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中東情勢
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大槌町大槌 木村辰喜さん 65歳 昼食を食べた後の午後1時半ごろ、弟と小舟で海藻のまつもを取りに行きました。べた凪で、暖かい日。船着き場に行く途中、下水の排水溝の近くに、季節でもないのに真っ黒な小さなボラの大群が見えました。「おい兄貴、季節でもないのに、なんでボラがいんだべなあ」。そう弟に聞かれましたが、理由はわかりませんでした。船を泊めている安渡(あんど)地区は、カモメや「安渡ガラス」と言われるカラスで有名です。あの日はボラが水面近くに多くいるにもかかわらず、カラスもカモメもいませんでした。 木村さんが小舟から漁船に乗り換えた安渡の港近く。漁具を置いていた番小屋は津波で流され、今はがれきを運び出すダンプカーが頻繁に行き交う。 干潮は午後2時ごろ。安渡の港から船外機付きの小舟で、大槌湾の入り口近くにある「松島」と呼ばれる岩場に行きました。全長4メートルほどの船でした。最初の場所から移動して
未来のために今日を記録する
大槌を、ベンチャー精神にあふれたITの拠点、米国・シリコンバレーのような存在にしたい ̄。大槌町と関西大学(大阪)が連携して生まれた、スマートフォンなど向けのアプリケーションを開発する一般社団法人「KAI(カイ)-OTSUCHI」(大槌町大ケ口)のディレクター、三浦理恵子さん(26)。盛岡での仕事を3月末に辞め、5月に大槌にUターンする。被災地「だから」任されるのではなく、大槌「じゃなきゃ」できない仕事を全国から引っ張ってくる船頭役になろう、と心を決めた。 三浦さんを取材したのは、まだ桜のつぼみが固い3月末。大槌の町を高台から見渡せる公民館で、三浦さんは「この1年足らずの間に、縁が縁を呼んで、すごいスピードで人生が動いています」と笑っていた。雄弁なタイプではない。一つひとつ、言葉を真摯に選んで質問に答えてくれる姿が、印象的だった。 携帯端末向けのアプリの開発を大槌に呼び込もうと昨年8月に設立
ガードレール越しに、破壊された街を見つめる男性。無言のうちにすべてを物語っているようなその背中。この写真は、東日本大震災発生の翌日に、一人の大槌町の住民が撮影したものだ。 伊藤陽子さん(62)。津波で家族と自宅を失いながらも、震災直後からほぼ毎日、大槌をカメラで記録し続けている。2012年5月、1年間で撮りためた約660点を写真集「がんばっぺし大槌」として自費出版。水浸しの街に煙と炎が立ち込める様子や、押し寄せたがれきの山など、報道機関さえほとんど被災地入りできていなかった当時の生々しい様子が時系列で掲載されている。 2011年3月11日、伊藤さんは所用で宮古市に向かっていた。到着とほぼ同時に大きな揺れ。盛岡市方面に避難しようとひたすら車を走らせたが、ラジオが盛岡の被害を伝え始めていた。急きょ引き返し、遠野経由で大槌に向かった。真っ暗な山道を抜け、辿り着いたのは12日午前3時ごろ。津波で流
自分が生きていることも不思議だし、死ぬってことは本当に身近だよ 配信=2013/03/04 記事=斉藤 明成写真=斉藤 明成 / 松本 裕樹 Tweet 大槌町大ケ口 小松則明 53歳 町議をしているのですが、その日は午前中に町議会で予算委員長を決め、午後は休会でした。仕事(建設会社)も忙しくなかったので家の居間でお母ちゃん=妻・志知子さん(当時51)=と横になってテレビを見たり、うたた寝をしていました。高校2年の次女=彬乃(あきの)さん(当時17)=も春休みで、クラブ活動(美術部)も休みで家にいました。今までに体験したことのない揺れで私はテレビ、妻は食器棚を押さえました。次女も2階から降りてきました。 私は消防団員でもあるので、水門を閉めに行きました。(水門を閉める)基準は確立されていませんでした。金﨑拓也(建設会社の専務)と2人で最初に向かったのが大槌町漁協大槌支所脇の水門です。だけど
大槌町大槌 佐々木嘉一 42歳 店に顔を出してから、家に戻ったんですよ。ちょっとお酒好きだったもんで、いろんな洋酒とか集めていたもんだから心配で。水が入ってきて、慌てて出ようとしたら車も流されて。 自分は車で外回りをしていて、妻は店(クリーニング店)にいたんです。安渡(地区)から町に向かって別のお客さん回ろうとしたときにすごい揺れだったので、一回(店に)戻ろうと。2~3分で着く距離だったんだけどすごい渋滞だった。店に顔を出してから、家に戻ったんですよ。 うちはショッピングセンター(マスト)にも店を出している。俺は自宅に戻るから、かみさんとおふくろは、店の近くのふれあいセンターに逃げろといったんですよ。2人は、ショッピングセンターの店が心配だから車に乗って行こうとしてたんですよ。国道に出ようとしたら、知らない人が「ダメだよ(渋滞で)」とストップしたんですよ。行かれないからやめろといわれて、渋
応援派遣確保に懸命 大震災で多くの職員を失った大槌町役場。その応援のため、兵庫から派遣されていた男性職員が正月、宿舎で自ら命を絶った。男性職員は復興事業の「最前線」に配属され、残業も長時間に及んだ。自殺の直接的原因は調査中とされているが、その背景に深刻な職員不足があったことは否めない。今年は復興事業が目に見える形で進むスケジュールとなっているが、十分な職員体制を確立できなければ、ずれ込む懸念もある。町は「心の健康」(メンタルヘルス)対策に万全を期す姿勢を示しながら、復興事業の頼みの綱となっている応援職員の確保に懸命だ。 自殺職員残業80時間超 昨年10月から半年の任期で町都市整備課区画整理班に単身派遣されていた兵庫県宝塚市の技術系男性職員(45)が1月3日朝、宿舎として使っていた宮古市の仮設住宅で自殺した。室内には「皆様ありがとうございました 大槌はすばらしい町です 大槌がんばれ!!」と書
流された人が笑顔で手を振っていた「ニコーっと笑って、お前もか、って」 配信=2013/02/07 記事=耳塚 佳代 Tweet 大槌町本町 臼澤良一 64歳 当日は自宅にいたんですよ。事業の報告書を書いていたんです。あとはファイルに綴じるだけだったので、るんるん気分でインデックスを付けていた。そうしたら、とんでもない大きな揺れ。一度も経験したことがない、本当に恐ろしい揺れ。うちが潰されるんじゃないか、死んでしまうんじゃないかという。プリンタやパソコン、本棚とかレコードとか、ぜーんぶ(崩れてきた)。前にも進めない。早く止まってくれないかと思っていたが、本当に長いんですね。 やっと揺れが終わって、そしたらうちの妻が「お父さん津波だから逃げよう」って、1階から声が掛かった。テレビも電気も全部付かない。ラジオのスイッチ入れて聞いたら、3メートルの津波だと。親父の代からあそこに住んでいたけど、ここま
(2013/08/27)大槌町赤浜 阿部イチさん 82歳 おれの家は水門のそばだったんだ。家の戸を開ければ道路で、その外は海なんだ。そんなところにいたから、いつか流されるとは思ったさ。...
津波のことは、不思議と思いもしなかった 配信=2013/01/31 記事=田淵 浩平写真=倉田 匠 / 田淵 浩平 Tweet 大槌町赤浜 黒沢有香里 53歳 「大きな地震があったり、海の水が引いたら、逃げっぺし」って、子どもの頃から言われていたのに、津波のことは、不思議と思いもしなかった。今思えば、揺れの大きさで頭はパニックになってただろうし、津波に慣れていたんだろうね。これまでは、津波が来ることはあっても、高さは数センチとか数十センチで、沖の牡蠣棚がくるくる回ったのを聞くぐらいだったから。 震災発生時は、勤務先の大槌病院の1階にいたの。患者さんの処方箋を、調剤薬局にファクスする仕事でね。院内を歩いていたら、突然揺れたの。普段は動かすのに苦労する机が、飛んで歩いていたんだもん。とっさに頭の上にあるテレビを倒れないようにおさえていた。揺れが大きいから、薬局の先生が「何してる。そんなのはいい
大槌町安渡 越田ミサ 74歳 津波で逃げるときは、人に声を掛けては、ダメだと。ついつい、立ち話になってしまうから。とにかく一目散に避難して、そして、1回避難したら、絶対に帰ってこない(ようにしろ)と。常々、言われてきた。言い伝えがあった。 流された自宅の跡に立つ越田さん。花壇で薔薇などの花をたくさん育てていたという 3月11日は、8人家族のうち、5人の女が全員、家にいたんですよ。「あ、これはただごとの地震じゃない」と思った。孫が2階にいたから、柱につかまりながら「なんで早ぐ降りてこないのよ-」って(孫の)名前を呼んだの。孫は「たんすとか、物が転んで、なんぼ叫ばれても降りて来れなかった」って。その後、降りて来たから「よし、ばあちゃんは年寄りで走れないから、もう避難するからね」って言って、すぐに出たんですよ。 津波は、新幹線並みの早さ。避難している途中に、黒い渦がうわーって目の前通ったの。それ
この笑顔に、何度、励まされただろう。老舗の小川旅館の女将・小川京子さん(51)は、自宅玄関に飾ってある写真を見つめる。そこには、人気グループ「嵐」のメンバー松潤こと松本潤さんの笑顔。東日本大震災で全壊した小川旅館。一度は「死にたい」とまで思った京子さんだが、嵐と松潤を支えに、12月3日、小川旅館「絆館」として再開した。 建設中の絆館の前で夫の勝己さんと並ぶ京子さん 小川旅館の歴史は、幕末までさかのぼる。京子さんが旅館を継いだのは、昭和56年、20歳の春。父親が倒れたことがきっかけで、関東地方で就職も決まっていたが、思いがけずUターンすることになった。「それからの3年間は記憶がないんです」。あまりにも無我夢中で、いつ寝ていつ起きて何をしていたのか、ほとんど覚えていないという。 大切にしていたのは「お客様第一」の精神。宿泊客が仕事で遅くなれば、帰りを待って食事をふるまった。午前4時に出発する釣
全てが流され、草むらとなってしまった荒野から、新しい花の芽が出るようなものなのかもしれない。その芽がちょっとでも大きくなるように、集まった人たちが水を注いでくれる。大槌町の吉里吉里地区に住む高校1年の釜石望鈴(みすず)さん(15)は、中学生時代は人と接することが苦手で、家からもあまり出なかった。だが、東日本大震災発生後、「何かを残したい」と変わり果てた風景の撮影を開始。写真を通じて新たな出会いが生まれ、フォトジャーナリスト・安田菜津紀さんのカンボジアツアーにも参加した。外の世界に触れることで、改めて地元大槌の復興への思いを強くした。 ともにカンボジアを旅したフォトジャーナリストの安田菜津紀さんが大槌町で撮影した釜石さん (C) Natsuki Yasuda / studio AFTERMODE きっかけは、震災直後にたまたま見つけたフィルム式の一眼レフカメラだった。津波で被災した母の実家の
漁船・漁港復旧は着々 東日本大震災による津波と火災は、大槌の基幹産業である水産業にも大きな損害をもたらし、漁港や漁業・加工関連施設は壊滅し、漁船や漁網が流失した。震災発生から1年半あまり、新たな漁船は再起を期す漁師の元に行き渡りつつあり、漁港施設の復旧も進む。しかし、漁協の再興や担い手の育成、加工業の働き手確保など乗り越えなければならない課題も多い。大槌復興には産業の回復が欠かせない。第2回は基幹産業の水産業を取り上げる。 大震災で沈下し波をかぶる安渡地域の船揚げ場周辺。漁船の退避所として早期復旧を望む声が強い。左手に震災がれきの山=大槌漁港 漁港関連施設被害275億円 町災害対策本部(今年8月6日廃止)が昨年11月末現在でまとめた被害状況によると、水産業の被害は水産施設、漁船、養殖施設などで約51億2800万円。町農林水産課などによると、漁船はその大部分の672隻が流失破損し、漁協の定置
自宅の和室にチョコンと正座した姿があまりにも可愛らしかったので、思わず聞いてしまった。「アイドルになるつもりはないの」。「ええっ、私は歌でやっていきたいです」。恥ずかしそうに語る民謡歌手・臼澤みさきさん(13)は7月25日に「故郷〜Blue Sky Homeland〜」(テイチク)でCDデビューを果たした。この小さな女の子が、大槌から全国へ歌声を届けている。 ふとしたことがきっかけだった。小3のころ、自宅近くにある「臼澤鹿子踊保存会館伝承館」の東梅英夫会長から、「アニメソングを歌っているから来てみない」と誘われた。実際に練習していたのはアニメソングではなく、民謡だったが、その雰囲気の良さが気に入って、習い始めることにした。ぐんぐんと上達して、2010年には青少年みんよう全国大会でグランプリを受賞するまでに至った。「それぞれの曲に背景があるのが民謡の楽しいところです」と笑顔を見せる。 状況が
大槌町小鎚 祝田チエ子 69歳 防災無線は聞こえなかったんですよ。突然、誰かが「津波が来るぞ」と叫んだので、大きい道に逃げようとしたけれど、近くの川からあふれた水がチョロチョロと流れて来て、移動することができなくなったんです。だから、夫と一緒に近所の空き地のブロックの塀にしがみついたの。高台もなかったので「ここまで水が来たら終わりだな」と思ったね。不思議と怖いとか感じなかったなあ。あきらめの気持ちになってたみたい。 祝田さんがつかまっていたブロック塀の跡が今も残っている。流された時と同じリュックを背負いながら、当時を振り返る。 地震が起きたのは、病院に行って、夫と一緒に車で家に返る途中の橋の上だったの。「橋が崩れ落ちる。危ない」って思ったんです。道路がうねっていたので、「父さん早く車を止めて」と叫んだのよ。この後、信号が黄色に変わってしまったけど、しばらくしたら青になったので、車を走らせて
震災前に撮った映像と被災後の風景を合わせ、被災した大槌町を描いたドキュメンタリー映画「槌音」。町出身の映画作家、大久保愉伊さんが制作した。実家の被災後、震災後2週間の町に駆けつけた大久保さんはカメラを持って行かなかった。作品中の現地映像はスマートフォン「ギャラクシーS」で撮られたものだ。 「槌音」は国内外の映画祭に出展され大きな反響を呼んだが、大久保さんは、震災から1年半を経たいまも「まだ大槌の人には見せたくない」という。 ビデオカメラを入れた大きなバッグを肩にかけて現れた大久保さんは26歳。「愉伊」という名前には「愉快に人や世の中を治める」という意味が込められているという。実家は津波で破壊された大槌町の中心部。父は和楽器を奏で、母はピアノ教師という音楽好きの一家。ビデオ好きの少年が、家にあったビデオカメラで撮り始めたのは「小学校高学年くらいですかね」。 釜石南高校(現・釜石高校)に進んだ
大槌町小鎚 山陰洋子 59歳 どこからか「ひゅんひゅん」という緊急地震速報の音が聞こえて、すぐに大きな揺れが来たんです。思わず立ち上がって後ろを振り向いて、書棚を手で押さえました。窓から外を見ると、止まってる車がずずずって動いていて。揺れがおさまったら電気はぶちんと消えました。 須賀町にあった大槌町シルバー人材センターでちょうど決算データを入力してました。母親が80越えて家に1人でいるから、大丈夫か分からなくて、栄町にある自宅までは自転車で2、3分ほどの距離だから「ちょっとうちの様子見に行きます」と大声で言ってね、戻ったんです。 流れた自宅跡は草が生い茂り、土台部分は近づかないとほとんどわからない。付近は津波にのまれ、一面が海のようになっていたという。後ろに見えるのが水門。 家に戻ると、家具は転んだりは一切なかったけど、書棚の本が落ちたりして、おばあちゃんは1階のリビングのソファで座ってま
大槌町小鎚 阿部利和 53歳 「大きな津波が来ます。逃げてください」って町の防災無線から男性の声が聞こえた。聞いてねーって人もいるけど、俺には聞こえたの。その2、3分後に来た。どすーんて、電柱が倒れるような音がしたわけ。どーすんて。で、ベランダあけたら、目の前ががれきの山だよね。家とか物の渦っていうか物体の押し寄せる力が… びっくりした。もうあけたらきてた。あっという間に飲み込まれた。 被災当時は、地元の工場に勤めてた。家から車で5分ぐらいの距離で、普通の地震でながったから、すぐに会社を飛び出して。母親が足腰が悪い、寝たきりじゃないけど、気になって、すぐに家にかけつけた状態。5分ぐらい後に、パートに出てた家内も帰ってきて。 普段の地震でないから避難が必要だけど、母親が足腰が弱くて。身支度して、動きが遅いんで、本人に合わせてた。ゆっくりペースで。そのとき、正直半分はここまではこないだろう。そ
大槌町小槌 鬼原愛子 26歳 前の日に、デジャビュっていうんですか。「大きい地震がくる」って親に言ってたんですよ。「荷物まとめておいて」って、荷物まとめたんですね。結構当たるので。 その日は、ちょうど仕事が休みで、3番目の(子どもの)予防接種だったので、3番目だけ保育園休ませて家にいて、予防接種終わって帰ってきたときでした。あーやっぱ何もなかったんだーって言って、その荷物をほどいたんですよ。30分くらいしてから来た。 鬼原さんは、18歳で結婚。両親と、夫、3人の子どもと実家で暮らしていた。 準備はしてたんですけど。ちっちゃい頃から、海が目の前だったので、親が津波の度に逃げる、避難してたんですよ。お父さんは、チリ津波に遭ったので。同じ場所で。なんか、全部流された、みたいな感じらしいです。お父さん口数あんまり少ないから。お母さんが心配性なので、繰り返し言われていた。 ちっちゃいころはもうずーっ
大槌町小槌 高橋勝子 67歳 3月11日は、2時40何分でしょ。いつもねえ、午後からは暇になるので、2時以降は、用事があれば自分なりにいつやめてもいいって感じにしてるからさ。ちょうど、それこそ、一緒に逃げて、まだ見つかんないけど、友達が2時半ごろ来たのね。あーおなかすいたって。その人とはずっと、私が嫁にきて以来、仲良くしてもらってね、お世話になっていた人。2つ上の看護師さん。で、私もそばつくって、一口食べたか食べないうちに、地震が来た。店には4人。地震で、身動きできないでしょ、あの地震の強さでね。すごいのね。 高橋さんは、役場近くの大槌町大町で「立喰そば45号線」を開業していた。昨年12月、大槌町小槌の仮設商店街「わらびっこ商店街」で「立喰そば大槌」として再開。 少し揺れおさまってからそれぞれみんな帰ったけど、私はすぐにとはいかないし、あんなの(津波)来ると思わないから、戸締まりをしてガス
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