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日本の教育システムについては昨今、教育学者および教育実務に携わっている人たちを中心として活発な議論が行われているので、私のような立場にある人間が「ああせい、こうせい」と細部の具体について申し上げるつもりはありません。ただ、教育の門外漢である一方で、組織開発・人材育成・組織変革のプロジェクトに二十年関わっているコンサルタントとして、外側から、現在進行している、いわゆる「教育改革」なるものを見ていると、いくつか「ボタンのかけ違い」とでも表現するしかない重大な誤謬があるように感じられますので、ここで問題提起しておきたいと思います。 まずは次の抜粋を読んでください。 今後における科学技術の発展や産業構造、就業構造などの変化に対応するためには、個性的で創造的な人材が求められている。これまでの教育は、どちらかといえば記憶力中心の詰め込み教育という傾向があったが、これからの社会においては、知識・情報を単
--> 今朝の日経の一面に「最長景気に乱気流」という記事が出ていた。 以前からずっと感じていることなのだけど、現在の「好景気」を実感できている人ってどれくらいいるんでしょうか。政府はもちろんGDPの数値によって景気の良し悪しを判断しているわけですが、そのような数値によって示される「景気の良さ」が人々の実感値と乖離しているのであれば、それはすでに「社会の状態を示すモノサシ」としてGDPが適切でなくなってしまっているということなのではないか、と。 僕は最近、いろんなところで「モノが過剰になる一方で、問題が希少化している」ということを言っていますが、この状況は必然的に「量的指標の無意味化」という事態を僕たちに突きつけることになります。 原始時代から20世紀の半ばまで連綿と続いた「モノが不足している時代」であれば、「量」というのは、対象のパフォーマンスを図る上でとても便利なモノサシでした。後述しま
皆さんもよくご存知の通り、昨今の日本では、50歳を過ぎた「いいオトナ」による不祥事が後を絶ちません。 例を挙げていけばキリがないので、ここではここ数年のあいだに起きた不祥事の中でも、シニアの劣化を象徴的に示す事件を取り上げ、振り返ってみたいと思います。 日大アメフト部監督による暴行指示。狛江市市長などの高位役職者によるセクハラ。神戸市教育委員会等によるいじめ調査結果の隠蔽指示。財務省による森友・加計問題に関する情報操作。大手メーカーによる度重なる偽装・粉飾。公共交通機関などでの暴言・暴行。 これらの事件・不祥事をならべてみると、いくつかの共通項があることがわかります まず、事件の中心となっているのが、50歳〜60歳代という、一昔前で言えば「長老」と言われてもおかしくないような、しかも「男性」によって引き起こされているということです。 例えば民営鉄道協会が発表している平成27年度に発生した駅
僕が「今後の日本企業からはコンプライアンス違反が続発するだろう」と指摘したのはちょうど二年前のことでした。 http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2015/10/blog-post_29.html 残念ながらこの指摘は的中し、三菱自動車、東芝に続いて、今年は神戸製鋼の問題が発覚して、現在マスコミから袋叩きにされています。 コンサルタントとして、これら三つの会社と接触のあった立場からいうと、こういう問題を起こす会社にはどこか「独善的」なところがあるように思うんですが、それはまた別の機会に話すとして、今日は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、ということです。 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根
過労自殺に関する電通の裁判が始まりました。 もちろん、過労自殺という悲劇を招いてしまったことについて、関係者の責任を明らかにすべきことは間違いがないのですが、このポストでは少し、電通という「個社の問題」から、過労死・過労自殺が全般に増加しているという「社会の問題」について考えてみたいと思います。 皆さんもご存知の通り、ここ十年ほどのあいだ、日本では過労死・過労自殺が増加しています。これを食い止めるために、いわゆる「働き方改革」なるものが進行しているわけですが、以前から公言してはばからない通り、ただ単に「残業を減らそう、みんな早く帰ろう」ということを騒ぐだけの運動であれば、単なる一時的なブームで終わって、この国の労働環境は全く変わらず、おそらく悪化の一途を辿っていくことになるでしょう。 問題は、なぜGDPがほとんど変わらない、つまり付加価値の創出量が変わっていない中で、労働環境がますます過酷
エピソード1:あれは確か1980年代の最初の頃だったでしょうか。 当時、僕は小学校の高学年で、隣に座っていたクラス一の美少女の髪の毛をハサミで切ることに、言葉では説明できない不思議な快感を覚えていました。今から思えばそのころから奇麗な女の子を苛めるのが好きだったんだしょうか。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、たまプラーザのイトーヨーカドーの前で見かけた、いすゞの、それもただのフォードアセダンの美しさに釘付けになったことがあります。 エピソード2:時を経て、それは1980年代の後半ごろのことだったでしょうか。横浜の私立高校に通っていた僕は、校舎の屋上でタバコやら何やらいろいろなモノを煙にして吸うと、違う意味でアタマが冴え、学校の教師が教室でほざいていることが嘘ばかりだったんだということに気づく知性を獲得しつつありました。まあそれはともかく、今でも忘れもしない、毎日昼休みに実施されていた
このブログで「今後、日本企業によるコンプライアンス違反が続発するだろう」という予言をしたのがちょうど二年前の10月でした。その後、この予言は残念なことに的中し、様々な組織での不正が明らかとなり、昨年にはあろうことか、古巣の電通においても広告出稿についての不正があったことが明らかとなりました、とほほ。 電通の不正については、ネットでも様々な批判がなされていますが、ほとんどのものは電通マンの高給と権力に嫉妬を抱く人が溜飲を下げるために垂れ流しているヤッカミに過ぎず、読むだけ時間の無駄なのでここでは同様の批判は繰り返しません。 ここで提起したいのは、キャリア論についての問題です。 昨年に上梓した著作『20代は残業するな』において、僕は「一般的に目の前の仕事に一生懸命に取り組むのはいいことであると信じられているが、それは嘘である」と指摘した上で、「世の中には、それに取り組むことで自分の人生が豊かに
なんかものすごいタイトルですが、最近、日本の、いわゆる大企業に勤めている同年代の人たちの表情がどんどん険しくなっていくのを見ていて、あらためて考えてみたところ、どうもこういうことなんじゃないかと。 これは先日もFBで指摘したことなんだけれども、日本の大企業の残酷なところは、40代の後半になるまで、自分の昇進ポテンシャルがはっきりしない、ということです。 しかし、40代の後半で「この会社では上に上がれない」ということがはっきりしても、その時点で取れるキャリアオプションはほとんどありません。なぜなら、日本の大企業でなんとなく二十年頑張ってきましたという人は、よほど専門性のある人でないと労働市場でほとんど値段がつかないからです。 ここは本当に勘違いされていて、半ば痛々しいんですけれども、日本を代表すると言われているような企業でそれなりに活躍している人の多くは、自信過剰に自分の労働市場での価値を見
最近、就職以来、一度も転職したことがないという人に続けて何人か接して感じたんですが、そういう人たちにとっては「会社内での地位」が、ものすごく人物評価の大きなウェイトになっているんだということを知って、ちょっと驚いています。 何度も転職している自分にとっては職場内の昇進はほとんど「なりゆき」で決まることを知っているので、「あの人、あの年で局長だよ、すごいよね」とか言われても、「はあ、そうですか・・・」と困惑するしかありません。 ハーバードのジェフリー・フェファはこれを実証研究して、コンピテンシーの高低と昇進のスピードや地位の高さには相関がまったくないことを明らかにしていますが、一つの会社にい続けると、そういうのが見えなくなるんでしょうかねえ。 ちなみに論文はこれね。https://www.slideshare.net/johnnemo/power-by-jeffrey-pfeffer-key
先日以来、ある企業の依頼で若手社員に向けて「独学の技術」の講座をやっています。前回のお題は「経済学」だったのですが、文字起こしが上がってきたので。 ========================= 経済学を学ぶ意味合いについて、世の中一般でよく言われるのは「社会人としての常識だから」とか「世の中の仕組みが理解できるから」といったことなのですが、僕自身は、そういった「教養としての経済学の知識」について、その有用性を否定はしないものの、副次的なものでしかないと感じています。 ことビジネスパーソンが「知的戦闘能力を上げる」という目的に照らして、経済学を学ぶことの意味合いを考えてみれば、そこには大きく二つのポイントがあります。 一つは、「経済学」が研究対象とする「経済」や「市場」が、ビジネスというゲームの基本ルールを規定しているということです。ビジネスには当然ながら競争という側面があるわけですが
このブログで「今後、日本企業によるコンプライアンス違反が続発するだろう」という予言をしたのがちょうど一年前の10月でした。その後、この予言は残念なことに的中し、様々な組織での不正が明らかとなり、つい先日はあろうことか、古巣の電通においても広告出稿についての不正があったことが明らかとなりました。 電通の不正については、ネットでも様々な批判がなされていますが、ほとんどのものは電通マンの高給と権力に嫉妬を抱く人が溜飲を下げるために垂れ流しているヤッカミに過ぎず、読むだけ時間の無駄なのでここでは同様の批判は繰り返しません。 ここで提起したいのは、キャリア論についての問題です。 ちょうど先週に上梓した著作『20代は残業するな』において、僕は「一般的に目の前の仕事に一生懸命に取り組むのはいいことであると信じられているが、それは嘘である」と指摘した上で、「世の中には、それに取り組むことで自分の人生が豊か
10月に出す新著で、かなりの紙幅を割いて「努力は報われるのか」という論点について考察しています。結論については本をお読みいただきたいのですが、ここでは、よく言われる「一万時間の法則」について、紙幅の関係で本には書ききれなかった内容を紹介したいと思います。 「努力は報われる」と無邪気に主張する人たちがよく持ち出してくる根拠の一つに「一万時間の法則」というものがあります。「一万時間の法則」とは、米国の著述家であるマルコム・グラドウェルが、著書「天才!成功する人々の法則」の中で提唱した法則で、平たく言えば、大きな成功を収めた音楽家やスポーツ選手はみんな一万時間という気の遠くなるような時間をトレーニングに費やしているというものです。 この指摘自体は当たり前すぎて、「はあ、それはまあそうでしょうね」と反応するしかないのですが、重要なのは、グラッドウェルが「一万時間よりも短い時間で世界レベルに達した人
以前からずっと思っていたことなのですが、どこかで書いておかないと忘れちゃうなと思っていたので、備忘録代わりに。 結論から先に言えば「無目的なインプットをやってこなかった人は、肝心カナメの時期にアウトプットできなくなる」という話です。どうしてそうおいうことになるのか、順に説明しましょう。 まず、いわゆる「勉強」について、ここでおそるべき一つの法則を提案したいと思います。それは「アウトプット=インプットの法則」です。一体どんな法則なのかというと「人生全体で見てみれば、アウトプットの量とインプットの量は同じである」ということです。アウトプットする人はインプットしているし、インプットしていない人は、どこかで枯れる」ということで、実にシンプルな法則。 実名を挙げるのはさすがに憚られるので、ここでは差し控えますが、一時期にベストセラーを連発して飛ぶ鳥を落とすような勢いだったのに、ぱったりとアウトプット
ここ数年、ビジネスパーソンの間で「教養」というブームが起きています。私自身は学部も大学院も出身が哲学科ですから、いわゆるリベラルアーツがどれほど知的生産の現場においてパワフルな武器になるかということを身にしみて理解していつるもりですから、このブームに対しては「ま、別にいいんじゃないの?」と思っていたのですが、実際にそういうブームの波に思いっきり乗っている数人の人と直接に話す機会があった後、これはもしかしたら一種の逃避なんじゃないかと思うようになっています。 わかりやすく考えてもらうために、こういう図をイメージしてください。縦軸は「仕事ができる・できない」、横軸が「教養がある・ない」というマトリックスです。この中で一番望ましいのは、もちろん「仕事ができて教養もある」というマトリックスでしょうが、まあこういう人はめったに出てこないわけですし、出てきてもどうせ勝てないので問題にもならない。 逆に
なんだか最近「違和感」をタイトルにしたポストが続いていて、ネガティブな印象を持つかも知れませんが、ご勘弁を。 一万時間の法則、という言葉は聞いたことがあると思います。平たく言えば、モノゴトの巧拙は才能ではなく、単純に訓練のために費やした累積時間の関数に過ぎない、という仮説です。そもそもこれ、「法則」って言ってるから誤解を招くんですよね。法則なんてものは自然科学も社会科学もひっくるめて全て仮説ですからね。ええ?納得できない!?という方はカール・ポパーを読んでみてください。 で、この「一万時間の法則」と言われる仮説に、昔から激しい違和感を覚えているのですよ。その違和感の元は大きく二つあって、まず一つは、この法則を導き出すにあたって集計された統計データのサンプルです。 この「一万時間の法則」を導き出すにあたって、研究者が対象とした集団はバイオリニストでした。世界的なバイオリニストとまあまあのバイ
キャリアはよく登山になぞらえられて語られます。では、登山において最も重要視される論点は何でしょうか?それは「生きて帰る」こと。これに尽きます。ところが、キャリアに関する論考の多くは「いかに早く登るか」、「いかに高く登るか」といった論点にフォーカスするばかりで、肝心かなめの「いかに滑落死を防ぐか」といった論点がなおざりにされている感があります。 僕は、三年前に出版した著書「天職は寝て待て」を書くに当たって、70人強のビジネスパーソンにインタビューを行いました。彼らの多くは一流大学・ビジネススクールを卒業して世界的なコンサルティングファームや投資銀行に勤務している(またはしていた)人々であり、まさに「キャリア登山のファストクライマー、ハイクライマーであると言えます。しかし、そのうちの少なくない人が、キャリア登山における「滑落死」の状況に陥っています。 勝ちに不思議の価値あり、負けに不思議の負け
ご存知の通り、2014年6月24日にサントリーHDは次期社長にローソン新浪会長をあてる社長人事を発表しました。 この社長人事についての是々非々がFacebookやTwitter上でかまびすしいですが、情報劣位にある人々がそのような議論をすることにあまり意味があるとも思えないので、ここではその点については触れず、別の側面について少し感じたことを書き記しておきます。 ここ数年のあいだ、外資系のキャリアを歩んできた人を日本企業の社長に突然据えるという人事が相次いでいますよね。資生堂はコカコーラ出身の魚谷氏を、ベネッセはマクドナルド会長の原田氏を、それぞれ次期社長にあてる人事を発表しました。少し前のことになりますがGE出身の藤森氏がリクシルの社長に就任したのは2011年のことです。 彼らに共通しているのが40代の後半〜50代の前半という次期に経営経験をスタートさせ、以降一貫して職業経営者としてキャ
種明かしをすれば、この二つの絵は、コンピューターサイエンティストのアラン・ケイが著した論文「「A Personal Computer for Children of All Ages」のなかで、ダイナブックというコンセプトを説明する為に用いたものである。
子供のときからの飛行機好きで、お酒を飲んで酔っぱらうとよくYouTubeで「着陸」の映像を見ています。 特に見物なのはクロスウィンドでの着陸で、滑走路に対して45度近くも機体を斜めにさせながらアプローチするようなトンデモナイ映像が見られます。巨大なエアバスのA380がスライドしながらアプローチしてくるVなんてスゴい。乗っている人は怖くてしょうがなかったでしょうね・・・ このビデオの、特に機体が空中にあるときには滑走路に対して斜めを向いているのに、着地した瞬間に、滑走路の軸線に対して機体を水平に修正するという着陸を何度か見ているうちに、瞬間的に気付いたことがあります。それは
先日、柄谷行人+浅田彰他の編者による「必読書150」という本を読んで、いろいろと考えさせられたことを備忘録代わりに。 この本、いわゆる「教養主義」の本なんですよね。一応ことわっておくととても面白いです。一度読んだ本についても「おお、そういう視点があったか」と思わせる紹介があってとても刺激になる。 で、こういった本をまとめて紹介しているというのはつまり、そういった名著を読め、ということなのですが、そのように強く主張する柄谷さんの論拠が奇妙で「こんなものすら読んでいないのはサルである」ということなんですね。サルでいるのがイヤだったら読め、とまあそういうことらしいのです。 この一節を読んでまず思ったことが、こういった名著を読んできたことで、本人たちに言わせると「サル以上の何者か」になった著者+編者の皆様の「生」が、どれくらい善く、充実したものになっているのだろうか、という点なんですが、それがどう
どのようにすればアタマの良い子、運動のよくできる子を産めるか、あるいは育てられるか、という問題は世の親御さんたちにとって大変大きな関心の対象であるらしく、そのために膨大な量の情報がやりとりされていますよね。 よく聞かれるのは妊娠中には沢山鉄分を取った方がいいとかDHAが効くとか出来る限り薬は控えるといったことで皆さん、特に女性の方は大変な苦労をされているのですが、しかし実は、多くの人が実践して「いない」にも関わらず、確実に子供の成績や運動能力が高まる産み方がある、と言えば驚かれるでしょうか。
以前にこのブログでユーミンの「ひこうき雲」を取りあげたのは二年以上前のことでしたが、ここ一ヶ月くらいで急激にビューが増えていて「なにごとか!?」と思ったら、宮崎駿さんの新作映画で主題歌として使われてたんですね。なる。 http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2011/01/blog-post_07.html 僕がこの曲を始めて聴いたのは小学校高学年の時でしたが、その時に周りの景色が一瞬で凍結する様な不思議な感覚を抱いたことをいまでもよく覚えています。樹の枝が風にしなる様とかね。もの凄いショックというか、感動を通り越した不思議な感覚だったんですよね。こういうのを感じさせられたのは他にビートルズの「レットイットビー」とかジョニ・ミッチェルの「ボースサイズナウ」とか、本当に生涯で数曲しかありません。 まあそれはともかくとして、この「ひこうき雲」、ほんと
最近、あるきっかけがあって「よいビジョン」について考えています。で、考えに煮詰まった時にいつもそうするように、今回も寝っ転がりながら歴史書とか哲学書とかをパラパラとめくって考えを宇宙に飛ばしていたのですが、なにか見えてきたような気がするので共有しておこうかな、と。
創造性をより高めるためには「アメ」と「ムチ」のどちらが有効なのか、という問題はギリシア時代から議論されてきたテーマといえます。この問題を考えるために、1940〜50年代に心理学者のカール・ドンカーが提示した「ろうそく問題」を取り上げてみましょう。まず下図を見て下さい。「ろうそく問題」とは、テーブルの上にろうそくが垂れない様にろうそくを壁に着ける方法を考えてほしい、というものです。
このブログでは時事ネタはほとんど取り扱わないのですが、安倍政権が成長戦略の一環として女性活用を推進することを打ち出してオオオオと思い、組織開発の専門家としては少し書いておいた方がいいかなと思って筆をとりました。 まず、大前提として、僕自身が二人の女性を子に持つ親の立場ということもあり、女性が働きやすい社会を作ろうという基本的な理念には大賛成です。その上でなお、日本における女性活用というのは非常な難事業になるだろうなあとも思っています。理由は後述しますが、日本は、ある意味で「世界で一番女性が活躍しにくい国」だからです。 安倍政権が打ち出したKPIは、2020年までに要職の3割を女性にしよう、というものです。日本の現状を考えれば、まずはこういう数値を打ち出して社会的なコンセンサスを作っていく以外になかったということなのでしょうから、これはこれで批判するつもりはありません。ただ僕は、こういった表
まず、僕はこの「入門」なるコンセプトに問題があると考えています。こういう入門書や入門CDは、パッヘルベルのカノンやバッハの管弦楽組曲第二番(いわゆるG線上のアリア)等、大概耳触りのよい甘い音楽で脇を固められていて「ほらほらほら〜クラシックって難しくないですよ〜」とニタニタしながら寄ってくるのですが、僕だってこんな甘い音楽ばっかり連続で聴かされたら辟易しちゃいます。デザートだけで固められたフルコースの料理みたいで聴けたもんじゃありません。 ということで、クラシックを教えてほしい、という友人には最初っから、音楽学的にも音楽史的にも重要性の高いド真ん中の音楽から聴きなさいとアドバイスしています。それで問題なく皆さんクラシックの宇宙を自然に泳ぎ始める。考えれみれば、ロマン派以降から近代クラシックで用いる様なテンションの高い和音は、ジャミロクワイやMisiaが使いまくっているコードとほとんど同じなわ
忙しい、それなりの充実感もある、だけれどもどこかに空しさも感じている、というような場合、あなたは「アクティブ・ノンアクション」に陥っている可能性があります。 アクティブ・ノンアクションとは、ロンドン大学教授のスマントラ・ゴシャールの命名です。 厄介なのは、この罠に陥るのは、組織の中で「出来る人」と評価されている人達が多い、ということでしょう。しかもアクティブ・ノンアクションにはモメンタムがあって、一度その中に絡めとられてしまうと加速度がついてそのまま走り続け、ついにはモメンタムの中にいることすら見失ってしまう傾向があります。
山口周 1970年東京生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。慶応義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科美学美術史学前期博士課程修了。人文科学と経営科学の交差点で仕事しています。著書に「ビジネスの未来」「ニュータイプの時代」「武器になる哲学」「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」「世界で最もイノベーティブな組織の作り方」など。神奈川県葉山在住。 View my complete profile
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