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規制権力の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • 見えてる世界が違うこと。 - trajectory

    当初投稿からの補足を、紺色の文字で追加してます。 はじめに 2022年4月4日、新年度最初の月曜日に日経新聞の朝刊に掲載された、漫画『月曜日のたわわ』の全面広告を巡り、ネットで論議が噴出した。5月になろうとするなった今も、様々な観点からの意見が活発に出されている。 ブログを始めてみようと思ったのは、ネットの辺境、限界集落と称されるはてなブックマーク(以下、はてブ)の片隅で、その広告を巡る対話の中で書かれたお二人の記事を見かけたことがきっかけだ。お二人というのは、id:Shin-Fedor さんと id:sametasharkさんとのこと。リンクを以下に貼る。 たわわ広告の件での対話と、議論が噛み合わない理由の推論【4/26追記:気になったブコメに返信しました】 - はてブの出来事 【逆視点】id:Shin-Fedor氏との議論で私が考えていたこと。 - 冷めた鮫にはヒレがある。 たわわ対話

      見えてる世界が違うこと。 - trajectory
    • ワートリ胸カップ増田へのレスポンス

      ワールドトリガーは胸のカップ数表記をやめてほしいという話 https://anond.hatelabo.jp/20221008200247 どうかと感じるポイントをまとめた。 長い文に長いレスを付けたから読むのは3まででも十分。 1.「徹頭徹尾私のお気持ち」→「結局は倫理観の問題」ワールドトリガーは胸のカップ数(バストサイズ)表記をやめてほしい。 これからの文章はただ上の事を言いたいがために書いたものであり、 私の主観に基づく、徹頭徹尾『お気持ち』だ。 最初ここ読んで期待した。 ようやくこの手のこと「自分の感情」として整理してきちんと言える人が出てきたのかなと。 けどすぐにずっこけさせてくれる。 結局、この件は倫理観と価値観の問題なのだろう。 倫理観! なんやこいつ結局は自分の感情が「倫理」かよ。 自分の感情と「自明で万民が従うべき正義」みたいな妄想を区別しておくことが出来ない。 なら最初

        ワートリ胸カップ増田へのレスポンス
      • 【生権力とはなにか】その意味・フーコーの議論をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド

        生権力(英; bio-power, 仏; bio‐pouvoir)とは、古典的な権力である「殺す権力」とは異なり、従属者たちを「生かす権力」を意味します。フーコーは人間の生に積極的に介入して、しかるべきやり方で管理・運営しようとする現代的な権力のあり方を「生権力」と呼びました。 フーコーの「生権力」は現代における権力作用を理解するために極めて重要な概念の一つです。その概念を理解するためには、『監獄の誕生』で提示された規制権力とともに、学ぶ必要があります。 そこで、この記事では、 生権力の意味 生権力と規制権力 生権力とセクシュアリティ をそれぞれ解説していきます。 あなたの関心に沿って読み進めてください。

          【生権力とはなにか】その意味・フーコーの議論をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド
        • 「問われる自由民主主義とセキュリティ」鼎談 /杉田 敦・田村 哲樹・住沢 博紀 | 特集/コロナに暴かれる人間の愚かさ

          問われる自由民主主義とセキュリティ 新型コロナ禍に直面して、グローバルな世界、国家、社会はどう立ち 向かうのか 1.2020年1月は、21世紀自由民主主義の転機となるか 住沢 『現代の理論』では、自由民主主義諸国におけるポピュリズム政党の台頭や、中国・ロシアなど、冷戦時代とは異なる新しい権威主義的政府の登場に注目してきました。そこで欧州社民政党や日本の政治改革の流れなど、「進歩主義」を掲げる政治の限界と課題をテーマとして、政治学者との対話という形で議論してきました。 2020年1月、中国の武漢から始まる新型コロナウイルスの世界的な流行(パンデミック)は、多くの国々をロックダウンの連鎖に追い込み、大きな経済的・政治的危機を生み出しています。 杉田さんは「権力論」、田村さんは「民主主義論」について研究されており、また、『デモクラシーとセキュリティ:グローバル化時代の政治を問い直す』(法律文化社

          • リベラルなのに規制を肯定…“こんな人たち”の番人思考とは?

            リベラルではなく「リベラルの番人」 日本で「リベラル」を自称する者はたくさんいるが、彼(女)らの発言・振る舞いを見てもとてもリベラルとは思えない。例えばあいちトリエンナーレでは「痛み」「不快」を伴う表現(昭和天皇の肖像写真の焼却)への公的支援の是非が問われたが、リベラルはこの表現を「表現の自由」を根拠に肯定した。 また、自由社会に悪影響を与えかねない神奈川県川崎市のいわゆる「ヘイトスピーチ規制条例」もリベラルは積極的に肯定した。 日本のリベラルは「痛み」「不快」そして「規制」を肯定している。しかも積極的にである。このリベラルが権力を掌握する、例えば「立憲民主党政権」が成立した場合「在日コリアンへのヘイトを防止する」を名目に我々日本人の言論・表現の自由を規制する治安立法が制定される可能性は十分にあり得る話である。 それにしても「痛み」「不快」「規制」を肯定するリベラルとは何者なのか。リベラル

              リベラルなのに規制を肯定…“こんな人たち”の番人思考とは?
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