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世界禁煙デー
copain.hatenablog.com
私は家族に恵まれず育ってきた。だから人付き合いが下手だと思う。助けてくれた家族や妻にも、失礼なことはしているのは理解している。ただ上手く生きられないし、変えられないと思う。感謝はしているのですよ。本当に。 結局私は色々なかたに助けていただいている。感謝はしているのですよ。本当に。ただ上手く表現できない。もう性格を変えられる程、残念ながら私も若くはない(笑)諦めてください。 病気を抱えたかたは、発症日を第2の人生としてお話される方が多い。実は私、全く覚えてなかった。もちろん月ぐらいは覚えていますよ!年と日を覚えていない。そこで今回ちゃんと調べてみた。2016年9月24日(土)この日から私の人生が一変した。 私の人生この後どうなるのか、どうなっていくのか、正直あまり興味がない。ただ私の脳の損傷が酷かったにも関わらず、生き残り、後遺症の改善が比較的良好だったのは、後遺症に苦しむ人を無くすため。も
SBI大学在学中、私は他の患者の心を理解するためZoomのお茶会とLINEのオープンチャット(匿名で参加できるグループLINE)を立ち上げてみた。Zoomのお茶会はすぐ終わってしまったが、オープンチャットは現在も続いている。患者やその家族が、日々の悩みや楽しみを、チャット上でお話している。 もう正直最初は大変!夜中に家族が救急車で運ばれたがどうすればよいかなど、趣旨と外れたものばかり。寝る暇もなかった。その後仲間達に様々なサポートをしてもらいながら、ルールを作ったりしていった。今も色々と問題は起こるが、良い場所になっていると思っている。 私の考えも現在は変わっている。ただ私は、患者やその家族がお話できる場所を提供するだけ。心を理解するなどおこがましいし、できることではない。 現在の悩みは、この場所を引き継ぐこと。自分の中でこの居心地のよい場所は、もう私が必要な場所ではない。素晴らしい仲間達
2021年9月、私は無事卒業することになった。さらにありがたいことに、首席で卒業できた。正直優秀な方々の中で、頭で敵うわけがない。周りが戦車だったら、私は竹やりを持った歩兵(笑)。事実だからしょうがない。 ただこれだけは言える。2年間120%で取り組んだ。手を抜かなかった。自分が劣っていることを理解していた。優秀な方々から吸収する努力だけは、誰にも負けなかったと思う。 結局そう。諦めなければ何とかなる。リハビリもそう。夢もそう。確かに私が今行おうとしていることは、成功するのかは分からない。事業化できるのかも分からない。ただアホがそんなこと考えてもしかたがない。多動するだけ。
最終結果の発表は、まぁまぁ良かった。ただ様々な問題点も指摘頂いた。さらにM病院との概念実証(PoC)では、自分の事業計画が患者に受けられないことが分かった。お金を稼げる匂いもしない。もう精神的にはどん底。さすがに3日ぐらい悩んだ。 でもよく考えると悩むって、賢くて実績のある人が行うことなのですよ(笑)リハビリに困っている人がいるのは、100%事実。やるかやらないかしかない。脳梗塞になって分かったこと。諦めたら終わり。諦めなければ、少しずつだが前には進む。 最終発表のご指摘を反映し、私は最大限修正した事業計画書を学校に置いてきた。ただそれすら、現時点では全く使えない。起業あるあるですね(笑) そして現在、再度M病院のお力をお借りし、第2回目の概念実証(PoC)の準備をしている。一体後何回書き直せば、事業化できるのですかね(笑)
最終発表は、2021年7月の半ばに行われた。M病院との概念実証(PoC)の折り返し地点。つまり自分の事業計画が、実際に上手くいくものか分からない状態。 SBI大学の講師は、実際に事業経営、スタートアップ支援や投資家も多数いる。さらに最終発表には、外部の投資家も参加する。その方々の前で発表となる。 私はプレゼンが得意だねぇ、と言っていただくことがある。ありがたいお話だが、とんでもない。人の10倍は資料作りに時間はかけるし、原稿を作りスピーチ練習は何百回も行う。苦手は努力でカバーするしかない。リハビリも一緒。自分の努力だけは、自分が諦めなければ裏切らない。
話は少し戻り、ゼミは後半戦。先輩達は卒業し、後輩が2名入ってきた。やはり2名とも優秀。もう一体何を話しているのか分からない(笑)ただいつも通り気にしない私。そんなことは気にせず、色々と聞き、学んだ。先生・先輩・同級生・後輩、私は素晴らしい方々の中で本当に恵まれていた。 卒業した今でもそのご縁は変わらない。1年生からお世話になっている三宅先輩には、いつも助けていただいている。吉田先生、太齋先生にも、変わらずお力添えを頂いている。この学校に来て関わったかた全てに、今も助けていただいている。もちろん学校以外の方々にも。感謝しかない。脳卒中になって、人生面白くなってきた。
2021年7月から、M病院のご厚意で、院内様々な人のご協力を頂き、4名の患者に対し概念実証(PoC)を行った。試験内容は、数少ない通院時間を自主リハでカバーするというもの。中間発表の内容にアレンジを加えておこなった。対象は脳卒中患者だけでなく、様々な疾患患者に行っていただいた。 詳細は割愛する。結果だけお知らせすると、患者さんの求めるサービスには程遠かった。終了後、患者様へのアンケートとインタビューで反省点を抽出した。 ただその後も無理を言って、1名の理学療法士にお付き合い頂いた。前回の試験でも中心的にご協力頂いた、藤井先生。お忙しい中私の戯言に付き合っていただき、前回問題になった点の改善作業に付き合ってくれた。ご自身のお仕事や研究活動もあるのに。
2021年4月、私は実際に再生医療を受けさせていただくこととなった。20分程の点滴治療。遠隔で医師の診断を受け、看護師に点滴をしてもらった。終了間際、体温の上昇を感じた。 2回目の治療は6月に行ってもらった。方法は前回と同じ。2回目ということもあり、リラックスして受けられた。 2回の治療を通じて私が感じた身体の変化について説明する。私は左の肘は勝手に上下に揺れる後遺症(失調)で悩んでいた。猪八戒(入院中の担当医)からは、治らないと言われた後遺症だ。私は4年間のリハビリで、この後遺症もだいぶ改善していた。しかしながら疲労が重なると、その後遺症が出てきていた。その度に、猪八戒がバカにしている様だった。腹が立つ(笑)。しかしながら再生医療後は、疲れても後遺症が出にくくなった。左手の握力も人生最大値をたたき出した。ただ勘違いをしないでもらいたい。私はリハビリも自分なりに続けていた。魔法の薬はないの
2021年3月吉田先生に、再生医療を行うExoEarth社の西平社長を紹介していただいた。再生医療について、色々と教えていただいた。どの様に勉強するべきか、何を学ぶべきなのか、私は教えていただいた本を読み、ビデオを見た。 ここでは簡単に説明してみる。再生医療とは、読んで字の通り細胞を再生する。その役割をするものは3つ。ES細胞、iPS細胞、体性幹細胞だ。その中で体性幹細胞は、他の2つの細胞に比べると再生能力は限定的だがリスクが少ないと言われている。ちなみにリスクとは、ガン化や拒絶反応のこと。ただしそれでもリスクは0ではない。この会社の再生医療は、さらに安全な方法を取っているとのこと。それは体性幹細胞そのものを使うのではなく、細胞を培養し、その培養液から幹細胞を取り出して滅菌等の各種処理を行った液体を利用するそうだ。エクソソームを利用した治療だ。もうここから先は細かくなりすぎるので、興味のあ
講義中にゼミの吉田先生から、衝撃的な話が出た。脳梗塞など死んだ細胞を改善する治療があるという。再生医療。私はそんなものはないと回答した。だってそんなことが起きたら、私の今までの苦労が報われない。普通そう思うでしょう? 先生は今度、その会社の社長を紹介してくれるという。再生医療など良く知らない私は、半信半疑でお願いをした。
中間発表が終了し、私には素晴らしい出会いがあった。M病院、副理事長でリハビリ医である田中先生との出会いだ。 私がYouTubeを見ていると、私と同じ考え方をされている医師がいた。衝撃的であった。私は医師にあまり良いイメージを持っていなかった為、こんなにも患者のことを考えている医師がいることに驚いた。YouTubeから見つけたInstagramにDMを送り、ゼミの中間発表のビデオを見てもらいたいと話した。もうほぼストーカー(笑) 田中先生はビデオを見てくれ、協力を約束してくれた。そこから色々アドバイスを頂いた。また病院でのテストも約束してくれた。
伝手もないのに最初から、病院と組むビジネスプランを組んだ。正気の沙汰ではない(笑)内容は数少ない通院時間を、自宅で行う自主リハでカバーしようとした。自分がそうだった様に。自宅で行う為に何が必要か?そうだ動画だ。めちゃくちゃ単純。沢山動画を作っておいて、担当療法士さんにその患者に合うもの選んでもらって、患者が自宅でそれを見ながらリハビリ行う。おー俺ってすごくねー!と、当時は思った。後から今色々と知ると、似た様なサービスは沢山ある。ただ当時は知らない。これが土地勘がないということ。私はこの内容で、事業計画書を作った。 ゼミでは半年目に中間発表があり、終了時に最終発表がある。私はこの計画で、中間発表に臨んだ。点数は良かった。ただお勉強と現実は違う。後日、私はそのことを痛感する。
世の中には自費リハというものがある。読んで字のごとく、社会保険を使わずに自費でリハビリを受けること。正直非常に高い。私も行きたかったが、高くて行けなかった。ただしここで注意が必要なのは、自費リハは決してぼったくりをしている訳ではない。適正な価格なのだ。普通に健康保険を使わずに病院でリハビリを受けたとすると、自費リハより気持ち高くなる。つまり病院でリハビリが安く受けられるのは、健康保険のおかげ。だったら自費でこの下をくぐってやろうと思った。相も変わらず単純(笑)
セミに入ってみると、優秀な方ばかりだった。もう笑っちゃうぐらいに。半年先輩が3名、同級生が1名の5名であったが、とても刺激的であった。 私は色々考えた結果、リハビリに取り組むことにした。理由は簡単。自分が苦労したから。脳卒中になると、150~180日は医師が認めればめちゃくちゃリハビリができる。もちろん医師が認めるのが条件。私は猪八戒(入院当時の担当医)のおかげで、これすら満足に受けられなかったのだが。問題はその後。医療保険でも介護保険でも、満足するリハビリが中々受けられなくなる。細かい話は割愛するが、まぁ簡単に言ってしまうと「もうそれ以上の回復は難しいから、受容して今の身体で生きていきましょう」という感じ。冗談じゃない。1年前まで夜9時に思考停止していた人間が、大学院に入り、普通に仕事して、起業を目指している。 限界は人が決めるものではない。自分で決めるもの。
私が入りたいゼミは1番人気。倍率がめちゃくちゃ高い。まぁあんまり深く考えてもしょうがないので、熱意を書きまくった。元から学位なんて興味がなかった。このゼミに入るために入学したのだ。第2希望に関しては、適当に書いて出した。ごめんなさい<m(__)m>まぁ後先考えないアホなので、許して下さい。 私は晴れて第1希望のゼミに入ることができた。後からゼミの1名の先生に言われたことがある。あんな書き方されたら、入れないわけにはいかない。諦めなければ、対外のことは上手くいく。たとえ時間はかかったとしても。
2年生となり、ゼミを選択することとなった。修士論文など他の選択もあったが、起業しか考えていない私は「事業計画演習」を選択。更に私が入学を決意した、2名の先生が担当するゼミ以外入る気はなかった。「吉田・太齋ゼミ」。担任の吉田先生は、代表取締役として有名企業を上場させている。それ以外にも華々しい経歴をお持ちで、起業家支援なども行なっている。太齋先生は信用金庫出身で、金融のプロ中のプロ。SBIでは1番授業科目をお持ちで、私も様々なことを教えて頂いた。更に様々な企業で、講師活動も行っている。 ゼミは少数制の為、必ず希望に入れる訳ではない。志望動機を書き、第2希望まで提出する。第2希望が外れると、後はどこに行くかは分からない。
毎日勉強漬けの日々を送っていた。学校はオンラインとeラーニングが中心であったが、対面授業も行われた。色々な仲間ができ、自分の知らない世界を学んだ。結局人間は1人では生きられない。この頃には多少徹夜をしても、何とか踏ん張れる程に体力は回復していた。ただ朝のリハビリと散歩は、欠かさず行っていた。自分の身体に、過信だけはしない様にしていた。 1年生も終盤にかかった2019年12月、中国で良く分からない流行り病が発生した。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)。この当時は病気1つで、世の中がこんなにも変わるとは思ってもいなかった。
SBI大学では、人間学という授業があった。中国古典などを学ぶことで人間の根幹をつくるというもの。簡単に言うと、「小難しいこと使えても道徳的に問題ある人は組織のトップにはなれないよね」ということ。「論語」、「貞観政要」「孫子の兵法」、中国古典ではないが「論語と算盤」、様々な授業を学んだ。 すごく乱暴にまとめてしまうと、結局人の為にならないことは破綻する。人でもビジネスでも。ただ突然神様の様にはなれないから、常日頃から人の役に立てることを心掛けましょう。そうすれば、いつか自分も上手くいくよ。ということだと勝手にまとめた(笑) 後は「志」、自分の生きる目的。どんなにバカにされても、声高らかに話せる目標。多分これを持つ為に、私はここに来たのだと思う。
その講義が終了する際、先輩が飲み会を企画してくれた。先生は海外に在中していたが、帰国に合わせて開催された。先生は講師を辞め、事業に専念するのだという。当時はコロナなどなかった。とても楽しい時間を過ごさせてもらった。 この時先生に頂いた言葉で、今も心の支えになっていることがある。講義中、起業で1番重要なのは自分の土地勘(専門性)だと教えられた。私は医療従事者でも何でもない。専門知識がない分野での起業は、やはり辞めるべきかお聞きした。 「松本君はやるべき。小脳が4㎝壊死した身体で感じたことなんでしょ。一緒にやってくれる人を探せばいいんだよ」 成功するかどうかは自己責任。ただ諦めてしまったら、そこで終わり。患者側の土地勘に賭けることに決めた。
先生、先輩、同級生、みんなが暖かかった。決して私の戯言を馬鹿にせず、自分の知識や経験を惜しみもなく与えてくれた。自分もいつかこうなりたいと思った。 私は結局スマートウォッチが異常を感知して、救急車を直に呼ぶシステムを事業計画書に書いて提出した。システム名は「こぱん」。脳梗塞を経験した方はご存じだと思うが、4.5時間以内に専門的な病院でt-pa療法(血栓溶解療法)を受けられれば、40%近くの方が後遺症を抱えずに帰宅することができる。直接医療につながる環境を作りたかった。ただ実際誰がこんな物作るのだ。私は作り方なんて知らない。正直ドラエモンの世界だな。 それからしばらくするとAppleが、Applewatchが衝撃を感知すると119番通報をしてくれるサービスをスタートした。もちろん本国アメリカでは、同サービスが以前からあったらしい。私はすぐに購入し、現在も愛用している。無知って本当に恐ろしい。
1年生の前期。私の人生を左右する授業を選択した。2年で受けるゼミ「事業計画演習」の基礎を教えてくれるという。授業を受ける条件に、「事業計画書を書いたことがある人」とあった。本を1冊読んだだけで書き、周囲をドン引きさせた「自称事業計画書」しか書いたことはなかったが、まぁ何とかなるだろう! 授業は実践的であった。先生は実績・知識ともにすごい方である。現在は講師を辞めて、海外で事業に専念されている。授業をサポートしてくれる先輩達も、実績・知識ともにすごい方であった。その中の1人三宅さんは現在実際に起業家として活躍されており、頻繁にご相談に乗って頂いている。同期の生徒達も実際に起業していたり、有名企業に勤めていたり、もう凄い人達ばかり。本来一歩引いてしまうのだろうなぁ。アホな私はその様な環境が、楽しくて仕方がなかった。この方達にお会いできたことが、私の大きな、大きな財産。
授業が開始されると、私の身体は悲鳴を上げた。21時以降起きていることが出来ない身体。ただそんなこと、言っていられない。他の生徒とグループで行う授業もある。もう必死でついていくしかなかった。 私の体力と後遺症の回復は、この学校に通った2年間が大きなターニングポイントだったと思う。もちろん皆さんに無理をしろというわけではない。再発したら、元も子もない。ただ回復期だの生活期など誰が決めたか訳わからない言葉で、自分の回復の限界を勝手に決めないでもらいたい。それは参考値。自分が決めなければ、回復に限界なんてない。
しばらくすると、大学事務局から連絡が入った。入学式で入学生代表の答辞を行ってほしいという。元々人前で話すことは嫌いだったが、受けることにした。 入学式当日はかなり緊張していた。本学はだけでなく世界中に生徒がいる為、オンラインでも繋がっていた。 副学長(現学長)、生徒会長からの祝辞があり、私の番になった。壇上に上がり5分程お話をし、自席に戻った。まぁ無難に終わったと思っていた。 翌日事務局から連絡があった。私はスピーチ中、マイクのスイッチを入れ忘れていたらしい。オンラインで参加していた方は、もうただの放送事故。突っ立っている私を見ていただけ。そこで代読とテロップを入れ、ビデオで流してよいかとの連絡であった。事務局には手間をかけさせてしまった。
私はSBI大学院大学への入学を決意した。理由は3つ。 1つ目は、eラーニングとオンラインの授業が中心だったこと。弱った頭と身体にはありがたい。 2つ目は、人間学の授業があること。これはSBIグループ代表であり、前学長である北尾氏の教育方針であった。簡単に言ってしまうと、「どんなに専門的な知識を勉強しても、正しい心を持ってないと何の役にも立たないよね」ということ。 3つ目は、体験授業で受けた2名の先生に感銘を受けたこと。2年生の時に受ける先生のゼミは、この2名しか考えていなかった。
火葬場へ連れて行く日まで、沢山の人と犬が来てくれた。 火葬場に向かう間際も、考えられない程の人達が集まってくれた。そんな暖かい方々に、私はこんな挨拶をした。今でもはっきりと覚えている。 「12年前、彼が我が家に来た時、私達夫婦はコパンと名付けました。フランス語で、親愛なる、相棒、仲間という意味です。彼はその名の通りに生きてくれました。それだけでなく、私達夫婦に皆様という大事な仲間も繋げてくれました。皆様には感謝しかありません。コパンはいなくなりましたが、今後とも私達夫婦をよろしくお願い致します」 私の病気を知って離れていった方も沢山いた。しかしながら助けてくれた方も沢山いた。私の復職までのリハビリ生活の中で、私を最初に救い出してくれたのは近所に住む方々。コパンが繋いでくれた方々。 私はコパンをペットショップで見た時、なんてブサイクなのだろうと思った。マロみたいな眉毛がある犬(笑) 値段も確
2回目の抗がん剤は効果が表れなかった。日ごとに歩く距離も短くなり、食事もとれなくなっていった。 それ以降の抗がん剤治療は行わないことにした。何度も何度もコパンを助けてくれた医師からは、こんなことを言われた。 「ここからはコパンがくれるギフトの時間」 余命1週間。 あんなに育たなかったベランダの朝顔が、まだ6月なのに芽が咲き出していた。
少しだけ時間を戻させていただく。 コパン(愛犬)は2005年8月4日に生まれ。生まれて3ヵ月で、我が家へやってきた。8月4日は私の母の命日でもある。子供のいない私達夫婦にとって、彼はいつも主役だった。小さな頃から身体がとても弱く、病院にばかり通っていた。いったい何回死にかけたのだろう。 色々な病院にかかったが、最後は名医にも恵まれた。私が入院中には、癌からも救ってくれた。その前もその後も、何度も何度も救ってくれた。その度にコパンは、医師や私達の期待に応えて復活してくれた。
次に何をすれば良いか?そうだ、自分が得意なことを絡めた資格を取ろう。色々調べてみると、福祉住環境コーディネーターというものがあった。これ取れば、人の役に立てるんじゃねぇ?もう詳細は割愛するが、半年程ユーキャンで勉強して、2・3級を一緒に取った。 結論。介護士の資格がないと、私のやりたいことにはあまり意味がなかった。介護士の資格をとる為には、実務が3年必要。見事に振り出し。普通もっと早く調べますよ。何とも私らしい(笑)
当時の後遺症について少しお話する。少し長くなるが、ご了承を。 1、歩行については、見た目は健常者と変わらないまでになっていた。ただ左足が自分の思った様に上がらず、常におっかなびっくり歩いていた。 2、左手については、肘が上下に大きく揺れていた。失調という。もちろん物なんて持てない。よく右利きだから、左手で良かったねと言われた。とんでもない。世間は両手があることが、前提にまわっている。例えば、紙に名前を書く時。左手で抑えないと、上手く書けない。文鎮でも持ち歩いていれば、別なのだろうが。 3、眼については、かなり苦労した。まず本が読めない。TV・スマホなどブルーライトを発するものは見てられなかった。吐いてしまう。後から知ったが、小脳にダメージを負った私は、眼から入った情報を上手く処理できなくなっていた。車など動くものに乗るのも苦手。とにかく脳が処理できない。 4、寒気は酷かった。今も多少残って
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