ブックマーク / katari-mata-katari.hatenablog.com (99)

  • どこまでも言葉を試す - 語る、また語る

    日常的に遠回しな言葉を使いがちだ。遠回しから始めて、伝わり具合を見て直接的に言い換えたりしている。 婉曲した言葉は角が立たない分、ぼんやりしてしまい、言ってみたもののもやもやして、だったらはっきり言ったらよかったというときもある。いずれにしろ、相手の返しによるところもあって、使い分けたらいいのだろう。 きっぱり言うようにしてみると、言葉が自分のものでないような気がして、自分が用いている言葉とは、慣れているだいたい決まった感じがあるのかもしれない。 気持ちに合うような言葉にできなかったとしょげていたけれど、そういうことがあるからまたいろいろな言葉を使ってみるのであるし、どんどん言葉を使っていこうと思うのである。 「やらなければ上手くはならない」というTVから聞こえてきた台詞が、自分に向けられているようだった。

    どこまでも言葉を試す - 語る、また語る
  • 大人になってからは、挨拶でしのげる - 語る、また語る

    小学五年生のときに一人で映画を観に行った。単館だったこともあり、ロビーは出入りする客でごった返していた。ちょうど同級生二人と鉢合わせた。あまり親しくはない隣の組の子たちで、次の上映に向かっていたようだった。 二人「あ、〇(私の名前)ちゃん」 私「ああ」 (会話終了) そのくらいの年頃は、一人でいるところを見られたくないというか、友だちがいないと思われることを恐れていたものだった。実際に、そのときは映画に行ける友だちはいなかったので、会ってしまったというのが音だった。 それより何より、子ども同士はこういうときにどのようなやりとりができるのだろう。どうしたらいいかわからないし、どうするについても及ばなくて、いつも同じところで足踏みしていた気がする。現役小学生の様子を見ると、名前を呼んで手を振るとか、おーいと呼びかけたりして楽しそうだが、自分はそんなことは思いつきもしない子どもだった。 大人に

    大人になってからは、挨拶でしのげる - 語る、また語る
  • 本棚に布 - 語る、また語る

    棚をあまり人に見せたくない。 稀に来客などがあると、棚のを戸棚にしまう。だったら出しておかなきゃいいのだが、棚のは自分の分身のようなので見えるところに出しておきたい。あとはCDとか図書館の貸出履歴もわりと。小さな子どもがぬいぐるみを持ち歩くのと同じである。いつもやCDを持ち歩きはしないけれど。 子どものころ習い事に行っていた家の一室の棚には、決まって布がかけられていた。その部屋は窓のない壁一面が木製の棚で、花柄やストライプ、無地の布が鋲でとめられていた。まあ、自分はこっそり一部の中を覗いていたものだが、それらはすべて料理だった。おそらくが焼けないためにそうしていたのだろうが、すぐには見れないような牽制もそこにはあったのではと勝手に思っている。 棚はその人を映すという。棚をわざわざ見せたくないのも、自意識が人からどう思われるかを気にする、または自分を守ろうとしている

    本棚に布 - 語る、また語る
  • すぐに差し出せますか - 語る、また語る

    近くの席の人が飲み物を机にひっくり返したとき、さっと、拭くものを差し出せますか。 鞄の中を探ったものの、もったいないのでは、でもやっぱりと渡したけれど別の人が秒で早かった。何というか、もったいないなんて"けち"なものだ。私は"けち"なのでいいのだけど、少し自分に拍子抜けした。相手が困っているのにもったいないなんて。そういうときにすぐ動ける人は、日ごろからそうなのだろう。 拭くものを渡しただけでも伝わる人には伝わるかもしれない。やさしさのようなものが。でも、やはり自分がもったいないと感じたところが気にかかった。 手をあげた人たちの中から気遣いをいただいた人へのお礼と、手をあげた人たちにもその気持ちへのお礼がいるのだ。たとえ、もったいないとか、周りに合わせてとかであっても、その場を何とかしようとしてくれたということなのだから。今日の自分のためにそういうことにしておく。

    すぐに差し出せますか - 語る、また語る
  • お答えすることはできません - 語る、また語る

    触れられたくないことは触れられたくないのである。 自分が伝えたいと思って伝えるのはよいが、不意に尋ねられてなし崩しで伝わったり、噂がまるで事実のようになっていくこともある。 もう少し配慮してほしいといってもそれぞれの言い分もあるだろうから、自分としてできることは聞かれても答えたくないという意思の表示をすることくらいだ。 苦笑いでもよいし、「お答えすることはできません」とか「回答を控えます」のようなことでもいい。フランクな雰囲気であれば「秘密」とかもありだ。 相手は知りたいのだろうなと思って言ったものの、後悔している。 かといって、隠したいけれど知ってほしい気持ちもあって、そうなったのだろうけれど。 心情というものも、白か黒かではっきり分けられるものでもなく、曖昧なものなのである。

    お答えすることはできません - 語る、また語る
  • 素直さは、ときに甚く悲しい - 語る、また語る

    何かと予定が続く5月。朝になったら6月になっていてくれないものか。ならないことは知っている。 実家から沢山あるからと、幼いころの写真が届いた。父も母も弟たちも若い。当時の写真に写った子どもたちを見て、何かこの人は好きだった、この人はちょっとみたいな感情がよみがえった。 年中のころ、たしか私は後ろから三番目だった。遠足とか散歩とか、背の順の二人で手をつなぐことがあったのだが、あとの二人のうち前の子どもが、私と手をつなぐこともを頑なに拒んでいた。常にだったのか、手をつなぐことがどのくらいあったかも定かではないが、手をつなぐときには前の私ではなく、一番背の高い後ろの子どもと手をつないでいた。そんなことがあってかなくてか、一番背の高い子は私にやさしかった。どんな風にというと少し困るけれど、一緒に話したりした。自分から人に話しかける子どもでもなく、何なら一言も発さずに幼稚園から帰ってくるような子ども

    素直さは、ときに甚く悲しい - 語る、また語る
  • 趨勢の中にある - 語る、また語る

    小学校五年生くらいのとき、ブラジルからの転校生が三人来た。 私の地元は人口三万人くらいの市であったが、それなりに工業団地のようなものがあり、近くには海を越えてやってきた人たちによって建てられた、赤や青や緑の住宅がわずかに並んでいた。 少ししてから、そのうちの一人の家に行くことがあった。どうしてそんなことができたのかは忘れた。ただ、彼女は週に何回か校内で日語の授業を受けていたから、そのころには少し話せたのかもしれない。子ども同士であったし、遊んだりしているうちに、言葉が通じなくても打ち解けていったようにも思う。彼女は、おとなしいけれど芯の強い姉のような感じがして、一緒にいて居心地がよかった。実際に年上だったが。 ちなみにあとの二人は、踊ることが好きで陽気であったり、バスケットボールが上手でやさしかったりした。 転校生たちは授業中にガムを噛んでいたり、耳にピアスもあいていたけれど、ブラジルで

    趨勢の中にある - 語る、また語る
  • 背表紙に感情が絡まる - 語る、また語る

    連休になると物を整理したくなるものでもあり、増えていく物に目をやろうとするのもまた連休である。整理することは楽しいのだが、着手するまでが長い。棚にあるとCDの背表紙を見ながら、もう手元になくてもいいものがないか考える。 十年くらい取っておいたがあった。ほんの数秒でもうこれは売ろうと思った。自分は、いらなくなったものは、よほどのものではないかぎり中古品を扱っているお店に売りに行く。オークションとかフリマアプリなどもあるが、売れるまで保管しなければならないのと、出品と発送が煩わしくてやっていない。あまり金額は期待できないが、すぐに物がなくなる方がよいのだ。 さて、その売ることにしたであるが、あなたはこれこれこういう人、というであった。自分がどういう人なのかを、誰かに決めてもらってそれを暮らしの糧のようにしてきたところがあったけれど、もう十分である。これからは別のところで誰かを助けてほし

    背表紙に感情が絡まる - 語る、また語る
  • 読んで書いてまた読んでいる - 語る、また語る

    4月はとてもブログを更新していて、少し一息のつもりが、他のブログを読むとまた何か書きたくなってくる。 もの悲しいときに、誰かのブログを読むことがある。それを生業にしている方の書いた小説や随筆や音楽にある言葉だけでなく、親しい人の言葉に助けられるように、遠くにいる専門家より近くにいる友人知人を頼りにするようなものだ。 ブログによるアウトプットは、書いて読まれるまで含めてのアウトプットである気がしてならなくて、そのアウトプットがなされるとまた読むというインプットをしたくなる。とはいえインプットが先かアウトプットが先かについては、やはりインプットが先であると思うから、タイトルにあるように、自分は読んで書いてまた読んでいるわけである。 自分が読むことで誰かのアウトプットに加担し、誰かのインプットが促すものの一つになっているならと勝手に満足している。

    読んで書いてまた読んでいる - 語る、また語る
  • 今日の日はさようなら - 語る、また語る

    五年振りに再開した露店で菓子を買い、「また会う日まで」と言って別れた。会話の流れで五年振りだとわかって、もういい年なので来年も来たいがどうだろうということだった。コロナはまあ三年くらいなので、五年というと、もろもろあったのかもしれない。 また会う日まで。 自分がつぶやいた言葉が意外に感じられた。焚き火を囲んで口にした、そんな歌もあった。 いろいろ"おまけ"も付けてもらったことだし、また五月になったら「また来たんですよ」とかいって、相手が覚えてなかったとしても驚かせてみたいものだ。そんなことを思いながら、菓子の袋をぶらさげて歩いて家に帰った。 www.youtube.com

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  • Nobody's Perfect - 語る、また語る

    完璧な人はいないということを、英語では「Nobody's Perfect」という。言葉数にしても聞こえにしても、これぞ英語である。読むにも話すにも肯定か否定かすぐにわかる。「いない、完璧な人は」でも意味はわかるけれど、日語としてはあまり聞かれない組み立てだ。終わりまで聞かせる日ののどかな島の感じも好きではあるが。 小さなことにも完璧主義が見え隠れしていて、そこに「Nobody's Perfect」をかぶせてみる。それだけで強さがある。頭で英語の会話をしないから明らかに目立つということもあるが、はじめに書いたように、端的なところが爽快なのだ。 「Nobody's Perfect」とは、カナダの就学前の子を持つ親のための支援プログラムのことでもあるらしい。完璧な親も子もいない、だから助けてもらったり助けたりしようという理念のようだ。とても自分が助けられる言葉である。 www.youtube

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  • 非日常を旅と思う - 語る、また語る

    特別に旅に行きたい人ではないので、旅に行くのは非日常で、すなわちときどき起こる非日常は旅なのである。 実際に旅をして生きているわけではないから、しばらく非日常があったらまた日常に戻れることが恵みのようだ。 自分にとって非日常は、どちらかというとストレスだ。ストレスを旅にたとえたら、旅好きな人が怒りそうである。しかし自分にとっては旅はもちろん楽しいけれど、日常より何がどうなるかがわかりにくいという意味ではストレスなのだ。 非日常を過ごすだけの気力と体力を、日常でつくって休んでいる。

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  • 変わりたくない意思もある - 語る、また語る

    ついていくことでもないとはいえ、いろいろな変化の速さについていけないと思うことがある。 ついていけないながらどうにかやっているのは、案外みんなそうなのかもと感じる。 人は変えられないとはいえ、辺りは変わっているように思われる。 自発的に変わったのか、変わること促す仕組みがあったということか、流行りというもにはよくわからない。 変わらない人に苛立ってみても、自分もところによっては変わらない人だ。変わりたくないから変わらないのだ。変わることにも変わらないことも、意思があるというところでは、同じなのかもしれない。

    変わりたくない意思もある - 語る、また語る
  • 言葉を楽しむと、会話が楽しい - 語る、また語る

    一年は早いけれど、まだ五月だとも思っている。そんなときに次の年までまだ一年ありますねという趣旨のことを話したら、もう少しですねと言われた。 「まだ」と「もう少し」は微妙にニュアンスが違う。「まだ」の方が「もう少し」より目標物に遠く、「もう少し」の方が「まだ」より目標物に近い気がする。「まだ」の方が悲観的で「もう少し」の方が楽観的な印象である。 近いも遠いも楽観も悲観も、いちいち数値化するわけではないので主観的な感覚ではある。その主観的な感覚をもって、自分の使っている話し言葉が悲観的であると思うことがまあまあある。 家族に親切をするつもりが「これこれしてあげましょうか」と聞いて、何か立場の高低というか家族より自分の方が高いところにいるような気になった。「これこれしましょうか」にしたら平坦な感じになってよさそうだった。 自分の使っている言葉を遊びのようにしつこく追っていくのはおもしろい。もちろ

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  • 「ゲシュタルトの祈り」から省みる - 語る、また語る

    もう書籍を探すにも探せないのですが、「ゲシュタルトの祈り」を知ることがありました。そんな"あやふや"なきっかけとはいえ、インターネットでの言及を見かけることがあったり、昨年受講した講座の締めに「ゲシュタルトの祈り」が紹介されていたりしたこともあって、やっと、そうかけっこう知られているのかと思ったくらいです。 まえがき 「ゲシュタルトの祈り」の実際(パールズの著書より) 「ゲシュタルトの祈り」(国分康孝訳) 「ゲシュタルトの祈り」から省みる まえがき 「ゲシュタルトの祈り」とは、ゲシュタルト療法を提唱したフレデリック・パールズ(以下パールズと書きます。)が彼のグループワーク(セラピー)で用いた文章です。自分と相手の関係において指針になるようなことが述べられており、いつかブログに書きたいと思っていました。 自分としては原書といわずとも、実際にパールズによって展開されたグループワークの、どのよう

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  • まわりまわって清算される - 語る、また語る

    あくまでも些細なことについて。 哀れなことがあってそれは哀れのままなのだけれど、まったくつながりがなく良いことがやってくる。 良いこともあれば哀れなこともあるというのは、哀れなことがやがて好転していくというわけではなく、それとは別に良いことがある、そのまわりまわった感が面白いと思った。 良いも哀れも、もしかしたら良いが哀れで、哀れが良いになるかもしれない不確かさをはらんでいる。 こうすればこうなるという確かな法則はないのであるが、哀れなことがあっても、ひょんな良いことが現れる意外さというか、いたずらのような動きに気づいた。 ほんの小さな哀れなことがあっても、そのうち良いこともあるとわかれば、哀れに後ろ髪を引かれてばかりにはなりにくい。

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  • 未知に膨らむ - 語る、また語る

    事の道理をとくとくと言い聞かせてみても、どこまで実感をともなって受け止められているかは定かではない。 具体的な経験と結びつけて抽象的なことを話して、また具体的なことがあって抽象的にまとめようとして、そうかこういうことなのだろうかとわかってくるのだから、こちらが急いでもいけないようだ。 今の大人といわれる歳になってから二十年、やっと親の伝えたかったことがわかる、そんな気がしている。口で言うことの加えてむしろ親の生活する姿から、子は何かを感じるものなのかもしれない。 父はとにかく「身体が資」と言う人である。そんなに身体をいたわっているようには見えなかったが、年明けの卓や晩酌のときには決まって「身体が資」と口にしていた。自分のために言っていたのかもしれない。年齢が足されてくると、ますますその言葉の重みがわかるものである。 母は「頭を使え」と言う人である。手間をかけずに、身体を動かさずにでき

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  • 雨に踊る - 語る、また語る

    雨に降られてはしゃぎながら走り回る若者たちを見て体は冷えないだろうかと思い、歳を重ねたことを知る。しかしとんでもなく楽しそうである。 海に足だけ入ってワーキャー言うのと似ている。はじめは足だけ、いやいや誰かが水をかけてきたのをかけ返して、しまいにはダイブして、砂浜を駆ける。そんな絵に描いたようなことは、はっきり言ってしたことはない。 水がかかる必要のないときに水にかかりたくないからだ。 急な雨、屋根のない駐車場で車を乗り降りするときに落ちてくる雫、車の中にしまった傘の湿気。うーん、あまりいただけない。 傘がいるかいらないかくらいのときに、長く外を歩こうものならやむまで傘をさす。そして、傘をさしている人が少なくなって、もしくはもう雨はやんでいますと教えられてようやく傘を閉じる。周りがさしていないからといって傘をしまっても、まだパラパラ来ているということがあるから私は自分を信じている。 隣にい

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  • 流れに身を置いて - 語る、また語る

    金曜日、日暮れの公園のベンチに、青年が一人座っていた。 何をするでもなく座っていた。 夜と夕の間のひととき。公園の電灯が光っている。 正真正銘の夜になったら、彼は家路につくだろうか。 それとも公園にとどまるだろうか。 むかし友人と公園にいた。 日が山に隠れ、空が灰色になるまで、長くいた。 一日は終わろうとしていて、あたりがしだいに暗くなっていくところにいるだけ。 ただそこにいて、その流れに身を置いていることが極みである。

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  • 出来心といえばさもありなん - 語る、また語る

    小五の家庭科の小テストで不正をした。 答案ができたら教壇まで持って行き、採点してもらう方式だった。死角になったところで教科書を開いて、答えを写した。隣の友人にも見せた。 そしたら同じように間違えた。 忘れもしない、卵についている白いひも状のものを何というかという問題だった。 正解はカラザ。私たちが書いたのはカザラ。不正したのに不正解とは、困ったものだ。 授業終わりに名は伏せて注意があった。 どうやら不正があった、二人とも同じところを同じように間違えている。気をつけるようにと。担任としっかり、しっかりと目が合った。 親に知られることはなかった。学校から話もなかったようだ。 子どものすることである。ほんの出来心でと言われたとき頭が働かなかった。 自分は真面目な子どもだったが、あの不正こそほんの出来心であった。 どうしてやったのかと聞かれて子から何も出てこなかったとき、あれは出来心だったとすると

    出来心といえばさもありなん - 語る、また語る