1995年1月17日午前5時46分。 あのとき、もし私たちの手元にスマートフォンがあったなら、阪神・淡路大震災はどう伝えられただろう。 地震発生後に起きた事象を時間ごとに、当時の写真や動画で追いながら、あの日を再現する。 ※ページ内には当時の被害に関する映像・音声を使用しています。
「ご覧いただいている映像は、地震が起きたときの神戸放送局の放送部の様子です」 画面全体が激しく揺れている。机も椅子も棚も波打つようにスライドしていく。 「大きな揺れが繰り返し襲っているようです。いろいろなものが棚から落ちたり机から落ちたりしています」 放送局の泊まり当番で仮眠中の記者に向かって本棚が倒れてくる。 記者が間一髪に飛び起きると、次の瞬間、周りが真っ暗になる。停電だ。 直後、記者は電話へと飛びついた。 1995年1月17日午前7時に放送された、朝の全国ニュース「おはよう日本」。 震度7を観測した阪神・淡路大震災の揺れのすさまじさが初めてテレビで全国に伝えられた瞬間だった。 地震発生からすでに1時間あまりが経っていた。あの日、いったい現場で何が起きていたのだろうか。 錯綜する情報 混乱する現場午前5時46分。阪神・淡路大震災が発生。 NHK大阪放送局がテレビとラジオで放送を開始した
今日、阪神淡路大震災の日を神戸で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。 私は1995年1月17日の阪神淡路大震災の当日に産まれた。 ただ、産まれた場所は東京でその後12年間を都内で過ごした。 12歳になった頃、親の転勤で兵庫県神戸市に引っ越した。 メアド交換をする際にアドレス帳に誕生日を登録することがよくあったり、赤外線通信でメアドを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手に自分の誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が1995年の1月17日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。 その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。 私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれは神戸じゃないんです、東京なんです。」と答えていた。 すると相
阪神・淡路大震災が発生した1月17日を前に、15日、淡路島と橋で結ばれている徳島県の鳴門市役所で毎年恒例の防災訓練が行われましたが、参加した職員が緊張感に欠け、市長が異例の強い口調で反省を促すとともに改めて抜き打ちの訓練をすることになりました。 鳴門市の防災訓練は、阪神・淡路大震災が発生した1月17日に合わせて毎年この時期に行われていて、今回は震度5弱の地震が起き、1階の給湯室から出火したという想定で行われました。 訓練が始まって館内放送が流れましたが、職員が行うべき初期消火や来庁者役の人への避難誘導、さらに避難場所の駐車場への移動もスムーズに行われませんでした。 緊張感に欠けた訓練に泉市長は立腹し、最後に講評で「緊張感、切迫感が全く伝わってこない。腹が立ちました。これで鳴門市役所に市民が安心感を持ちますか」と異例の強い口調で職員に猛省を促し、近く改めて抜き打ちで訓練を行うことを伝えて締め
© Asahi Broadcasting Group Holdings Corporation All rights reserved.映像協力:サンテレビジョン、ANN系列各局 後援:人と防災未来センター 6000名を超える犠牲者を出した阪神淡路大震災から25年が経ちました。 神戸市に住むおよそ半数が、「震災を知らない人々」となり、記憶や教訓の風化が急速に進んでいます。 震災映像の公開にあたって、震災後に生まれた大学生のみなさんに、当時の映像を見ていただきました。 毎年のように起こる災害。こうした映像を見慣れているはずの彼らが、驚いた表情でこう語ってくれました。 「カメラに向かって、こんなに思いを語っている被災者を見たことがない」 「語り尽くせないほどの悲しみの中で、生きようとしているのがよくわかる」 「被災者のみなさんが語る言葉や表情に、今も活かせる教訓が詰まっている」 思いがけない大
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く