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円安とは
note.com/shinshinohara
私は当初、日本酒が大嫌いだった。甘ったるくてベタベタして悪酔いする。決定的だったのは、大学入学したての時の歓迎会。日本酒コップ一気飲みをやらされ、当然ながらゲーゲー吐いた。目が回ってグラングラン。「ポン酒」はもう飲まないぞ!と心に決めた。 私が日本酒の旨さに目覚めたのは阪神淡路大震災。当時は真冬。暖がとれなかったため、薪になるものはないかと町中を歩いていたところ、酒蔵が倒壊していた。申し訳ないけれど、薪に使わせてもらえないかとそこにいた人に声をかけた。すると、コンクリートの建物に手招きされた。 薪にしたいなんて言ったから怒って殴られるんじゃないか、とおっかなびっくり入ったら、「ボランティアか?搾りたてを飲ませてやろう」と言われた。その時口にした飲み物に衝撃を受けた。果物ジュースのように豊潤で、それでいて切れもよい。いくら飲んでも飲み飽きしないおいしさ。 こんなうまい飲み物がこの世にあったと
イギリスで3人子育てしておられた方のお話、むっちゃ面白かった。日本と違いすぎて比較にならない。忘れないうちにメモ。 ・大学進学には3教科勉強してればいい。 ・法学部に進学するのにその子が選んだのは英語、心理学、社会学。 ・高校では基本的なものだけでも24教科。さらに細分化。 ・たとえば日本だと「美術」とひとくくりだけど、絵画、彫刻などに教科が細分化。それのうちの好きなの取ればよい。 ・学年の考え方が弱い。興味があれば上の学年の教科をとってよい。下の学年の教科から苦手をやり直しても構わない。 ・でも3教科だけ勉強すればいいから、得意なことしかしない。 ・3教科の成績は生涯の証明書になる。たとえばA.A.Bという成績なら、ずっとそれがついて回る。ただしもう一度カリキュラムを受け直して成績を上げることは可能。そのためにトシ取ってからまた学校に通う人多い。 ・大学出てから就職するとは限らない。1年
もしこの事件が起きなければ、西洋が世界を牛耳ることもなかったかもしれない。世界中で侵略を重ね、各地に植民地をもち、科学技術を発展させ、今も世界をリードし続ける存在にはなれなかったかもしれない。この事件が西洋を目覚めさせ、世界最強の地域に変貌させることになった。それが十字軍。 十字軍が起きる前、西洋は世界でもとびきり技術が遅れていた地域だった。というと、不思議に思われる人もいるかもしれない。西洋は古代ギリシャ・古代ローマ帝国の時代から、世界最先端地域だったはずではないか、と。ところが中世ヨーロッパは、一時、石器時代にまで技術が後退していたといわれる(※技術を残した地域もある)。 確かに古代ローマ帝国が健在だった頃は、世界最先端地域だった。ところが4世紀にゲルマン人の大移動が起きて、帝国が崩壊すると、あれよあれよと文明も技術も失われてしまった。「連鎖倒産」が起きたからだ。 ゲルマン人達はローマ
面白い体験を伺った。とある女性が初めてテレビゲームをやってみたら、普段からやってる息子が「そこはこうしたほうがいい」「次はこうなるから気をつけて」と教えてくれて、かなりうっとうしかった、と。他方、やったことのない夫は一緒にドキドキしながらうまくいくと驚いてくれて、嬉しかったという。 その経験から、人間には教えたがる本能があるのではないか、という指摘がなされていた。これは大変面白い話だと思う。教えたくなる本能、これについて考えてみたい。 私の考えでは、教えたいという気持ちは、「驚かしたい」という気持ちの変形なのでは?ということ。 テレビや雑誌、ネットなどで新しい情報を仕入れ、他の人にそれを教えると「へー!」と驚いてもらえた経験は、皆さんお持ちだと思う。教えるという行為は、人を驚かす行為でもあるのだと思う。それは恐らく、子どもの頃からの経験から生まれたもののように思う。 幼児はよく、「ねえ、見
ビートたけしに始まり、ダウンタウンが引き継いだ「いじり」という手法は、集団を「嗤(わら)い」で支配できるということを子どもたちに示してしまった面があるように思う。 頭の回転がよく、言葉巧みな強者は、特定の人間を「いじられキャラ」に仕立てることで嗤いを生む。この場合、 いじられキャラと目された人間は、他のポジションを要望する自由を奪われる。もし拒否すれば、「笑いがわかってない」「せっかくお前が主人公になれるようにしてやったのに」と恩着せがましさを見せながら相手を罵り、それでも拒否するなら集団から排除する。「おもんねーヤツ」とレッテルを貼って。 こうした強者は空気を支配するのがうまい。大学のサークルの新歓コンパで、そうした先輩がいた。新人に自己紹介をさせたあと、ビールを何杯も飲ませて酔い潰させていた。さて、私の番。ビールを飲み干し、コップを頭の上で逆さにし、「あー、うまかった」と言ってそのまま
「イジられキャラはいじられることでコミュニティの仲間入りができるのだから恩恵であり、いじり芸は肯定されるべきでは」という意見が複数。 この主張、私から見るといくつもの点で粗雑に過ぎるように思う。その点を考えてみたい。 まず、最大の過ちは「いじり」という屈辱的な形でしかコミュニティに入れないと前提しているその発想の貧困さ。 私の教え子で長年不登校状態だった引きこもりの子が。その子は当然、人の輪に入るのが超苦手。しかし一念発起して北海道に一人旅に。安く泊まれるライダーハウスに入った。 隅っこで小さくなっていると、一緒に食事しよう、と誘われた。ライダーハウスのルールだと聞いてその子は渋々参加した。ところが、とても居心地がよかったという。無理に発言を求められることもない。でもその場にいるみんなが、話の輪のメンバーとして自分を認めてくれている安心感。 その子はすっかり北海道を気に入り、ホテルの裏方の
大学院生を食事に招いたところ、女子学生二人とも赤ちゃんを抱いたことがないという。当時赤ちゃんだった息子を抱いてもらった。おそるおそる。毎日食事に招いて、そのたびに赤ちゃんと触れ合うことになり。あるときふと、「実は子どもが苦手だったんです、どうすればよいのかわからなくて」と。 親類にも小さな子はおらず、子どもと出会う機会はなかったという。で、子どもという存在の得体が知れないので、どうすればよいかわからず、距離を取ってきたという。「でもこうして毎日接するうちに、かわいいと思えるようになってきました」。二人とも早くに結婚し、子どもも授かってる。 ウェブ飲み会で「親ガチャ」について話していたときも、若い女性が「子どもと出会う機会がない」と話していた。職場の女性の子どもと少し挨拶するくらい、お客さんの連れて来る子どもと少しすれ違うくらいで、それ以外には子どもと接することがないという。だから子どもを生
最近、親ガチャという言葉をよく聞くようになった。生まれた家によって子どもの環境が決まってしまうのは昔からの話だが、ここにきてなぜ「親ガチャ」という言葉が根付いたのだろう?ということを、昨日のウェブ飲み会で話し合った。その中で、面白い指摘があった。じゃりン子チエ。 テレビアニメのその番組で、チエは見事な「親ガチャ」だといえる。夫婦は別れてお母さんはいない、父親はバクチとケンカばかりするろくでもない男。チエはしばしば「うちは世界一不幸な少女や」と愚痴るシーンがあったように思うけれど、その割にタフでいつも明るい。ホルモン焼き屋を自ら経営。 そして肝心なのは、私の子どもの頃、こうしたチエみたいな存在を、必ずしも非現実的だとは感じなかった、ということ。こうした子どもはいるんだろうな、という感じ。実際、私の知っている人でも、建築用重機を貸し出す会社の社長もなかなかな子供時代を過ごしていた。 戦争でみな
「お金もらうわけにいかないし、晩飯だけ食べさせて」という約束で家庭教師をしていたことがある。指導することになったその子の状況について、家族全員に説明していたところ、その子の妹が不思議そうに「なんで文章みたいに話せるの?」と聞いてきた。 その家族の会話は、ほとんど単語で終わっていた。「ねえ、○○は?」「おい、△△しろ」その場の状況から察することができるから、単語で事足りる生活をしていた。状況から察する能力があるのだから、頭は悪くない。ただし、言葉を鍛えられる環境にはなかった。 もちろん家族の誰も、本を読む習慣がなかった。「文章」と出会うのは、学校の教科書くらい。そんな生活環境の中で、私のように「文章」のように論理を組み立ててしゃべる人と出会って、その妹は驚いたようだ。 そのような生活環境で言葉を鍛えることができるかというと、難しい。言葉を鍛えなければ、学校の勉強についていくのも難しくなる。何
どうやったら子どもが勉強するようになるのか?という質問が複数。いくつか事例を紹介してみようと思う。 私の父は二つの小学校のガキ大将(どうやって?)だったのだけど、一緒に遊んでた悪ガキが、中学に入ってしばらくすると学年でダントツの1位になったという。 その同級生は、父親から「中学生になったら、お父さんと机並べて勉強するぞ」と言い渡されていたという。で、仕方なく毎晩机に向かっているうちに、宿題でもするか、試験前の勉強でもするか、となるうち、学習が楽しくなってきて、瞬く間に学年一番になったという。 私もそれに近いことを。中学2年の冬、ある事件をきっかけに、父が受験勉強(証券マンになる資格試験)をしてる横で机を並べることに。それまで勉強する習慣なんかないから、とにかく落ち着きがない。イスをギーコギーコ。のけぞったり突っ伏したり。教科書の間にマンガ挟んで読んだり。 しかし父は私がサボってるのに気づか
私の塾は基本、成績のあまりよろしくない生徒が来ていたのだけれど、たまに勘違い(?)した親が、ものすごく成績の良い子を連れてきて「お願いします」と言ってくる場合があった。中学受験に失敗し、高校受験で挽回したい、という熱意を母親が持っていた。面接のとき、母親は子どもに語りかけた。 「あなた、同級生の○○ちゃんが合格して、泣いて悔しがったでしょう?高校受験で挽回する、って誓ったじゃない!?○○ちゃんは今頃頑張っているよ。負けていられないわよ」子どもはうなづきつつも、またその話か、といった、辟易とした顔をした。 不合格だった時は、本人も口にしてその通りのことを言ったのだろう。けれど、それを言質に取られて、母親からヤイノヤイノと急き立てられる毎日に、ほとほと疲れ切った様子だった。塾以外の時間も勉強漬けにされ、中学1年なのに眉間に険が走っていた。大の勉強嫌いになってしまっていた。 自分の親とはいえ、他
勉強できない子は一般に、理解力がないからだとされることが多い。塾で主に「勉強できない子」とされる子らを見てきた私からすると、そうは思わない。むしろそうした子の9割は「考えすぎて混乱」していることが多い。糸がもつれてこんがらがって、イヤになってるという感じ。 「勉強できない子」は、しばしば分数でつまづく。そもそも、分母と分子が区別ついてない。これには指導者側にも問題があって、私にも覚えがあるけど、分母と分子を指導者が言い間違えることが結構ある。聞いてる側からしたらよけい混乱。 私は「下の数字はケーキをいくつに切るか、や」「上の数字は何切れあるか、や」と、口語表現にして説明していた。しかし「説明」という言葉自体が混乱を招いている。言葉に縛られて混乱していることが多いから、言葉は最小限にして、「体験」で学んでもらったほうがよい。 1/3を見せて「さあ、このマルをいくつに切る?」と言いながら、マル
大学教員の方から、富裕層に有利な社会であることを望んでいる学生が多いという話を聞いた。ホリエモンなどの動画の影響が大きいのでは、とのこと。富裕層は努力し才能もあったから豊かになった、貧乏なのは努力しなかったから、という論理を真に受けている若者が大変多いらしい。 動画の世界では、20年前から続く新自由主義の考え方がまだ主流にあるらしい。動画という新しいメディアにガンガン出てるのはいかにも活躍してる感じだし、今の若者はYouTuberに憧れてるとも聞くし、自分もそうした富裕層に仲間入りできる、と考える若者が増えるのも不思議ではないかも。 でもこれ、なんだかデジャブ。90年代後半から「悪平等」という言葉が流行るようになった。日本は頑張った人間に報いない、頑張った成果をみんなに配ってしまい、努力した人間にはせいぜい金一封。これでは努力した甲斐がないと言われ始めた。やがて2000年代に入ると、この考
(技は見て盗め、というタイプの指導者を根絶させたい、マニュアルも作って丁寧に教えたいという書き込みに対し) ここ、難しいところで。教えるのがうまい、あるいは親切に教える人のところだと人がかえって育たないという不思議な現象があって。 ろくに教えず、教えるのがヘタだと自覚もあって、頼むから勝手に育ってくれという人のところのほうが人が育つという矛盾めいた現象もあって、単純ではない。 なぜ教えると人が育たなくなるのか?教えられた人は、教えられたその言葉に縛られて、眼の前の現象を観察しなくなる、あるいはできなくなる、ということが起こりやすい。上司の言葉を聞き逃すまいということに必死になって、上司に「聞いてなかったのか』と叱られるのが怖くて、必死になって聞く。 すると、上司の言葉に集中することに必死のため、目の前の現象を落ち着いて観察するゆとりがなくなるらしい。器用な人は切り替えて観察できるのだけど、
FB友が「なぜ大谷翔平の親は『大谷翔平の育て方』を語らないのか』という問題提起をしていた。これは大変興味深い視点。将棋の世界で7冠を誇る藤井聡太氏の親御さんも、本や講演の依頼が多いだろうに、語ったことはない。なぜ講演依頼を引き受けないのか?受ければ年億単位の収入となるだろうに。 恐らく、「私達が育てたんじゃなくて、あの子が育ったんだ、自分たち以外の皆さんが育ててくださったんだ」という思いをお持ちだからではないか。そういう思いがしっかりしてるから、語る気にならないのではないか。もし語ったら、その途端、全てが崩れ去る気がするのかも。 私は部下育成の本を書かせてもらったけど、当初、全然筆が進まなかった。自分がどう育てたか、みたいな自慢をするのはなんか変だと思ったし、私の力で育つものではない、と強く感じたからだ。筆が進みだしたのは「私を育ててくれた人のことを書こう」と思った時からだった。その時、気
言語化は「言葉を操る」とは違う。言葉を巧みに操ることは、言語化から最も遠い姿だと思う。言葉に言葉を重ねたら、自分の感覚から遠ざかってしまう。言語化は、自分の感覚に肉薄することであって、言葉を連ねることとは違うように思う。 だから、言語化は、言葉巧みな人よりも言葉の拙い人のほうが最も近いところにいるように思う。自分の感覚を言葉にできず、もどかしい思いをしているなら、それは最も言語化に近い状態。言語化は、自分の感覚に肉薄しようと四苦八苦して言葉を紡ぐことなのかな、と思う。 言語化のもう一つのコツは、人に伝わるかどうかを指標にしないこと。人に伝わることを指標にすると、どうしても常識的な言葉を選ぶことになり、自分の感覚から離れてしまう。言葉の選択も制限されてしまう。自分の感覚により近づけた、と、自分でしっくりくることを大切にすること。人を指標にしない。 自分がしっくりするなら、その分野では使われな
辻󠄀由起子さんからシェアの許可を頂きました。 読んだあと、開いた口が塞がりませんでした。 国の方、どうにかして下さい。 ・・・・・ 貧困の連鎖は、国がつくっている。 【政府より、電力・ガス・食料品などの価格高騰対策として、住民税非課税世帯を対象に1世帯あたり3万円を給付する基本的な方針が示されました】 知ってました? 引っ越しを数回したら、マイナンバーカードを行政に取り上げられる…というコントみたいなルールがあることを🤣 カードの記載欄が、住所変更でいっぱいになるから…が、理由ですって(笑) マイナンバーの存在意義って…?(笑) 取り上げられた後、自ら、再発行の手続きが必要です。事務処理は2か月半。 https://www.city.kita.tokyo.jp/mynumber/kumin/card04.html?fbclid=IwAR2VwdwKSqkHMZb9nI1e-RBe5-p
(ずいぶんと堅苦しい名前だけれど)社会構成主義の考え方、結構面白い。 アメリカでは中絶問題で世論が真っ二つに割れている。賛成派と反対派で議論すると、互いに相手の主張のおかしいところを攻撃し、自分の主張の正しさを訴える。話は平行線に終わり、関係性は断絶したまま。ところが。 リクツを戦わせるのをやめ、なぜ自分が中絶に反対するようになったのか、あるいは賛成するようになったのか、そのきっかけとなった個人的体験を語ってもらったところ、お互いに「ああ、そういう体験があると、そういう意見になるのは当然だよな」と理解と融和が進んだという。 この現象は興味深い。リクツというのは一見論理的で、論理的だからこそ普遍的なものだという思い込みがある。その普遍的なリクツから言えば相手の意見は非常におかしく矛盾に満ちていて、自分の理論こそ正しい、としか思えない。しかし相手は相手で同じことを考えている。ここに断絶が生じて
子どもが興味関心を失う大きな原因に「先回り」があるらしい。 自分が子どもの頃、大好きだった図鑑があって、「これ、お父さんが大好きでよく読んでいたんだ」というと、一つも読もうとしなかった。 ところが知人がくれた図鑑は擦り切れるほどに何度も読んで、私にその知識を披露してくれた。 私の勧めた図鑑を手にとろうとしなかったのは、私がその図鑑の内容について詳しいからだろう。ということは、その図鑑から知識を仕入れて親に披露しても、親は「ああ、知ってる知ってる」という反応しかしないだろう、それどころか追加の知識も披露して自慢するだろう、と嫌気がさしたのかも。 「名探偵コナン」が大好きな息子。そこにたびたび三国志エピソードが挟まるのに興味をもち、「三国志読んでみたい」と言い出した。三国志好きな私はそれで嬉しくなってしまい、熱く語ってしまった。そこから息子はマンガ三国志を読まなくなってしまった。私が詳しいこと
「しょせん他人事ですから」って漫画で、子どもがしでかしたことに親子で謝りに行くシーンがある。けれど子どもは芯からは反省しておらず、親にも真実を告げておらず、のらりくらりな態度。被害者は許せないと激昂。事態の深刻さにようやく気がついた父親が土下座し、「申し訳ありませんでした!」 事態が飲み込めず、どこかキョトンとした息子。父親と一緒に風呂に入り、父親がみっともなく土下座してる様子を思い出し。そこまでしてくれた父親が「同じ失敗を繰り返す本当のバカにだけはなるなよ」とだけ息子に笑顔で。そこで初めて、なんてことをしたんだと強く後悔の念が襲い、「ごめんなさい」。 「反省させると犯罪者になります」という本がある。ふつう、悪いことをしたり人に迷惑をかけたら謝罪させ、反省させようとする。ところが反省(心から悔い、被害者に済まないという思いを抱くこと)というのは、どうも人間心理としてはそれでは起きにくいらし
遺伝子で才能の大半が決まる、という考えは根強い。遺伝子は重要だとは思う。けれど、あくまで「環境と遺伝子」のバランスで決まるものだと思う。 私はある酵素を大腸菌に大量に作らせようと、遺伝子を導入したことがある(大量発現系)。その実験はうまくいった。酵素を大量に作り出した。しかし。 その遺伝子組換え大腸菌を培養し続けると、酵素を作る量がどんどん減り、ついには作ってるのかどうか分からなくなった。遺伝子が強力に働くよう薬剤(IPTG)を加えてもダメだった。その酵素を作ることが大腸菌にとって何の役にも立たないから、作らずに済むシステムが動き始めたのだろう。 その実験とは別に、クオルモンという物質を分解できる菌を探す実験を行った。すると、様々な菌がクオルモンを分解する酵素(エステラーゼ)を作るように。菌によって強弱はあるけれど、エサがクオルモンしかない(単一炭素源)状況に置くと、そうした「才能」が否応
塾を主宰していた10年間、私は「教え魔」だった。私は非常に物分りが悪く、中学までは成績も悪かったので、勉強のできない子でも理解できるよう分かりやすく教える自信があった。実際、私が説明すると「よく分かった!何で今まで、こういう教え方してもらえなかったんだろう」と、生徒は感動した。 で、その場ではできるんだけど。翌日になるときれいサッパリ忘れてる。「昨日教えたろ?分かったって感動してたろ?」と聞くと、「分かったと思って感動したのは覚えてる」というが、肝腎の学習内容がものの見事に残っていない。仕方なく、もう一度教えると「あ、これね!分かった分かった」 ところがさらにその翌日になると忘れてる。これでは次に進めない。学習が積み上げられないので頭を抱えていた。 そんなとき、母校へ教育実習に。授業で熱化学方程式を教えることに。しかし私は指導案も作らず(ひどい)、ぶっつけ本番で臨んだ。すると、答えが合わな
私が「驚く」ようになったのは、ある学生との出会いがきっかけだった。その学生はすでに2回も卒業の機会を逃していた。卒論の時期になると大学に来なくなるから。 その学生は、何を問いかけても気のない返事。「はあ」「わかりません」意欲や能動性というものが一切欠如していた。 それまでの指導教官によると、あまりにも無気力なので仕方なく、あれをやれ、これをやれと指示を出すのだけど指示以下のことしかできず、しかも来なくなるのでお手上げだったという。私は、能動性、意欲を取り戻さないと話にならないと思い、まずはそれらを取り戻すことから始めることにした。 とある実験結果を示し、「これ、何か気づいたことある?」と尋ねた。「わかりません」という無気力な返事。しかしそれは織り込み済みなので「うん、僕もわからない。何しろ僕も初めて目にする結果だから。分からない者同士、気づいたことをともかく列挙してみよう。ここはどうなって
私は経済学に関してはかなりヘンテコな考え方をしていて、非常に共感されにくいのだけど、ケインズ、ソディ、ゲゼルの3人を組み合わせた考え方がいいじゃないか、と考えている。ケインズは別として、ソディとゲゼルは聞いたことがない、という人が多いと思う。 ソディはノーベル化学賞を受賞した化学者。その後、ソディは経済学に興味を持ったのだけれど、当時としてはあまりに奇抜過ぎる理論だったので変人扱い。でも、さすが化学者らしく、エネルギーの視点から経済を見直すという興味深い着眼点。 この世に存在するものは全て壊れていく。エネルギーは使ってしまえばなくなってしまう。なのに、一つだけ壊れもせず、それどころかどんどん増殖するものがある。お金。お金は信用創造などでどんどん増殖してしまう。この世のものはすべて壊れ、失われていくのに。 お金を支払えばいろんな商品を購入することができ、エネルギーを消費することもできる素晴ら
私は15歳の頃から新聞の科学の欄を収集している。読売、毎日、産経も試してみたが、朝日新聞が科学の欄は一番充実していたので、基本、朝日。二十歳頃から日本経済新聞の科学の欄も収集するように。収集歴は三十七年になる。その歴史を通覧してみる。 朝日の科学の欄は、昔、ミチミチに新しい発見が掲載されていた。しかし小泉政権が終わる頃からか、内容がどんどん貧弱に。収集するに値しない内容に劣化したことがあり、朝日新聞にメール送って文句言ったことが2回。当時で二十年も収集してる読者の意見は重みもあったのか、まもなくマシになった。 しかし、日本経済新聞の科学の欄を見ていても、小泉政権が終わる頃から面白い発見が減少していく様子が看て取れた。大学や企業からの新技術に関するプレスリリースや学会発表が減っていることが推察された。 今は朝日も日経も、特定のテーマを掘り下げた記事で科学の欄を大きく埋めるスタイルが増えた。以
「学習には強制が必要」という話を見かけた。そういえばEテレの番組で、子どもが楽しそうに学んでいると勉強しているように見えない、つらそうに取り組んでないと勉強しているとは思えない、という母親が登場していて、ははあ、そういう感覚もあるのだなあ、と驚いたことがある。 しかし、五十歳を超えた今になっても、強制はキライ。強制されたことは記憶から拭い去りたくなる。なんなら別のアプローチで学び直して、強制された記憶を上書きしたくなるくらい。私が指導してきた子どもたちも、強制は大嫌い。 「泣いて馬謖を斬る」という故事がある。孔明が「山の上に陣を築いてはならない」と口酸っぱく注意したのに馬謖は山の上に陣を築いてしまい、大敗の原因となり、その罪で馬謖を切らざるを得なかった故事から来ている。 ではなぜ馬謖は言うことを聞かなかったのか。 孔明から強制されたから。 孔明から注意を受けたことで、馬謖はアマノジャクな気
私は競争原理に批判的。トップの人間以外の、大半の人間の意欲を削ぎ、劣等感を与えて無気力に導くことがほとんどで、集団としての活力はむしろ奪われるから。 ただ、人間には競争心があるのも確か。そこで私は「負ける」ことにより意欲を刺激する、ということはよくやっている。 今年は息子にとって初めての大峯山。私も小学5年生で初めて登った。その時のリュックの重さは4キロ。息子は少し負荷をかけて5.5キロ。「お父さんを超える!」と意気込んで登った。 初日こそ加減が分からず、緊張もあってヘバったようだが、二日目以降は弾むように登っていった。三日目は走っていた。 かたや私は、23キロの大荷物を担いでいるとはいえ、登りはヒイヒイ、下りはイテーイテーと言いながら、苦心惨憺して登り降り。その様子を見て、息子は自分の体力に自信を持ったようだ。下山後も走り回っていた。父親よりも体力が勝る部分がある!という自信がついたのだ
女性宇宙飛行士となった山崎さんの夫の手記を読んだことがある。山崎さんが宇宙飛行士になれるよう、専業主夫になったけど、自分の名前を呼んでもらえず、「山崎さんのダンナさん」「○○ちゃん(娘)のお父さん」としか呼んでもらえなくなったという。すると。 精神的に非常に不安定になったという。それまでは自分も会社に所属して、どこの部署の何々さん、と、自分の「座標」を確認でき、人とのつながりも直接的に感じることができたのに、妻と娘を通じてしか社会とつながれず、自分の座標を見失い、宇宙空間に放り出されたような不安な感覚になったという。 家族がいてもそれだけ不安定化するのに、もし独り身だったとしたら。誰でも不安定になって不思議ではない。まだ働いているうちは会社の中で自分の座標を確認できる。しかし定年退職し、社会とのつながりを失うと、自分の座標を確認することは非常に困難になるだろう。 孤独な高齢者が増えている。
年配男性に比較的よく見られるように思う「呪い」。他人と向き合う際、「へりくだる」と「なめられるまい」のニ種類しかないように思い込んでる人を見かけることがある。だいたいそういう方は、仕事人間で来たご様子。 会社で営業していれば、お客さんに気持ちよく過ごしてもらうために「へりくだる」必要があるのはご存知の様子。これを続けていればお客さんとは良好な関係を続けられる。ただしこの関係は、相手を上位に置き、自分を下位に置く関係だから、そんな人間関係ばかりだとつらくなるらしい。 で、「なめられるまい」という気持ちがもたげて、「オレはこんなビッグな仕事をしてきたんだ」と自慢を続けるようになってしまう。こんな態度をされた側は、「へりくだる」か、うっとうしい人だと敬遠するかを余儀なくされる。このため、人が遠ざかりがち。 「へりくだる」では面白くないから「なめられるまい」をする。しかし「なめられるまい」は、相手
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