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掃除・片付け
blog.goo.ne.jp/kous37
昨日。体調がいまいちで仕事が進まなかった。午後から夜にかけての仕事はそれなりに。松本の仕事の片付けはだいぶ進んだ。 『金持ち父さん 貧乏父さん』をぱらぱらと読みながら、ヨーロッパ型教養とアメリカ型教養の違いについて考える。起業家というのはやはり、アメリカ型の人物像だなと思う。もちろんもともとはイギリスやフランスで出てきた人物類型ではあるが、階級社会の中で貴族・地主の下の層に組み込まれていってしまったためにあらまほしき人物像とは考えられにくくなってしまったのだろう。ヨーロッパの教養はやはり貴族の、伝統や古典的なものが教養の中心に位置付けられていることはいまだに確かだと思う。 起業家という人物類型はアメリカに渡って爆発的に成功したように思う。特に南北戦争後のことであるが。一番最初はカーネギーだろうか。このあたりもう一つ不勉強なので誰が初発なのかはもう少し研究してみる必要があるが。 アメリカとい
昨日。午前中、友人と電話で話しをしたあといろいろやっていたのだが、午後はちょっと眠くなって休んだりしていた。『赤と黒』も読んだがあまり進んでいない。 夕方になって少しマンガの新刊書が気になり神保町に出かける。新御茶ノ水で地上に出たときはもう暗かった。冬至を過ぎたからこれからだんだん日が長くなる、はずではあるが。以前よく行っていた喫茶店のビルが工事中になっていた。むかし付き合っていた人とよく行った店が閉店するというのはなんだか複雑なものがある。自分のその時代が完全に終わる、ということを意味するのだろうか。そんな気がする部分がある。人生の時代というのは、不意に、あるいは知らないうちに変化することも少なくない。 ブックマートに行ってみると期待したマンガはまだ発売されていなかった。4階の同人的なところと地下の身体論的なところを少し見て、三省堂と東京堂、あといくつか本屋を見るが欲しいものはなく。 た
その前にと思って手嶋龍一・佐藤優『インテリジェンス 武器なき戦争』(幻冬舎新書、2006)を読んで読了したのだが、これもずいぶん面白く、かなりいろいろなことを考えさせられた。 さて書くぞ、と思ってウェブにアクセスし、そういえば本人たちのブログでもはてなアンテナに登録しようと思って検索してみてみたら、二人ともかなりこの本についてコメントしている。さらに将棋の羽生善治や、いろいろなコメントも既にいろいろで出しているので、そういうものを読んでしまうと自分の書きたいことを見失ってしまう可能性があるので、急いで読むのをやめ、まずは自分の書きたいことを書くことにした。 しかし。先ほどのエントリーにも書いたが、(申し遅れたが下のエントリーを先に読んでもらえるとありがたい)この本は自分の人生観とでも言うべきものにかなり作用しているので、なかなかうまく書けない、書きにくい部分がある。しばらくたったら全然違う
下のエントリからの続き。今日三度目の更新ということになる。普段だったら一度で書ききってしまうかもしれないのだが、少しパワー不足なのでこういうことになっている。 梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』。自分が感じたこと、考えたことの中で一番柱になりそうなこと。といってなかなかどのように受け取られるのか難しい面はあるのだが、少々未整理であることはお断りしたうえで。 私が読んでいてだんだん強く感じ始めたのは梅田と平野の「違い」なのだが、そのひとつは『人脈』の捕らえ方についてだった。梅田は人脈というものを結構功利的にとらえていて、それはもちろんビジネスの世界では当たり前のことだと思うのだが、その人脈のとらえ方に対して平野がやや強い拒否反応を示している。(p.57あたりのことだが)このあたりの捕らえ方が私は読んでいて漠然と「私」と「ある種の人々」のあいだにあると日ごろ感じている「ものの考え方の違い」と
昨日はいろいろやっていて、遅くなってから神保町に出かけた。行きがけに地元の駅でちょっとしたトラブル(ちょっと小腹がすいたので自動販売機で買おうとしたスニッカーズが機械の中で引っかかってしまって食べ損ねた)があったが、気を取り直して新御茶ノ水に出る。いつもの道を歩いていたらなんとなく華やいだ雰囲気で、神保町はちょうどブックフェスティバルの真っ最中だったのだった。 全然そういうことを予想して行ったわけではないが、こういうことにはよく出くわす。すずらんどおりにたくさんの出店が出ていてなんだか楽しい。B5判の色ケント紙の束をなんとなく買ってしまったが、さて何に使おう。自家製の詩集の紙にでも使おうかな。 屋台と書店をいくつか物色するが、結局本は買わなかった。鉛筆がほしいと思って三省堂の『自遊時間』という別棟の書店に行ったら、古いCDやLPを売る店が入っていて、ちょっと欲しい感じがしたが、いちおうやめ
一昨日の靖国参拝についての論考について、うさたろうさんからコメントがついた。うさたろうさんのブログのみについてコメントしたわけではないのだが、ほかからの反応がいまのところない(気がつかないだけかもしれないが)ので対話形式で少々お答えしたいと思う。前回は少し強めの表現になったが、真摯にお答えいただいて、感謝している。 まず「B層」についてだが、「加藤氏実家放火という事態を前にして、「ざまあみろ」「GJ」といったことを書き込み加藤氏の言論を否定するような連中は、新自由主義的政策を支持するのかどうかといった問題以前に、民主主義の原則を自ら掘り崩すことに何の疑問も感じないという意味で、市民としての基礎的な教養の欠落、下品さを感じざるをえない」ような「連中」は「B層とでも呼ぶしかない」という判断から「侮蔑的」にこの言葉を使った、といっておられる。 ちょっと「B層」の初期の定義からはかなりずれた使い方
昨日。丸山真男『日本の思想』を読む。この新書は「日本の思想」「近代日本の思想と文学」「思想のあり方について」「「である」ことと「する」こと」という四つの文章が収録されているが、うち「日本の思想」を読了し、「近代日本の思想と文学」を読んでいる。 昨日も書いたが、丸山という人は凡百の戦後民主主義論者と違い、非常に切れがいいし、論理の構築もすごいと思うところがある。議論は最終的に西欧文明の直輸入に由来する「理論信仰」と農村共同体の人間関係から立ち上がる「実感信仰」についての議論となり、政治、なかんずくマルクス主義の理論の強烈さと「実感信仰」の文学の対比という図式が出来てしまい、そこに議論が集中した、ということはあとがきを読んで知った。まあそれは可笑しいのだけど、そういうふうになることは理解できる。現在の文学でも「戦争の悲惨さ」をうたうような意味での「実感信仰」はなくなることはないし、日本の思想傾
昨夜。何か普段読んでいるものと違うものを、と思い、本棚にあった『小林秀雄全作品15 モオツァルト』(新潮社、2003)を手に取る。そういえば実際最近、小林秀雄を読んでいない。「モオツァルト」には交響曲40番の出だしの旋律が記されていたな、と思いながら読み始めると、実はこの小林の代表作の一つを、私はきちんと読み通していないことに気がついた。そう長い作品ではない。じっくり読んでみようと思う。 まずゲーテによるモーツァルト評から話は始まる。ゲーテはモーツァルトの音楽を、人間をからかうために悪魔が発明した音楽だとエッケルマンに語っているのだという。この語りは、当然エッカーマン『ゲーテとの対話』(岩波文庫、1981)所収の話なのだろう。ゲーテがこの若者に語る会話は、いろいろなことを含んでいる。大家の放談というものは、19世紀もいまも面白いものなのだと思う。 小林の語りが、実はゲーテの人間像を非常に深
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