サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
掃除・片付け
qana.hatenablog.com
あることに誘われたけどちょっと気乗りがしなくて、その日は大事な予定があると嘘をついて逃れる。嘘をついたから、その日はうっかりインスタに矛盾する内容を投稿するわけにはいかない。他の人に週末の予定を話すときも、嘘をついた相手につながる可能性があるかを考えて慎重に答えないといけない。むしろ実際に大事な予定を作った方が楽な気がしてくる。 嘘は約束とほとんど同じものだと思う。噓がばれないようにするのと、約束を果たすのと、どちらも同じように責任を負うし、失敗すれば信頼を失う。どちらも、世界のあり方へコミットする行為だ。嘘は虚構へのコミット。約束は事実へのコミット。実はたいして変わらない。 むやみに嘘をついてはいけないし、同様にむやみに約束をしてはいけない。すればするほど、自由を失うから。逆に言えば、嘘を絶対につかないというのは、世界の現れ方に対する責任を一切拒否することだ。意思がなく、貫く筋もなく、勝
あるときこんな問いに出くわしました。「あなたが本当に素直に頼ったり相談できる人は何人いますか」見当もつかない。周りに人はいるけれど、本当に頼れるのでしょうか。 あるいは、ある人を形容するときに「友達」と呼ぶか「知り合い」と呼ぶかで迷います。向こうはどう思っているのかな。 だれかが自分のことを第三者に紹介するとき「この人は親友」みたいに言う。そうなのかな、と胸の中で思う。悪い気はしないけれども。 ……これらはいずれも、ある弱さの表出なのだと思います。拒絶されて傷つきたくない心の弱さ。他者との関係を自分の意思で決めようとする勇気の欠如。 人と人の関係性は、先にどこかに規定されている正解を発見するものではありません。そうではなくて、相互に築くものなのです。例えるなら池に浮かぶ二艘の舟。その動きは常に相対的で、相手も動くし、自分も動くことができる。そしてどの程度の距離にするかにはお互いに責任がある
このごろ、残滓のような交友関係にはまり込んでいることに気づく。かつて身をおいた場所で付き合いのあった人たちとの関係を維持することを怠っていた。だからいまさら連絡してくるのは、人望のない人間、他に友達のいない人間、give&takeというよりはtake&takeの人間、そういった他者に見放された人たち。人間関係に受動的・消極的になると、付き合いのある人たちが絞られていき、職場などで好むとも好まざるとも日々顔を合わせる人たちを除けば、こうやってある種の下心から他人を利用しようとする人たちばかりになる。だから嫌な思いをしてなおさら人付き合いを倦むようになり、新しい仲間を見つけることに億劫になり、人嫌いの螺旋階段を駆け下りる。暗くて窮屈な世界は閉塞していき、自ら作り出した呪いのなかに墜ちていく。 そんなおりに出会ったある人は、まったく違った生き方をしていた。熱中しているものについて目を輝かせて語り
「庭の木を剪定する時季は、冬の早いうちでないといけない。そうじゃないと、春に出てくる新芽まで切り落としてしまうことになるから」そんな言葉が記憶に残っている。 自己について内省を巡らすことも、これと似ていると思う。それは混沌として、散らばって、はっきりした形を取らない自己を再構成する作業。輪郭を作り、形を積み上げていく過程。あなたがそうやって自身に形を与えるとき、整合性のあるナラティブをあなたの人生に与え、それを延長することで未来を志向しようとするとき、あなたがいままさに芽生えさせている新芽は失われてしまう。新芽は形がととのっていない部分だから。 人生を生きていくうちに、さまざまな転換や変容の機会が偶発的に訪れる。それはあなたの内側で生じたノイズ、気の迷いが具現化したものであることもあるし、あるいは外部からやってくるチャンスであることもある。いずれにせよ、そういう雑多なもの、取るに足らない小
感謝されることに気をつけなさい。それはあなたがあなた自身の人生ではなく、他人の人生を生きた印だから。 感謝されるのは、危険なことだ。だれかのために時間を使って、いたく感謝されて、それで他のことはたいしてしないままで日が暮れて、ああいい一日だったなと心地よい疲労感に浸る。なんとなく、それでいいような気がしてしまう。うん、今日は有意義な一日だった。よかったよかった。 「でも、本当にそうだろうか?」 人に感謝されたら、必ずそう問い直すように気をつけなさい。あなたが助けたその人は、今日その人の生きるべき人生を生きた。あなたは、その人に負けないくらいあなたの人生を生きただろうか。その人助けは、あなたの人生にどういう意味を持つだろうか? その経験は、あなたの将来の糧になるだろうか? あなたは、あなたの時間を安売りしていないか? もちろん、人のために何かをすることを否定するわけではない。困ったときはお互
人生というものは、大海原を自由に航海し、大樹海を泳ぎ、大草原を駆けることだと思っていた。無限に冒険が広がっているのだと思っていた。 そういうふうにして人生を送っている人もいないことはない。だけど、ほとんどの人はそんな人生からは程遠い。わたしたちのほとんどにとって、人生とはできあいのテーマパークの順路をめぐるようなものだ。忘れられない出来事があり、運命的な出会いがあり、涙を流す悲しみがある。でもそういうものがすべて、色褪せて見える。ぜんぶ、仕組まれて、作られたものでしかない。 人生の順路を歩いているうちは美しく見えるかもしれない。だけど、見える景色すべてまがいもので、薄っぺらい板に描かれた虚構でしかない。道を外れて歩くと、その舞台装置の裏側が露になる。 大人になって、就職して、結婚して、子どもを育てて。そういう順路を忠実にたどれば、美しい場面の思い出に彩られた、素敵な人生が送れるかもしれない
わたしはずっと、優しい人間になりたいと思ってきた。 だれかが困っているのに見捨てるなんてとんでもない。手を差し伸べられるようになりたかった。現実はそんなに簡単じゃなかった。気づけないことが多かった。でもそれ以上に多かったのは、気づいていたのに動けなかったこと。動けなくて後悔することを何回も繰り返した。 そしてまた、わたしは人を傷つけない人間になりたかった。悪いことをしてしまったら謝るのはもちろん、悪いことをしない人間になりたかった。傷つけることを言わない。傷つける行動をしない。だれかに涙を流させるほど悲しいことはないから。 そうして生きていくうちに、多少は人生経験を得た。他人とうまくいくことも、うまくいかないことも、いろいろと経験した。本も読んだし、ネットでもさまざまな情報に触れた。そうやって、どういう言動が不適切なのかを学んできて、人間関係の摩擦を減らすには役に立ってきた。「これを言った
10年近くも前から好きな人と、ずっと友人関係が続いている。別にひんぱんに会うわけでもないし、ひんぱんに連絡を取るわけでもない。会おうと思えば合える関係。でも距離があるから、たまにだけ。 知り合ってわりとすぐ好きになって、一方的に思い詰めた末にある日いきなり告白して、当然ひどく振られた。そのときのメールは受信ボックスがあふれて消えないよう、鍵をかけて保存してあったけど、スマートフォンに乗り換えるときに失くしてしまった。 そのあとも諦めていないことを半ば隠さず、数年かけて友人として関係を築いたのち、別れの春に再度の告白まがいのことをしようとしたけれど、うまいこと流されてしまった。 あのころはまだ人との接し方を何も知らなかった。すべてがひどく下手だった。今ならもっとうまくできるのに、と思っても無駄だよね。その時うまくできないと意味がない。人生、そんなことばっかり。いつも後追いで生きている。 あの
ネットの世界では「優しいのにモテない人間(たいてい男性)」が大きな存在を見せている。日本には限らず、"nice guys finish last"みたいなことを言うし、わりと広く見られる言説なのだろう。散々語られていることではあるが、あえて書いてみることにする。 誰にでも優しいから 優しいあなたは、たいがい誰にでも優しい。結論から言おう。あなたがモテないのは、そのせいだ。これはごく単純なインセンティブの論理から導かれる。 あなたは誰にでも優しい人間だ。無私の精神で、自分のことは後回し。しんどくてもそのことをおくびにも出さず、人を助ける。相手が嫌なやつであっても、人を分け隔てするのは非道徳的だと思っているから、求められれば助けてしまう。そもそも断れない性格だ。あるいは、そうやって人から頼られることに自分の存在意義を感じている。 だからあなたは不満に思っている。そんな聖人のようなあなたを差し置
このポストは、ここではない場所に投稿した文章をわずかに改変したものです。一つ付け加えると、こういう自分の過去や内面をひたすら掘り下げることは真似しないほうがいいです。すごく心が乱れます。そんなわけないじゃんって思ってやったら見事に乱れました。自分で書いている文章のはずなのに、逆に圧倒されてしまうのです。この文章はもともと少し前に書いたものでもう大丈夫なのですが、ブログ用に改めて編集しているだけでも吸い込まれそうになるので、表現の修正とか文脈の補足とかはこのあたりで打ち止めにします。くれぐれもお気をつけください。 以下本編 しばらく前に、生まれてから27年と4ヶ月と18日、つまり人生の一万日目を迎えました。それにあたって、私がどのようにここに至ったかについて振り返って書いてみたいと思います。読んでも何も足しにならない上にただの自分語り案件です。また、ほぼ全体にわたってひたすらネガティブなこと
強いものは魅力的だ。ライオンや恐竜のように。一方、弱いものにも不思議な魅力がある。特に、その弱さが相手と共有されるときの引力はとても強い。けれどその引力には吸い込まれないように気をつけなくてはいけない。 ネットには、弱さを看板にしている人たちがいる。弱さをプライドにしている人たちがいる。そうすることでアイデンティティを築くことができる。そうすることで人と繋がることができる。似たような弱さを持つ者同士は不思議なほど引き付け合う。弱みを開示することで、相手との距離を一気に詰めることができる。 ときにはそうすることも必要なのかもしれない。だけど、それは危険だ。弱さをアイデンティティにすると抜け出せなくなる。あなたの「弱さ」が、永遠にあなたの人生の支配者であり続けてしまう。 生きていると、人は変化していくものだ。そして自分の何らかの意味での「弱さ」が薄れていったとき、違和感を覚えることがある。とり
何もしなくても気を遣われてしまうことを自覚する。非対称な関係だから、遠慮すべきところは遠慮するようにする。たとえいやでも、向こうからそうは言いづらいのだから。勘違いしてはいけない。あなたと後輩との距離は、あなたが思うほど近くない。あなたは、あなたが思うよりも先輩だ。過去の記憶を思い出すのだ。そしてこの感覚の非対称性を理解するのだ。良い先輩になることは、とりもなおさず「自分の感覚は正しくないと自覚するプロセス」にほかならない。 後輩のメンツをつぶしてはいけない。後輩がさらに後輩に対して何かを教えている時、あるいは単に先輩風を吹かせている時、たとえ言っていることが間違っていたとしても否定しない。きみが優秀なら、きみの後輩も優秀なはずだ。たまに間違ったことを言ったとしても、おおむねよい指導をしている(なんたってきみの後輩なのだから!)はずだから。きみの責務は後輩の後輩を直接指導することではなく、
先日、ある先輩にひさしぶりに会う機会があった。その人はこれまでに私が出会ったことのある人の中で一番と言っていいくらい尊敬する人だ。だから素直に言うことにした、「とっても尊敬しています」と。きっと喜んでくれると思って――。 しばしの沈黙ののちに返ってきた言葉は予想とは異なるものだった。「尊敬してるとか言わないでほしい。さびしいから。」 ――尊敬されることは、孤独になることなのだ。遠ざけられることなのだ。異質な存在として扱われることなのだ。川の対岸にいる存在、最初から異なる生き物として生まれた存在、「私たち」の一員ではない人間。そうやって見られてしまうのだ。どんなに対等で、何も特別じゃないただの弱い人間として見てほしくても、それはかなわないのだ。尊敬とはそういう意味だ。 尊敬されることは、高い期待をもたれ、それを裏切れなくなることだ。尊敬されているゆえに自分の居場所があるのなら、尊敬に値しなく
ネットの言論に食いつくのはよしておこうと思っていたのですが、気になる話題が盛り上がっているようなので思わず反応してみます。 https://anond.hatelabo.jp/20171230111228anond.hatelabo.jp この考え方は理解できます。おおむねロジックは通っていて、ある程度は賛同したいところもあります。自分に引きつけて考えると、私自身あまり子どもを持ちたいとは思いません。そしてこの論への反論の主たるものである「社会の維持」という観点は、筋が通っていないと言わざるを得ません。もし個人レベルで反出生主義を受け入れつつ、社会的な面が課題となるだけなら、社会が持続可能なぎりぎりのところまで出生数を絞って、最後に生き残った老人の介護をしてくれるロボットを作って、緩やかな滅びへと着地させるべし、という結論になるでしょう。でも社会の持続可能性の観点で反論している人がその立場
「自分」は自分の外にある。自分が何者であるかは、自分が持っている物、自分がいる場所、自分の人間関係、そういうものによって規定される。単に外からそういうふうに見られるというわけではない。自意識の上でも、全面的に影響されるのだ。自分とは、一つの身体の中に閉じたカタマリではなくて、自分とその周囲が総体として作り出す「場」に存在するものなのだ。 自分というのは一面的存在ではない。ある時点の自分は複数のコミュニティに属して複数の顔を持つし、また時間の経過とともに自分は変わっていく。親といたときの自分と、学校での自分、大学に進学してからの自分、就職してからの自分、あるいは自分の家庭を持ってからの親としての自分。さらには孫に対しての自分。75歳のあなたがいたとして、去年孫からもらったプレゼントと、20歳の時に恋人からもらったプレゼントがあったとする。どちらを身につけるかで、あなたの人物像、振る舞いそのも
人と話しているとき自分の言葉遣いが正確でなかったことに気づいたらわざわざ話題を戻してでも訂正せずにはいられない人。 ほかの人の言葉遣いが間違っている気がするけどひょっとしたら自分の勘違いかもしれないからと黙っておく人。 そして後で確認して自分が正しかったら安心する人。 いいなと思う言葉や表現に出会ったらどこかにメモする人。 あるいはメモしそびれて思い出せなくなりしばらく後悔を引きずる人。 辞書を読み耽ったことがある人。 辞書による語義の違いについて好き嫌いが言える人。 類語辞典と向き合いながらどの言葉が一番しっくりくるかああでもないこうでもないと考えてしまう人。 好きな単語やフレーズがほかの言語だとどう言うのかが気になって知りもしない言語に翻訳してしまう人。 文書を作成するときにこの内容だったらどのフォントが合うかなといつも考える人。 Twitterで文字数いっぱいまで書いてしまいがんばっ
祖父母に会うたびに、いたく向こうがよろこぶ。ただ自分が顔を見せただけなのに。それは存在を肯定されたようでうれしいけど、どことなくむずがゆく思っていた。――これは、少なくない人に共通する、現在ないし過去に覚えた感傷なのではないだろうか。 でも、なぜ? どうして、あんなにうれしそうにするのか? 「そりゃあ子孫の繁栄を願う生き物としての根源的な感情だからですよ」――そうやってわかったふうな口ぶりをする人がいるかもしれない。でも、そんな説明では私は納得しない。だってあまりに浅い理解じゃあないか。老境に人が抱く気持ちを何一つ描いてみせていないではないか。 人生というのは、出生から成人までがその本編で、あとは余韻が響いているだけなのだ。人生の旋律は出生から成人まで鮮やかなリズムを奏でるが、そこからは先細っていくだけなのだ。だから、人はカノンのように旋律を後から後から重ね合わせる。それが子孫だ。 自分自
ブログを始めて数ヶ月が過ぎた。これまでもSNSなどにまとまった文章を投稿することはあったが、こんなにいろいろな話題について思うままに書くことができる気楽さはリアルの人間関係から切り離したブログの媒体ゆえのものだ。こんなに楽しいとは思わなかった。 ところが、最近奇妙に思うことがある。知人にブログに使うネタを部分的に話してみたり、あるいは原稿を見せたり1しても、たいして反応がないのだ。そして、こんなにたくさん文章を書いていると言うとだいたい驚かれる。なのに同時に、ブログ界隈ではもっとたくさん書く人達がいくらでもいる。考えも豊かだし、文章が魅力にあふれていてすばらしいなと思う。それはなにも有名ブロガーに限った話ではない。読者数が一桁二桁くらいのブログでも、宝石のように輝く文章をたくさん見ている。はたしてこのギャップは何なのだろうか。どうしてリアルで遭遇する世の中の人は案外文章を書かないのだろうか
日本人は協調性を重視し、周りの様子をうかがいながら目立たないように行動するとよく言われる。と、ここで比較文化の話をしたいわけではない。程度は同じではないかもしれないが「空気を読む」のは人間に共通する性質だろう。 集団から逸脱して空気を読まずに行動するのは危険だ。ほとんどの場合、それは「空気を読む能力に欠ける」サインとして解釈される。社会的に戦力外通告に等しいものだ。頭がおかしい人、その場にいる資格がない人。そういうレッテルは強力で、人間扱いされないということとあまり変わらない。強引に進化心理学的な説明をするのなら、群れの空気を読めず、秩序を乱す存在は群れ全体への脅威ゆえ追放されるということになるのかもしれない。周りがみな息を潜めて天敵をやり過ごそうとしている「空気」を察せず、不用意に音を立ててしまう個体は速やかに排除される必要がある。こういうシナリオが人間の心理的作用を形作る上で実効的に働
人生は、飛び石を渡っていくようなものだと思う。ある石からある石へ、いくつかの居場所、人間関係、やること、ないしは価値観を持ちながら、順々に渡り歩いていく。 そこで大切になるのは、「自分の体重に気づき、自覚的に体重を乗せる」ということ。どこかに足を置き、そこに体重を乗せているタイミングがある。あるいはそこから体重を抜いて軸足を入れ替えているタイミングがある。誰でも自分の足がどこにあるあるかはわかっている。でも、どこにどのくらい荷重をかけているのかはついつい忘れてしまう。それを自覚的にコントロールすることが、とても大切だ。 どこに足を置くかはよく考えないといけない。間違ったところに置いたら落っこちてしまう。いきなり乗るよりは、そっと体重をかけてみてから重心移動をしたほうがいい。でも時には次の石が遠くて、一思いに飛び移らなくてはいけない。そういうときは自分の見立てを信じて飛ぶしかない。 そう、信
学部生だったころ、きみと一緒に学食でカレーを食べた。カレー300円にするか、カツカレー400円にするか、よく迷ったものだ。ついでにサラダをつけるかどうかも、また迷ったものだった。そしてテーブルを囲んで、どうでもいい話をよくしたものだった。ときには将来についても話した。あのころは、いま思い返すと笑ってしまうほど純粋で、世間知らずだった。いや、私は今でも世間知らずなのだろうけど。 あれから何年も過ぎた。私は大学院に進学したけれど、きみは就職した。私はまだ成果を出せずにもがいているけど、きみはもう社会人になって何年か経って、少し大変な仕事を任されたり、転勤したり、後輩を指導していたりするようだね。どんな苦労があるのかは知らない。でもきみがSNSにアップロードする写真は、いつの間にか夜景が見えるレストランでのコース料理になった。誰と行ったのだろう。いや、そんなことはどうでもいい。いくらしたのだろう
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Qana’s diary』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く