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中国の中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、 川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 (北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年) です。日本・中国・韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、この本は書名が示すように、日本と中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川本氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。 川本氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事です
前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。 官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」 (『国際日本文化研究センター紀要』28号、2004年1月) です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。 官氏は、冒頭で「日本古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。 中国
このところ、聖徳太子に関わる論文を含めた古代史の本が続いて刊行されていますが、面白いのは、以下の2冊が偶然ながらともに2月26日に出版され、同じ日に献本が届いたことです。 一つは、山下洋平さんの『日本古代国家の喪礼受容と王権』(汲古書院、2024年)です。山下さん、有難うございます。「憲法十七条」における『管子』の影響を論じた山下さんのすぐれた論文は、このブログでも紹介しましたが(こちら)、その論文も収録されています。最近、考古学の発見が続いているだけに、古墳や墓の変化と中国から受容した喪礼がどう関わるかは重要な問題ですね。 もう一冊は、『日本書紀』の編纂について語法の面で論じた論文集であって、このブログで取り上げた上智大学国文学科の瀬間正之さん(こちら)と葛西太一さん(こちら)の論文が収録された、小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』(雄山閣、2024年)です。瀬間さん、葛西さん
現在、「憲法十七条」の本を執筆中ですが、悩むのは訓読をどうするかです。平安時代の古訓を載せるのか、国語学者の協力を得てさらに考察し、より古い形を復元するよう努めるのか、太子当時の訓み方を示すのは諦め、現代の普通の形の訓読にするのか。 その点、参考になるのが、2021年に刊行された神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀』上巻(講談社)です。この本は原文と現代語訳はのせていますが、工夫された訓読は付されていません。そうなった理由を述べたのが、共著者の一人による、 福田武史「『日本書紀』の訓読がもたらしたもの」 (『和漢比較文学』第71号、2023年8月) です。 福田氏は、『新釈全訳日本書紀』の解説では、では、中国人のように読むことを主張した吉川幸次郎が、『尚書正義』では従来の漢文訓読法に執着する必要はないとし、原文と現代語訳だけにしたことにならったと、と記してある
7月19日(水)に、NHKの歴史バラエティ番組、「歴史探偵」(22:00~22:45)で「聖徳太子 愛されるヒミツ」が放送されました。 私は亡き恩師の遺命によってテレビ出演はしませんので(ラジオはいくつか出てます)、これまで10を超える各局の聖徳太子番組に依頼されたものの出演はせず、監修したり情報提供したりするだけにとどめてきました(その一例が、BS松竹東急のこちら)。今回も、情報と資料の提供だけです。 番組は、聖徳太子が愛されてきた理由として、「文明開化の立役者」「世界最古の木造建築」「スーパーヒーロー伝説」をあげ、これらについて説明していきます。 冒頭で語られていた法隆寺の古谷正覚管長には、執事長時代から法隆寺の朝課で用いる冊子を送っていただいたり、講演に呼んで頂いたりしてしてます。景観について説明していた平田政彦氏の論文については、このブログでも何度か紹介しました(たとえば、こちら)
「聖徳太子はいなかった」説は撃破されましたが、珍説奇説は以後もあとを絶ちません。また、戦前から戦中にかけて盛んだった国家主義的な聖徳太子礼賛は、今も根強く残っています。このため、「いなかった」説が消えると、今度は国家主義に基づく強引な聖徳太子論が流行する可能性があります。 少し前に紹介した田中英道氏の本もその一つですが(こちら)、あのような妄想だらけのトンデモ本と違い、生真面目に聖徳太子に取り組み、我が国体を守った偉大な英雄として賞賛しようとする人たちがいます。 この系統の人たちの中には、日本会議や自民党の右派や神社本庁などと結び着いて政治運動としての太子礼賛をやるタイプも見られますが、問題はその太子解釈が史実を無視していることであり、自らの国家主義を太子の事績に読み込もうとしがちなことです。 そうした人が日本を危険な方向に持っていきがちであることは、津田左右吉が強く警告したことであり(こ
「聖徳太子 最近の説」と入力してあれこれ検索していたら、ヒットしたうちの一つが、 宮﨑健司「″和国の教主″としての聖徳太子」 (真宗大谷派教学研究所編『ともしび』第817号、2020年11月) でした。PDFで読めます(こちら)。 宮﨑氏は真宗大谷派の大学である大谷大学の教授であって、古代の写経について綿密な研究をされている研究者です。この文章は、2020年1月の東本願寺日曜講演をまとめたものである由。ですから、最近の聖徳太子論の一つですね。 宮﨑氏の所属と講演の性格上、当然のことながら、熱烈な聖徳太子信者であった親鸞が読んで影響を受けた聖徳太子伝、つまりは『聖徳太子伝暦』と盛んに作られたその注釈の話を中心としつつ、聖徳太子研究の現状について簡単に紹介しています。 宮﨑氏は、聖徳太子という呼称については、751年の『懐風藻』に見えるため、「八世紀なかばを上限として成立したといえるかと思いま
早稲田開催の聖徳太子シンポジウムでの発表資料では、新川登亀男『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)をあげておきました。新川氏とは、意見が合わない点がいくつかあるのですが、この本は有益であってお勧めです。 その新川氏が、まさにこの本のような視点で天皇号について検討した最近の論文が、 新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」(『日本史攷究』(44号、2020年12月) です。 新川氏は、天皇号は実際には2度つくられており、2度目は江戸末期からの近現代だと説きます。というのは、天皇号は古代に出現したものの、平安時代以来、「~院」という呼び方がなされており、1840年11月に亡くなった兼仁上皇に対して「光格天皇」が贈られるまで、長らく使用されていなかったからです。 その証拠に、1603年に本編、翌年に補遺篇が出されたイエズス会の『日葡辞書』には「テンノウ」という項目がなく、あるのは「ミカド(帝)
様々な共通点から見て「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は同じ人物が書いており、渡来した学者や学僧の支援を受けて聖徳太子が作ったとしか考えられないことは、すでに論証しました(こちら)。ただ、私は推古朝における聖徳太子の活躍を認め、生前から神格化されていたと考えていますが、戦前の太子礼賛派の学者たちのように、太子の事績とされるものを無暗に認めて賞賛ばかりするつもりはありません。 「憲法十七条」は中国古典の言葉を多数用いてますが、出典となった書物をすべてきちんと読んでいたわけではなく、類書の「聖」の部分に見える用例を切り貼りして用いているらしいことは、早くに指摘しておきました(こちら)。今回は、かなり前の論文ですが、「憲法十七条」はそうした中国の典拠の本来の意図を無視し、「断章取義」的に用いていることを指摘した論文を紹介しておきましょう。 佐藤一郎「中国古典における「和」と17条憲法」 (『比較思想
小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりやこそ、時至れりとばかり筆を揮つて、有ること無いこと、見て来たやうに出たらめを描くのである。と云つて置いて、此以下は少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思つていたゞきたい。但し出たらめを描くやうにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。(『玄談』日本評論社、1941年) と、ユーモア混じりに述べています。余裕ですね。実際には、露伴は歴史学者以上に幅広い教養を備えており、この小説でも、時に想像を交えつつ、軽妙な文体に託して恐るべき博識をさりげなく披露しています。 ところが、井沢氏の『聖徳太子のひみつ』は歴史小説でないのに、こうした区別に留意せず、参考にした文献に触れず、歴史の真実を明らかにしたと称して「出たらめ」を書きまくっているのです。 日本の歴史学者と違って自分は世界史に通じているという自己宣伝はどこへ
「時空を越えた極上の歴史エンターテインメント!」と謳っているものの、勉強不足で思いつきばかりが目立つ粗雑な聖徳太子本が刊行されました。 井沢元彦『聖徳太子のひみつ』 (ビジネス社、2021年12月) です。表紙では、題名の横に「「日本教」をつくった」と記されています。 井沢氏は、研究者の研究を軽んじて空想をくりひろげた梅原猛路線を受け継ぎ、問題の多い歴史本を数多く出していることで有名です。今回の本もその一つですが、そもそも副題のような「「日本教」をつくった」という部分が問題です。 「日本教」という言葉を書物の題名にして有名にしたのは、イザヤ・ベンダサン著・山本七平訳という形で『日本人とユダヤ人』を、山本氏が社主をつとめる山本書店から1970年に刊行してベストセラーとなり、続く『日本教について』(文藝春秋、1972年)でも大いに話題を呼んだ山本七平氏です。 山本氏は、1977年には『「空気」
少し前の記事で、「憲法十七条」の第二条・第十四条の典拠となるだけでなく、「憲法十七条」全体の基調となっているのは大乗戒経の『優婆塞戒経』であることを指摘した拙論が刊行されたことを紹介しました(こちら)。この発見のおかげで、第二条中で違和感をおぼえてきた箇所が、なぜそう書かれているのか分かりました。 古代の文献は、典拠と語法に注意しなくては正確に読めないという一例ですが、拙論刊行後になって、さらに「憲法十七条」の第一条のうち、疑問に思われる箇所が基づいていた儒教の文献を発見しました。 第一条では、「和」を強調したのち、世の人々は党派を組みがちであって、悟っている者が少ないため、「是を以って、或いは君父に順わず、また隣里に違[たが]う(以是、或不順君父、乍違于隣里)」、つまり、「君主や父の言うことに従わず、また近隣と仲違いする」と述べており、それを防ぐために「上和下睦」してなごやかに話し合うこ
このブログの7月の記事(こちら)で【重要】として予告し、内容を簡単に述べてあった講演録が、学部論集の退職記念号に掲載されて刊行されました。 石井公成「聖徳太子は海東の菩薩天子たらんとしたか-「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通部分を手がかりとして-」 (『駒澤大学仏教学部論集』第52号、2021年10月) です(PDFは、こちら)。 奥付は10月31日刊となっているものの、雑誌と抜刷ができあがって届いたのは8日であって、ひと月ほど遅れてます。コロナ禍その他の事情により、学内のリモート研究会での発表の形という形をとる結果となりましたが、コロナ感染が下火になったら最終講義代わりの公開講演をする予定になっており、その講演録という形で事前にほとんど書き、刊行日程の都合で発表前に印刷に回してあったため、「です、ます」の講演口調になっています。 内容は、ブログで予告しておいた通りであって、「憲法十七条
この3月に駒澤大学仏教学部を定年退職しましたが、コロナ禍ということもあって最終講義はやらず、感染がおさまってきたところで学部の公開講演会での講演という形でやることになっていました。 しかし、いつになっても感染者が減らず、また他の事情も重なったため、Web会議の形でやらざるをえなくなりました。そこで、本日19日に、学部の仏教学会の第2回定例研究会でのリモート発表という形で聖徳太子に関する重要な発見の紹介をおこない、資料をPDFで配布した次第です。 この研究会は会員中心ですが、一般にも公開されていましたので、聖徳太子研究に関わっている他大学の研究者の方たちや、太子関連の特集をしている新聞、関連番組を作成しているテレビ局の方なども、多少参加されていました。ただ、リモート会議室は入れる人数の制限があるため、このブログでは告知していませんでした。 発表の題名は、 聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんと
Wikipediaの「聖徳太子」記事は、研究者ではない古代史ファンの人たちが書いているようで、学術的でなく問題だらけであって、最新の研究状況を反映していない点は変わっていませんが、論調はこの10年ほどでかなり変化しました。 当初は、「聖徳太子はいなかった、実在したのは厩戸王だ」説が正しいとする立場を柱としていたものの、最近は虚構説には反論が多いこともとりあげており、ネット上で読むことのできる私の説も紹介してくれています。 たとえば、2021年7月22日現在のWiki記事では、 用明天皇紀では「豊耳聡聖徳[注釈 1]」や「豊聡耳大王」という表記も見られる[7]。『厩戸王』という名の初出は更に30年下った『懐風藻』であり[5]、歴史学者の小倉豊文が1963年 の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく…… と書かれており、注7
先日、勤務先で教員向けに N-gramを用いたコンピュータ処理による古典研究法の講習をし、例として三経義疏の分析をやってみました。文系のパソコンおたく仲間である漢字文献情報処理研究会のメンバーたちで開発したこのNGSM(N-Gram based System for Multiple document comparison and analysis)という比較分析法に関しては、2002年に東京大学東洋文化研究所の『明日の東洋学』No.8 に簡単な概説(こちら)を載せ、その威力を強調してあります。それ以来、宣伝し続けてきたのですが、文系の研究者には処理が複雑すぎたため、まったく広まりませんでした。 ところが、一昨年の暮に、上記の主要な開発メンバーであった師茂樹さんが、私の要望に応えてきわめて簡単で高速な形に改善してくれました。その結果、大学院の私の演習に出ている院生たちは、1回講習したらほと
聖徳太子が厩戸のところで生まれたという伝承は、イエス・キリストが馬小屋で生まれたことと似ているとして、唐に入ってきていた景教(ネストリウス派のキリスト教)の影響だとする説があります。久米邦武が明治38年(1905)に『上宮太子実録』で説いたのが最初ですね。 この問題については、聖徳太子は架空の存在とする大山誠一説なみに粗雑で間違いが多い田中英道氏の太子礼賛本について批判した記事で触れました(こちら)。その際、キリスト教影響説を否定するなら、平塚徹氏がネットで「イエスは馬小屋で生まれたのではない」と説いていることを証拠とした方が良いのではないかと読者が指摘してくれたのですが、その平塚氏のネット上の文章が詳細な論文となりました。 平塚徹「日本ではイエスが馬小屋で生まれたとされているのはなぜか」 (『京都産業大学論集:人文科学系列』51号、2018年3月、こちら) です。 言語学者である平塚氏は
拙論「聖徳太子伝承中のいわゆる『道教的』要素」(『東方宗教』115号、2010年5月)は、「いわゆる」という語が示しているように、「道教的だと称している人たちもいるが、実際には違う」ということを明らかにしようと試みたものです。昨年の日本道教学会の学術大会で発表した内容に少々訂正を加えました。趣旨は変わっていません。 発表では、「徳」の下に「仁・礼・信・義・智」の形で五常を配する冠位十二階の特異な順序は、六朝時代に成立した道教経典、『太霄琅書』に基づくとする福永光司先生の論文、「聖徳太子の冠位十二階--徳と仁・礼・信・義・智の序列について--」(福永『道教と日本文化』、人文書院、1982年)を取り上げて批判しました。『太霄琅書』から自説に都合の良い箇所だけを切り貼りしており、しかも、原文のうち三箇所も省略しておりながら、「……」や(中略)などによってそれを示していないことを指摘したのです。「
聖徳太子関連の資料は真偽論争があるものばかりですが、論点の一つは「天皇」という語です。 法隆寺金堂の薬師三尊像銘は推古天皇を指して「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」と呼び、「天寿国繍帳」は欽明天皇を「斯帰斯麻宮治天下天皇」「斯帰斯麻天皇」、推古天皇を「畏天皇」「天皇」と呼んでおり、『日本書紀』推古16年に小野妹子を隋に派遣した際の国書とされるものの冒頭には「東天皇敬白西皇帝」の句が見えます。これらについては盛んな論争がなされ、野中寺弥勒菩薩像銘に見える「中宮天皇」の語についても議論がありました。 これらの資料が真作であれば、天皇号はその時期から用いられていたことになり、逆に、天皇号がこの時期に用いられていれば、その資料を偽作とする証拠が一つ減ることになります。かつては天皇号をめぐる論争が盛んであって、これらの資料の真偽がしきりに論じられていましたが、最近は新たな資料の発見などがないせ
2月14日に小学校や中学校などの指導要領の改定案が公表され、新聞などでも報道されました。その歴史教科書の改定案を見てみました。文部科学省は、パブリックコメントを受け付けるとのことですので、出しておく予定です。 報道によれば、文科省の説明としては、聖徳太子という名は没後になって使われるようになったため、歴史学で一般的に用いられている「厩戸王(うまやどのおう)」との併記の形とし、人物に親しむ段階である小学校では「聖徳太子(厩戸王<うまやどのおう>)」、史実を学ぶ中学では「厩戸王<うまやどのおう>(聖徳太子)」とする由。 これは奇妙な話ですね。後代の呼び方はいけないのであれば、天皇の漢字諡號は奈良時代になって定められたのですから、欽明天皇も推古天皇も天智天皇も天武天皇も使えないことになります。さらに重要なのは、奈良時代から用いられて定着した漢字諡號と違い、「厩戸王」という言葉は、使われた証拠がま
以前の記事で、「憲法十七条」が特に尊重されるようになったのは明治以後、そして第一条の「和」こそが太子の思想の中心であって日本文化の伝統であったことが強調されるようになったのは昭和になってから、と書きました。 その証拠として、近世における「憲法十七条」の注釈の作成と刊行の少なさをあげましたが、明治になると、「憲法十七条」は次々に刊行されます。ただし、その実態は、小倉豊文が次のように歎いている通りでした。 古板・古註の明治以後の覆刻は、残念ながら偽書五憲法が先であり、回数も多く、種類も多い。だから従つてその流布も相当に広く、影響も少なからぬものがあつたであらう。 (斑鳩迂人[=小倉豊文]「太子学入門(六): 現代の主要文献(六)」、『太子鑚仰』新七号、1944年11月、20頁) つまり、明治になると「憲法十七条」が重視されるようになり、古い版の復刻が盛んになったものの、刊行の順序が先で種類も多
瀬間正之『記紀の表記と文字表現』(おうふう、2015年2月。索引含め470頁。12000円)が刊行されました(瀬間さん、有り難うございます)。 若い頃からこの分野の研究をリードし、『記紀の文字表現と漢訳仏典』(おうふう、1994年)によって学界に驚きを与えた瀬間さんが、以後の研究成果をまとめたものです。これまでの著書に収録されていない80年代後半の論文から、つい最近までの論文がおさめられています。内容は以下の通り。 序に代えて 記紀に利用された転籍--出典論の研究史と展望-- 第一篇 文字文化の基盤としての<百済=倭>漢字文化圏 序章 古代半島・列島の文字文化 第一章 文字表現から観た『弥勒寺金製舎利奉安記』--典拠を中心に-- 第二章 <百済=倭>漢字文化圏の観点から観た古事記難語試解 第三章 三輪山型神婚譚と須恵器 第二篇 記紀開闢神話生成論の背景 第一章 日本書紀開闢神話論の背景 第
津田左右吉攻撃といえば、その代表は津田が「憲法十七条」や三経義疏の聖徳太子製作を疑うなど『日本書紀』に対して文献批判的研究を行なったことに激高し、不敬罪で告発して裁判にまでもっていった原理日本社の蓑田胸喜(1894-1946)です。 蓑田たちの津田攻撃については、「津田左右吉を攻撃した超国家主義的な聖徳太子礼讃者たち」において大山説批判とからめて簡単に紹介しておきましたが、昭和思想史における蓑田の位置づけに関するわかりやすい解説が出ました。 植村和秀『昭和の思想』 (講談社選書メチエ483、講談社、2010年11月、1500円) です。 既に『「日本」への問いをめぐる闘争--京都学派と原理日本社』(柏書房、2007年)という研究書を著している植村さんは、昭和の思想を論じるには「右翼」対「左翼」といった図式では不十分であるとし、次のような構図を想定します。 西田幾多郎 / 丸山真男 ----
日本道教学会の学会誌、『東方宗教』の最新号がやっと届きました。奥付は例年並みに「平成二十二年五月五日 印刷」で「五月十日 発行」となっていますが、実際に届いたのは一昨日(6月7日)、抜刷とPDF入りのCD-ROMが届いたのは昨日です。 もっとも、私の勤務先の学部の論集などは、かつては奥付にある発行月日より半年遅れで配布などということもしばしばだったとか。私自身にしても、SAT(大蔵経テキストデータベース研究会)の何十人もの仲間たちで苦労して作り上げた大正大蔵経の電子データを初めてインターネット公開した際は、技術担当の師茂樹さんと、連日、睡眠不足気味で作業したものの、約束していた年度内公開より10時間ほど遅れてしまったため、当時のホームページには「3月31日34時公開」などと表示したものでした。あれは誤入力ではなかったんです。最近でさえこれですから、まして古代の聖徳太子関連文献となったら……
井上亘さんの森博達説批判の「補論」が出た頃は、森さんは韓国での諸講演や帰国後の仕事に追われ、私もばたばたしていたため、「補論」への反論を公開できないまま論争が途中で止まっていましたが、そうしているうちに、森さんの多忙の原因の一つであった新著が刊行されました。 森博達『日本書紀 成立の真実--書き換えの主導者は誰か--』 (中央公論新社、2011年11月、2200円) です。正式な発売は10日ですが、既に送って頂いたうえ(有り難うございます)、発売日には韓国に向けて出発しますので、その前に簡単に紹介させて頂きます。順序がずれてしまいますが、「補論」をめぐる議論はまたその後で再開します。 本書は、前作『日本書紀の謎を解く--述作者は誰か--』(中公新書、1998年)を書くうちに、「次は韓国だ」と考え、校正が終わる前に船で中国山東半島から韓国の仁川に渡り、韓半島を横断して釜山から船で博多まで帰る
本日、10月23日(日)の「朝日新聞」朝刊には、儀鳳3年(678)に没した百済人将軍「祢軍」の墓誌に「日本」という国名が見えており、早い例だとする記事が載ってましたね。元になった中国の論文が刊行されてすぐ話題になったため、その号が図書館に届いた際にコピーして簡単なメモをとっておいたのですが、7月刊行の雑誌記事が今頃になって報道されたので驚きました。入唐留学生であった井真成の墓誌騒ぎの余波なんでしょうか。 その墓誌は、聖徳太子と直接の関係はないのですが、『日本書紀』の外交記事の信頼性に関わるものですし、私が数日前まで滞在していた西安(長安)から出たものですので、その縁で簡単に紹介しておきます。吉林大学古籍研究所副教授であって、古代文献と石刻の研究者である王連龍氏の論文、 王連龍「百済人《禰軍墓誌》考論」(『社会科学戦線』2011年第7期) です。原文は簡体字ですが、日本の通行の字体に改めます
現在、このブログでは、新刊の大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』を取り上げ、個々の論文の内容を紹介する連載をやっています。これまで大山誠一論文・加藤謙吉論文・八重樫直比古論文について論じてきており、八重樫さんからはコメント欄にコメントを寄せて頂きました。 それに続いて、森博達さんが、森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)を激しく批判した井上亘氏の論文「『日本書紀』の謎は解けたか」に対する批判をコメント欄に投稿してくださったのですが、長文すぎてコメント欄の字数制限ではじかれてしまったため、以下のように、本文の記事として2回に分けて掲載させていただきます。 (ブログ作者:石井公成) =================================== 井上亘「日本書紀の謎は解けたか」批判 森 博達 貴ブログ、いつも楽しみに拝読しています。先日は大山氏編『日本書紀の謎と聖徳太子』
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