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幕府の威光として利用された琉球 江戸時代になると、薩摩藩は琉球支配を強化するために、強硬な手段に出ます。慶長7年(1602)冬、島津氏は、幕府の命令で奥州の伊達政宗領に漂着した琉球人を琉球に帰しました。ところが琉球が、そのお礼の使者を出さないという理由で、慶長14年(1609)、幕府に琉球国への軍事行動の許可を願う事態になったのです。 理由は何でもよかったのでしょう。薩摩はどうしても琉球国を手に入れたかったようです。 というのも、関ヶ原の戦いに西軍として参戦して家康と対立した島津氏は、後年、許されて江戸幕府の下に入ることになったものの、敗戦による痛手は大きく、藩財政立て直しのために、琉球の貿易利権に目を付けていたからです。 薩摩に琉球出兵を嘆願された幕府としても、秀吉が行った対外戦争の負の遺産を何とかしたいという思惑がありました。このときはまだ、名目上、明との戦争が続いている状態でした。
武田勝頼率いる武田軍が織田軍に大敗した長篠の合戦――その構図は、旧式の騎馬軍団が先進的な鉄炮隊に敗れ去ったというのが常識的な理解だった。しかし、近年の研究でその常識は根底から崩れつつある。 ※本稿は、平山優著『武田三代―信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。 「旧戦法」対「新戦法」の激突? 長篠合戦とは、いったいどのような意義がある戦いだったのだろうか。このような問いをわざわざ立てたのは、今も、歴史教育の分野で、長篠合戦は教科書において「(信長は)三河の長篠合戦で多くの鉄砲隊を使って武田氏の騎馬軍団を破った」(『改訂版高校日本史〈日本史B〉』山川出版社)と記され、それは、鉄炮3000挺を揃え、その連射(いわゆる「三段撃ち」)により、騎馬攻撃という旧来の戦法を撃破したという構図で語られているからである。 そこには、先見性に富む軍事的天才織田信長が、保守的な
第二次世界大戦を左右した「航空戦力」。世界で最初に機動部隊を創設した日本は、「航空思想」において最先端を走っていた。その力は、真珠湾攻撃で存分に発揮されたものの、やがて日本軍は苦境に陥っていく。その要因は何だったのか。 ※本稿は『歴史街道』2021年7月号の特集「太平洋戦争 空の決戦」から一部抜粋・編集したものです 飛行機は“補助戦力”だった およそ20世紀に入ってから始まった、飛行機の開発。 飛行機の軍事利用が促進されたのは、第一次世界大戦のときである。 開戦の時点では偵察以外の用途がなく、敵国の飛行機とすれ違うときに、パイロットが手を振り合ったりするなど、牧歌的な一面も見られた。しかし、「飛行機が戦力として使えるのではないか」という発想が生まれたことで、状況が変わる。 最初は飛行機からレンガを投げる程度の「攻撃力」だったが、機関銃を積むようになると、飛行機の破壊力が急速に伸びて、大戦中
『日本書紀』によれば、初代神武天皇は西の九州からやってきた。『日本書紀』には明らかに東軽視の態度が見られる。 しかし、多くの歴史学者が今上天皇の直系と考えるのは26代継体天皇だ。なぜ継体天皇は東(越の国)から即位することができたのか? 6世紀初頭の古代日本国家は何を目論んでいたのか? ※本稿は、関裕二著『地形で読み解く古代史の謎』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。 "東の王"継体天皇登場の謎 初代神武天皇は、九州からやってきたと『日本書紀』はいう。だから、天皇家の故地といえば、九州と思われがちだ。しかし、第26代継体天皇は、6世紀初頭に東からやってきている。 しかも、通説は、継体天皇を新王朝の祖と考えていた。また継体天皇の血統は今上天皇まで続いているのだから、「天皇家は越(北陸)=東からやってきた」ことになる。 ところが、『日本書紀』を編纂した8世紀の朝廷が、「天皇家の故地である
たった一つの武器の誕生が、日本の歴史を大きく変えた! 山田勝監修 『武器で読み解く日本史 』(PHP文庫)では、古代の弓・矛・剣から、近代の戦車・戦闘機まで、日本史に登場する武器・兵器が、いつどのように生まれ、時代にどのような影響を及ぼしたかを解説しています。本稿では、その一部を抜粋編集し、「武器」という視点から日本史を見直します。 今回は、蒙古襲来の折、モンゴル軍が鎌倉武士を苦しめた「てつはう」をご紹介します。 「てつはう」を、漢字で書けば「鉄炮」となる。だが、モンゴル軍が使ったのは火縄銃などの弾丸を発射する火器ではない。現在でいうところの、手榴弾に近い武器だ。 文永の役の戦いの様子を写した『蒙古襲来絵詞』という絵巻物には、肥後(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長が単騎でモンゴル軍に突撃するそばで、「てつはう」がさく裂している光景が描かれている。 また、鎌倉時代後期から末期にかけて成立した
現在発売中の月刊誌『歴史街道』4月号で、直木賞作家の安部龍太郎氏は、世界史の波が、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の動向に大きな影響を及ぼしていたと語る。そのうちの一人、信長が描いた世界戦略とは――。 信長が外国に見出したもの 「世界史」の視点をまじえて戦国時代を語ることに、いったい何の意味があるのか。 そういぶかる声も、あるかもしれない。たしかに、日本各地で激しい勢力争いが繰り広げられた戦国時代は一見、日本史の中で完結するものに見える。 しかし戦国時代こそ、「世界史」を抜きに語ることはできない。戦国時代は大航海時代という世界史の波が日本に及んだ時期であり、それが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の動向に、大きな影響を及ぼしていたからである。 そもそも、日本と西洋との出会いは、天文12年(1543)の鉄砲伝来と、天文18年(1549)のキリスト教伝来に始まる。 当時、世界は大航海時代であり、とりわけ
学校では教えてくれない日本史の授業 山本勘助と真田幸村といえば時代劇のスターといってもよいでしょうが、実はこの二人、日本の歴史学の上では厄介者扱いなのです。 山本勘助、つまり武田信玄の「軍師」としての勘助は、かつて歴史学界では存在を否定されていました。「伝説上の人物」だというのです。確かに軍師という言葉はもともと中国語で、日本の戦国時代にはそういう言葉は使われていなかった可能性は高いのです。しかし、それは勘助が存在しなかったということとは全く意味が違います。にもかかわらず、歴史学界は「勘助は実在しなかった」という説を採用していました。このため作家、海音寺潮五郎氏は小説『天と地と』を書くにあたって、山本勘助を登場させませんでした。歴史学界の悪影響を受けてしまったのです。 なぜ歴史学界は勘助の存在を否定したのでしょうか? 理由は簡単で「同時代の史料に勘助が登場しない」というものでした。いかに状
「徹底した実力主義」が招いたものとは 室町幕府と言えば、鎌倉幕府、江戸幕府と比べてどうしても戦乱が多くて弱いというイメージがつきまとうのではないでしょうか。 たとえば、発足してわずか12年で観応の擾乱という内紛が勃発します。これは、初代将軍・足利尊氏と弟の直義が対立し、全国を股にかけて争った内乱です。 3代将軍・足利義満の時代は室町幕府の全盛期で最も安定していましたが、それでも土岐氏、山名氏、大内氏といった有力守護を、たびたび粛清する必要にせまられていました。 嘉吉元年(1441)には6代将軍・足利義教が播磨守護・赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、応仁元年(1467)には有名な応仁の乱が始まります。 その後は戦国時代に突入し、将軍家もたびたび分裂し、一世紀にわたって混乱が続きました。 しかし、内紛や戦乱は鎌倉幕府も負けず劣らず多いです。周知のように、鎌倉幕府では将軍は飾り物で、実権を握ってい
岡田以蔵の拳銃(個人蔵) 近年の「以蔵ブーム」 龍馬か、高杉、はたまた西郷か――。「維新の志士のなかで誰が好きか?」と問われれば多くを語りたくなるのが歴史好きの性だ。幕末には、それだけ魅力的な人物が多かった。 近年、とりわけ注目を集めているのが、「人斬り以蔵」の異名をとる岡田以蔵だ。2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で人気俳優の佐藤健さんが演じたことで話題となり、その後も、『正伝 岡田以蔵』(2013年、戎光祥出版)が5刷の売れ行きをみせている。いまの「以蔵ブーム」の背景には、人気ゲームの影響もあるようだ。 フランス製の拳銃 以蔵が取り上げられる際、必ずといっていいほど語られるのが「謎が多い」という点である。たしかに、慶応元年(1865)に28歳の若さでこの世を去るまでの、足跡や人柄を表わす史料は少ない。その意味では、現在、高知県立坂本龍馬記念館の特別展「龍馬‐真物から感じる龍馬の魂‐
今月のお題は「名言」。編集部女子が好きな言葉は、室町時代の歌謡集『閑吟抄(かんぎんしょう】』に収められた一節「何しょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」。どうせ一生は夢のようなものなのだから、まじめくさっていないで、周りに狂ったと思われようとも自分の好きなこと、信じることをしていれば良い――突き放したような表現の陰にあるメッセージに、励まされます。 初めて知る言葉、耳馴染みはあれど改めてその深意を噛みしめさせられる言葉…数々のご投稿をいただきました。できるだけいろいろな言葉を紹介したいとの思いから、今回は順位付けをせず、アラカルト式に(?)発表させていただきます。まずは、比較的票が集まったものから。 票を集めた偉人たちの名言 「為せば成る、為さねば成らぬ。何事も成らぬは人の為さぬなり」(上杉鷹山) 最多支持を得たのが、稀代の名君の誉れ高い米沢藩主の人生訓。 「新しいことを頑張ってみる勇気
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 アウシュヴィッツ強制収容所で、ナチス・ドイツが初めてのガス室実験 今日は何の日 1941年9月23日 1941年9月23日、ポーランド南部アウシュヴィッツにナチス・ドイツが設けた強制収容所において、初めてガス室実験が行なわれたとされます。ユダヤ人を虐殺した惨劇として知られます。今回は、なぜユダヤ人がナチスの標的となったのか、また日本とユダヤ人との関わりについて、少し紹介してみます。 ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、実はナチス・ドイツに始まるものではありません。いわゆる「反ユダヤ主義」は宗教の問題に根ざすもので、イエス・キリストの死後まもなく始まりました。そもそもキリスト教はユダヤ教に起源を持ちますが、その後分離し、キリスト教徒はイエス・キリストを救世主として認めなかったユダヤ人を蔑みました。またイエスが磔にされた責任もユダヤ人にあるとします。 やが
【今日は何の日】 昭和17年3月17日、「マレーの虎」こと谷豊が没 昭和17年(1942)3月17日、谷豊が没しました。マレー半島で、華僑を襲う盗賊団、さらに日本陸軍の諜報員を務めた人物です。「快傑ハリマオ」のモデルとして知られます。 谷豊の出自 サングラスとターバン姿をトレードマークに、マレー半島で善を助け、悪を懲らしめる正義の味方「快傑ハリマオ」。昭和35年(1960)に石森章太郎の絵で「少年マガジン」に連載が始まり、同年テレビドラマ化もされたことを、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。この「快傑ハリマオ」のモデルとなったのが、谷豊です。 豊は明治44年(1911)、理髪業を営む谷浦吉の長男として、福岡県筑紫郡日佐村(現在の福岡市南区)に生まれました。大正2年(1913)、豊が2歳の時に、一家はマレー半島のクアラ・トレンガヌに移住し、理髪業を始めます。当時のマレー半島はゴムや錫の生産で繁
清水次郎長が生まれる 今日は何の日 文政3年1月1日 文政3年1月1日(1820年2月14日)、清水次郎長が生まれました。幕末の侠客で、「海道一の大親分」として小説、時代劇、浪曲などでもおなじみです。もっとも最近は、架空の人物と思っている人も増えてきているようです。 「旅行けば駿河の国に茶の香り…」。 広沢虎造の浪曲でよく知られる清水の次郎長…といっても、浪曲自体をあまり耳にしなくなった昨今、次郎長の名前も特に若い人には馴染みがうすくなっているのは、時代の趨勢というものでしょう。 次郎長の生涯が知られ、庶民のヒーローとなったのは、『東海遊侠伝』(明治17年出版)の存在が絶大でした。同書は元磐城藩士の天田五郎(愚庵)が、次郎長のもとに身を寄せていた時に、聞き書きしたノンフィクションです。次郎長の原型はここにあり、後にさまざまに脚色されていきました。 次郎長は本名を山本長五郎。文政3年に駿河国
これであなたも歴史通 インターネットで書斎を充実させる 映画やテレビの時代劇を見て、もっと詳しく知りたいと思うことがあるでしょう。そんな時、どこから手をつければいいのでしょうか。 現在なら、まずインターネットを活用するのがいいでしょう。あまり知られていない人物まで、ネット上で取り上げられていることがあります。ネットの記事は出典があきらかでないと言われることもありますが、Wikipedia などはきちんと出典を記すことを推奨しており、とりあえず調べる時には参考になります。 ネット上で活用できるサイトとして、ジャパンナレッジ(Japan Knowledge)があります。これは有料(月額1620円)ですが、小学館の『日本国語大辞典』、吉川弘文館の『国史大辞典』、平凡社の『日本歴史地名大系』などが入っていて、簡単に検索することができます。 このほかジャパンナレッジには、平凡社『東洋文庫』で活字にな
「断乎反撃せよ!」知られざる戦記 「最後まで善戦敢闘し、武士道に殉じる」 「パーフェクト・ゲーム」。アメリカ軍がそう言って驚嘆した日本陸海軍の作戦をご存じでしょうか。昭和18年(1943)7月のアリューシャン列島キスカ島守備隊5,200人の全員脱出劇です。 しかしこの奇跡的な成功は、その約2ヵ月前の同じアリューシャン列島アッツ島における、2,600人の守備隊玉砕の悲劇があったからこそといえるものでした。 昭和17年(1942)6月8日、日本軍はアメリカ領のアリューシャン列島アッツ島、キスカ島に上陸、占領します。目的はミッドウェー作戦の陽動と日本本土空襲の阻止、さらにアメリカとソ連の遮断の意味があったといわれます。 しかしミッドウェー海戦後、日米の主戦場はガダルカナル島をはじめとする南方に移りました。日本軍の主力もそちらに向けられたため、北の2島の守備隊は取り残されることになり、さらに昭和1
写真:東善寺の小栗胸像 「真の武士」とは 「幕府の運命もなかなか難しい。費用をかけて造船所を作っても、完成した頃に幕府がどうなっているかわからない」。そんな言葉が小栗に向けられました。 元治元年(1864)、勘定奉行の小栗上野介忠順は、幕府の財政が逼迫していることを承知の上で、あえて製鉄所(造船所)建設を幕閣に提唱します。製鉄所建設は、日本が近代化に向けて必要な工業力の源になると考えたからでした。しかし、「幕府の屋台骨が揺らいでいる時に、将来への投資などできるか」といわんばかりの反応が返ってきました。これに対し、小栗は言います。 「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない。私は幕臣である以上、幕府の為に尽くすべき身分だが、それも結局は日本の為である。幕府のしたことが長く日本の為となり、徳川の仕事のおかげだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売家にして
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