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note.com/mag_rekihaku
※ このnoteは「REKIHAKU 特集:日記が開く歴史のトビラ」(2021年6月刊行)に掲載されたコラムの転載です。 きっかけは遊女の放火事件の資料東北大学附属図書館の著名なコレクション狩野亨吉文庫のなかに、一八四九(嘉永二)年の新吉原遊廓で起きた遊女の放火事件の資料があることに気付いたのは、数年前のことだった。『梅本記』と題された、新吉原京町一丁目の遊女屋梅本屋佐吉の抱え遊女たちの放火事件の裁判調書である。『梅本記』には、遊女の自筆の「日記」やその「日記写」も含まれている。しかし、近世文書としては実に風変わりで、解釈は難しかった。そもそも、一つの見世の何人もの遊女が「日記」を書くということがあったのだろうか。また、本当に遊女の「日記」だったとしても、なぜ遊女たちはなぜ「日記」を書いたのだろう。興味深い史料だと思いながら、なかなか手がつかないまま時が過ぎた。 エゴ・ドキュメントとは?そ
※ このnoteは「REKIHAKU 特集:日記が開く歴史のトビラ」(2021年6月刊行)に掲載されたコラムの転載です。 かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなかった「かな日記」と言えば、古代では紀貫之『土佐日記』が有名である。「をとこ(男)もすなる日記といふものを、をむな(女)もしてみむ、とて、するなり」で始まる創作文学であり、土佐から帰任する国司に随従する女性の立場で記されているが、貫之が土佐守の任を終えて都に戻るのは九三四(承平四)年末から翌年にかけてのことで、それからまもなく執筆されたらしい。ただ、かなを用いて日記を書くことは貫之の発明ではなく、それ以前にかなで日記を記した女性が存在していた。藤原穏子(やすこ)である。 穏子は関白藤原基経の娘として八八五(仁和元)年に生まれた。人康(さねやす)親王の娘を母とする。数え年七歳のときに父基経が亡くなった後、兄の時平は穏子を皇太子敦
※ このnoteは「REKIHAKU 特集:いまこそ東アジア交流史」(2021年2月刊行)に掲載された特集記事の転載です。 残された一枚の画幅「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」 東西に長い瀬戸内海の中央、燧灘(ひうちなだ)の真ん中に浮かぶ島、魚島(うおしま)。島の面積は一・三七平方キロメートル、周囲は六・五キロメートル。愛媛県越智郡上島町に属する小さな島である。 魚島の港と集落(2018年撮影) 漁業の盛んなこの島には、漁船団の出航の様子を描いた、一枚の画幅が残されている。一九〇七(明治四〇)年に描かれた「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」である。地形や集落の配置から見て、魚島を北側から俯瞰した絵であり、画題の通り、韓国(大韓帝国)、すなわち朝鮮への出漁の様子を描いたものである。 「愛媛県越智郡魚島村韓国出漁之状況」(複製、原品1907年、歴博蔵) 少し細かく絵を見ていこう。画面の上半分
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