はじめに 2.データリテラシーの重要性 3.データリテラシーの限界 4.問題はデータリテラシーではない 5.私たちにとってデータや統計とは何か? 6.データや統計を正しく扱うために 【参考】 はじめに 統計はありのままの現実を映し出していて、人間の主観や恣意性を排除した客観的証拠であるというのは間違いだ。 リテラシーを学ぶ意義というのは、そういったことを理解することにある。 統計やデータというものは以下の性質をもっている。 ・統計やデータは、誰かの主観的な仮説をもとに作られている。 ・統計やデータは、現実の一部を恣意的に切り取って編集した表現物である。 ・統計やデータは、一部の現実にしか言及できないため、多くの事実を無視して作られている。 つまり、統計やデータというのは良いものであれば議論の材料の一つにはなるが、悪いものなら主観と偏見から悪意ある編集をする偏向メディアになりうる。 だから、
0.はじめに 1.恋愛工学とは何か 2.現代の「オリエンタリズム」 0.はじめに 今回の記事は、前回の記事の内容についてより具体的に言及していくことにする。 まず、前回の内容を振り返ろう。 前回の記事では、「役に立つ学問」の何が問題なのかについて「支配」という概念を通して整理した。(下記参照↓) tatsumi-kyotaro.hatenablog.com 「支配」とは徹底された一種の管理方法のことである。 そして、全く未知のものは支配することができない。 よって、適切な管理にはマニュアルと、それを作るだけの知識が必要になる。 つまり、支配の条件はその支配対象を熟知することにあった。 多くの場合、支配の前段階には支配対象を深く洞察し定義しようとする過程が現れるわけである。 そして、学問も対象を深く洞察し定義付ける体系的知識が集合する場である。 そのため、支配までの過程が学問の皮を被って現れ
0.はじめに 1.支配するとは何か 2.自由に操る為に必要な条件 3.支配的欲望が「研究」として現れる瞬間 0.はじめに 「大学に文系学問はいらない。なぜなら文系学問は役に立たないからだ」といった類の文系廃止論が叫ばれて久しい。 これに対する反論は大きく二つに分類される。一つは「文系学問は役に立つ」という反論。二つ目は「学問は役に立つか役に立たないかという基準で価値を判断されるべきではない」という反論だ。ここではその二つの反論についてのコメントは差し控えたい。注目したいのは、そのどちらも「役に立つ学問」という概念そのものには触れていないことである。 それどころか、学問が「役に立つこと」「使えること」を良いこととして無邪気に肯定する風潮も見られる。 そこで、私は今一度「役に立つ学問」「使える学問」という概念の危険性について整理してみたいと思う。 この記事では「役に立つ学問」の何が問題なのかに
1.これまでのあらすじ 2.健全な議論による社会の変革に期待すべきか 3.これからの論点について 1.これまでのあらすじ ネットでは基本的に、議論は議論ゲームへと変更されるように力が働く。それは、社会的弱者や、マイノリティの主張を相対化し弱める力である。 つまり、議論ゲームでは弱者やマイノリティの意見は取るに足らないものとして力を削がれてしまうというのがこれまでの主旨であった(前回までの記事↓) tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com この様な議論ゲームの力の働き、力場を利用し、自分達に優位になるように議論ゲームを展開することにある種の卑劣さを感じる人も多いことだろう。事実、ネットの議
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1.前回までのあらすじ 2.議論ゲームでフリーライダー側は勝利しなくても良い 3.議論ゲームの不利は覆せるか? 4.今、私たちに何が出来るのか 1.前回までのあらすじ 前回まで記事で、ネット上の議論ゲームではマイノリティ側が勝利を収める事は非常に困難であると結論付けた(↓下記参照)。 tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com tatsumi-kyotaro.hatenablog.com まず、前回までの記事の内容を軽くまとめよう。 前回までの記事で、ネットの議論ゲームにおいて、社会的弱者が圧倒的に不利な状況に置かれる事を確認した。その理由は、社会的弱者側にとってネットの空間が、質問に晒される記者会見的空間になってしまっているからであるという説明も加えた。 問題提起側は、現状に問題点を発見して、それに対する改善
400年も500年も昔の美術作品を調べていると、ときどき21世紀人から見るとぎょっとするような主題のものがある。 パッと思いつく限りでも、ギリシャ・ローマ神話には「それって女性側からしたらどうなん?」となるような話が満載だし(テセウスに捨てられるアリアドネとか、ゼウスに犯されるエウロパとかレダとか)、キリスト教主題だって自分らの父親を誘惑する娘たちってどうなのってなるし(ロトと娘たち)、世俗主題でも純潔を汚された乙女が自殺するのが美談になってるし(ルクレティア)。それが絵やら彫刻やらであらわされて、当時の文献で「まことに美しい」とか書かれていたら、そりゃ絵はそうやろけどこれ相当ヤバい話やで? みたいになりますわな、こちとら21世紀人なんで…。 現在都内の大学で西洋美術史を教えているのだけど、こういう話を紹介するのは難しい。難しく感じているのはこちらだけかもしれないけど、とりあえずいちいち「
これはわたしの観測範囲の問題かもしれないんですけど、最近のインターネットを見ていてよく思うのが、「マジョリティである」と認識することの難しさです。 ひとはいろんな属性を同時に持っているので、ある場面ではマジョリティだけど別の場面ではマイノリティである、といったことはあります。 でも、それがわからない人がすごく多い気がする。ある文脈ではマジョリティになっているにも関わらず、自分のことをいついかなる時も絶対マイノリティだと思っていて、批判されると「また口をふさがれた」みたいな被害者意識を強めてしまう、みたいな光景をめちゃくちゃよく見る。その被害者意識が攻撃に転じる。で、すでに抑圧されている人をさらに傷つけてしまう。そういう、最悪な負の連鎖があらゆるところで起きている気がする。 多分それって「マジョリティである」と認識すること、それにまつわるあれこれを引き受けることが本当に難しいからっていうのも
松浦氏もこれをリツイートしています。 しかし、一連の議論はそもそも事実なのでしょうか? 野党批判のために持ち出された「女湯の利用拒否が差別」への疑問結論から言えば、野党が提出しているLGBT差別解消法案に関する議論において「手術を受けていないトランスジェンダー女性の女湯からの排除が差別である」なんて話はそもそも出ていないのです。 また差別に対する罰則も設けられていません。「男性器のある人を女湯に入れるのを拒んだら罰せられる」というフィフィ氏のツイートは、二重の意味でミスリードとなります。 この議論は二つの方向から行うことができます。 一つは、LGBT差別解消法案の文章を読み解くアプローチです。 法案を読めば、「差別したら罰せられる」との議論が事実無根であることが分かりますし、事業者に求められている内容もわかります。 現在の野党案が事業者(企業など)に求めているのは、「性的指向または性自認に
日本の左派やリベラル派はよく仲間割れしていると言われますし、実際ちょくちょくそれが目につきますが、これは何故なのでしょうか? 他でもよく似たようなことが言われますが、それはそもそも「左派」と呼ばれる集団は、元々まとまった一つの集団ではなく、言ってみれば「右派ではない」集団の総称だからだと思います。 つまり「右派」というのは、その国の主流派、または伝統的なやり方に適応した人々のことであり、それに適応していない人々の集団がまとめて「左派」と呼ばれているのであって、 実際には民族的マイノリティの集団、性的マイノリティの集団、宗教的マイノリティの集団、またそれとは別に単純に政治的に左派である人々など、それぞれ異なった背景と思想を持った集団の集まりなのだろうと思います。(さらに、これらの集団の間でも細かい違いがある)もちろん、マイノリティだからといって左派とは限りませんが。 ですから、その諸集団の間
差別と同化(ユダヤ人を中心に) 松村 治 『ユダヤ人ゲットー』(大澤武男著)からヨーロッパ社会ではユダヤ人に対するひどい差別の歴史があることを知った。ディアスポラ以来のユダヤ人差別の長い歴史の中で18世紀に始まったユダヤ人のドイツ社会への同化への動きに注目してみると、同化の過程で,ユダヤ人の世界が拡大する一方、アイデンティティの喪失の問題や、同化が進むことによりさらに大きな偏見が生まれるというように様々な変化があったことがわかる。 ユダヤ人の差別は1つの社会の中でのマイノリティに対する差別の典型であり、ユダヤ人がその差別にどのように対処しようとしたか、また彼らに対してマジョリティの側はどのような態度をとったかをその歴史の流れの中でみていくことは差別の問題を考える上で大変重要である。今の日本の社会もマイノリティに対する差別の問題とは無縁ではなく、在日朝鮮人の差別問題など私たち自身の問題として
性社会・文化史(ジェンダー/セクシュアリティの歴史)の研究者としての活動、研究成果の一端、トランスジェンダーとしての日常と関心事を記していこうと思います。 10月19日(金) 少し前に日本における「性同一性障害の人の割合」について考えた。 http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2012-10-07-4 その結果、日本ではFtM(Female to Male)が諸外国に比べてかなり多いことを指摘した。 今回は、その理由(数字的あと付け)を考えてみた。 日本の女性人口を6448万人とする。 そして、その3%が女性同性愛者(レズビアン)であるとすると、レズビアンの人数は193万人いることになる。 ただ、日本社会の現状では相当数が潜在化していると思われる。 仮に顕在化率を3分の1と考えると(根拠なし)64.5万人となる。 本来の性同一性障害の人(FtM
「特権を持つと、なぜ格差が生まれるのか?」を生徒に分かりやすく説明するために行われた、という授業の内容がYouTubeにて公開されており、誰にでも分かるようにかみ砕かれた内容が非常に秀逸なものとなっています。 Students Learn A Powerful Lesson About Privilege - YouTube とある教師が生徒に向けて「社会的地位と特権」についての授業を行いました。 教師は生徒に紙を使ったゲームを提案します。 ゲームは至ってシンプルで、紙を丸めて教室の黒板前に置かれたゴミ箱に投げ入れる、というもの。 ゲームは生徒がそれぞれひとつの国の代表者となり、ゴミ箱の中に丸めた紙を入れた国は豊かになります。そして、豊かになった国は座ったまま何もしなくてもお金がゲットできるようになります。 このゴミ箱の中に丸めた紙が入れば「勝ち組」というわけ。 ルールを聞き、クラスの後ろ
九段新報 犯罪学オタク、新橋九段によるブログです。 日常の出来事から世間を騒がすニュースまで犯罪学のフィルターを通してみていきます。 ジャンプの表紙に関する議論が主にツイッターでなされています。 この件に関して、私も何度か記事を書こうと思いはしたのですが、書きかけてはやめるということを繰り返しています。 というのも、ここで問題になっている議論というのは私が過去に記事で指摘したことのちょっとしたパターン違いなだけなんですよね。要するにゾーニングと表現者の姿勢の問題につきます。 オタクが「ポリコレ」を理解する前にわかっておくべき前提 ポリティカル・コレクトネス(PC)とは何か フェミニズムにおける「まなざし」と批判の要点 『のうりん』ポスターが批判を呼んだわけ 基本の論点の整理 碧志摩メグは結局何が問題だったのか ブログなので同じことを繰り返し記事をアップデートしていくのも大切なのですが、忙し
2018.08.03 00:25 『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない 『ヒプノシスマイク』と差別表現をめぐって、ネット上で議論が起きている。『ヒプノシスマイク』とは、男性声優がキャラクターになりきってラップをするキャラクターソングとボイスドラマが収録されたCDのシリーズである。メインターゲットはオタク女性だ。第一線で活躍するプロのラッパーが曲提供した聞き応えのあるラップと魅力的なキャラクター造形で人気になり、最新作はオリコンで首位を獲得した。 しかし、ボイスドラマの中にはミソジニー(女性蔑視)やホモフォビア (同性愛蔑視)と受け取れる表現が含まれており、批判が起きた(参考:「ヒプノシスマイクが怖い話」)。また批判に対して「嫌なら見るな」「フィクションと現実は別」などの反発も相次いでいる。 実際にボイスドラマの内容を引用してみよう。 「てめーら俺の
または仲間同士で連帯しようとする時に、自分と同じ属性を持っている人への嫌悪感を抱くことがありますが、これも自己スティグマです。 女性でいえばミソジニー(女性蔑視)があります。男性もミソジニーはありますけれども、女性同士のミソジニーというものがあるのです。 女性運動だけではありません。障害者運動であっても、障害を持った人同士で、自分の障害を憎むだけではなく、同じ障害を持った仲間を憎んでしまうことが起きます。 例えば、同じ属性を持った仲間が勇気を持って社会に対して異議申し立てをした時に、「そんな恥ずかしいことやめてくれ」「あんな風に周囲に攻撃性を発揮したら、こっちまでネガティブに見られてしまうじゃないか」と仲間への違和感を抱かせます。 健常者同士ではあまり起きないことです。ある健常者が社会運動をしたとして、他の健常者が「やめてくれ。健常者のイメージが悪くなる」とはあまり言わないですね。 こうい
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