「敵機来襲!」の警報が発せられて、沿岸の対空砲陣地や戦闘機基地が迎撃態勢へ。サンタモニカでは実際に赤く光る飛行物体が視認され、陸軍第37沿岸砲兵旅団が対空射撃を開始し、陸軍航空隊からは迎撃機が発進しました。 アメリカ西海岸の人口約150万人を抱える大都市

                                                    「最初のUFO事件」は日本軍潜水艦がキッカケ? 全米が戦慄した「ロサンゼルスの戦い」 | 乗りものニュース
                                                  • 「松代大本営」建設の犠牲者 関係者らが追悼行事 長野 | NHKニュース

                                                    太平洋戦争末期に建設が進められていた長野市の「松代大本営」の跡地で、工事で亡くなった人を悼み平和を祈る集いが開かれました。 長野市の「松代大本営」では、本土決戦に備えて軍や政府の中枢を移すため地下ごうの建設が進められ、動員された朝鮮半島出身者を含む多くの人が亡くなったと言われています。 10日は、犠牲になった朝鮮半島出身者を追悼する集会が地下ごうの入り口にある慰霊碑の前で行われ、慰霊碑を守る活動を行っている市民団体や松本市にある朝鮮学校の生徒など約60人が参列して黙とうをささげました。 そして、団体の塩入隆会長が「大本営の建設のために苦労した人たちを思うことは新しい時代の日韓関係を作るうえで必要なことだと思います。犠牲になった人のことを深く心にとめ、自分たちにできる形で日韓、日朝の交流を進めたい」とあいさつしました。 参加した人たちは、1人ずつ慰霊碑に花を手向けて静かに手を合わせ犠牲者を悼

                                                      「松代大本営」建設の犠牲者 関係者らが追悼行事 長野 | NHKニュース
                                                    • 海底に眠るUボート 終戦直後の「禁断の出撃」|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                                                      海底に眠るUボート 終戦直後の「禁断の出撃」(2018年8月6日 福井局 影山遥平記者) 京都府舞鶴市沖の海底でことし6月、72年ぶりに姿が確認された戦跡があります。旧日本軍の潜水艦「呂500」、別名「Uボート」です。 同盟国だったドイツから譲渡されたもので、戦後GHQによって海に沈められました。しかし取材を進めると「呂500」は、終戦後、意外な行動をとっていたことがわかりました。当時の混乱の中で、何が起きたのか。

                                                        海底に眠るUボート 終戦直後の「禁断の出撃」|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                                                      • 32歳で戦死…妻子へ送り続けた絵手紙400通(西日本新聞) - Yahoo!ニュース

                                                        太平洋戦争中、妻や幼い子どもたちに、戦地から絵手紙を送り続けた陸軍兵士がいた。家族を心配させないよう過酷な軍隊生活をおくびにも出さず、明るくユーモアたっぷりに描いた数々の絵からは、生き抜いて再び家族と幸せな暮らしを送りたいという願いがにじむ。兵士の孫、伊藤博文さん(51)=福岡市早良区=が所有する絵手紙を公開する企画展が8月1日~同30日、嘉麻市の碓井平和祈念館で開かれる。 【写真2枚】妻子思う戦時の絵手紙 兵士は福岡市博多区中洲中島町でちょうちん店を営んでいた半次さん。1941年、生後半年だった博文さんの父、故允博(よしひろ)さんら家族と別れ、旧満州国(中国東北部)へと出征。沖縄へと転戦し32歳で戦死した。 半次さんが出征先から家族に宛てた便りは400通に及ぶ。ちょうちん職人として腕を磨くため、日本画を学んだ半次さんは、その特技を生かして絵手紙をしたため続けた。 戦地の兵士を励ましたのが

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