坂本龍一の逝去からはや一月半。追悼の声は国境を越えジャンルの壁を超えて広がるばかりで、われわれの失ったのがいかに巨大で多面的な存在だったのか改めて痛感させられる。 だが、各自にとってかけがえのない坂本像が語られるうち、共通の坂本像が雲散霧消してしまうことにならないように、坂本龍一の軌跡の大筋を確認しておく必要があるだろう。その場合、1978年のYMO結成から出発するのではなく、その10年前に遡(さかのぼ)る必要がある。 子どもの頃から前衛音楽のスターだった高橋悠治に憧れ、68年の若者の反乱に刺激されて高校で学生運動に熱中した坂本は、70年に東京藝術大学に入り、77年に修士課程を修了する。70年大阪万博でシュトックハウゼンらの難解な電子音楽がフィーチャーされたように、それは音楽を含むモダニズムの前衛がピークに達し、またそれゆえに袋小路に入る時期だった。高橋のような先達が前衛を突き抜けたとして