中島一夫のブログ記事「物語と悪――王殺し「後」の中上健次」(その1~その5)を読んだ。中島氏とは、以前平野謙の自然主義評価をめぐって論争したが、その時は明確に言語化できなかった私と中島氏の近代日本文学についての理解と関心の違いが、今回の一連のブログ記事(まだ途中のようだが)で分かった気がした。それは端的に「大逆」事件についての考え方の差異である。 中島氏は次のように「大逆」事件を「王殺し」だったと考える。「大逆事件という「王殺し」は、その意味で不可避的だった。実際に王が殺されようといまいと、すでに「王殺し」は論理的に起こってしまっているのだ。したがって、近代国家の権力構造とは、王殺し「後」の空席を、いかに「空席」のまま守るかという形態をとらざるを得ない。空席が埋まっているとしてしまえば、近代の啓蒙的理性によって、たちまち「王殺し」が作動するだろうからだ。近代の国家権力とは、すでに王はいない