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CanCamと云えば小学館のファッション雑誌で、20年くらい前には「自分には縁のない層の女性を対象にした雑誌」と云う認識を持っていたのだけれど、いまはどんな傾向の雑誌なのかは知らない。 で、その編集部の公式ブログの、お肌がピカピカになる体験ツアー☆と云うエントリを見かけた。 ニセ科学にまつわる言説を眺めていると、特定の種類のものについては発信者に性別の偏りが見られることに気づく(統計的な数字は出せないけど)。代替医療、と云うか、自然をうたったニセ科学に関しては、どうにも女性にその信奉者が多く見られるように思える。典型的にはホメオパシーとか。 で、これって、傾向として女性向けメディアに、そう云う内容を含んだものが多いからじゃないんだろうか、みたいにまぁ、憶測をしてはいたのだけど。 で、これはエバメールと云う化粧品メーカーの工場に見学に行って、ついでにエステ体験をしてきた、と云うような内容の記
でも、ネット上でいくつかの書評を見て、ちょっと思い直した。 この本の本来の対象読者は、たぶんぼくみたいな人間なんだろうな、と思ったので。 ニセ科学に関する議論のはじっこのほうでそこそこのあいだうろうろしているにも関わらず、ぼくぐらい「科学」と云うものに対する理解を欠いている人間もそうはいないだろう(もうこれは認めてしまえば能力的な問題で、そこには忸怩たるものがないわけでもないのだけれど)。本書でも主要なテーマとして掲げられている「科学リテラシー」と云うものについても、いまだそれがどんなものを指すのか、と云うことについて明瞭な理解を持っていない(ついでに云うと、あまりそこにはっきりした共通理解が生じていると思えないような場で、このことばが一種の紋切型として使われているように感じられる現状に対する違和感もまだ払拭できていない)。 でまぁ、目次を開いてみる。初級編、中級編、上級編に分かれている。
病理医のPseuDoctorさんがこちらのエントリに寄せてくださったコメントが非常に示唆に富むと感じたので、ご本人の承諾を得て独立したエントリとして立てさせていただく(ニセ科学蔓延に対する対策、と云う部分についての考察は割愛させていただいて)。 「薬は毒を薄めたもの」と云う言い回しはポピュラーに使われるけれど、それはこう云うことなのであって。 では本題です。 語源的な部分はちょっと不勉強ですが、歴史的に見てもおそらく「毒」という概念が先にあって、そこから「薬」が分化してきたものと推測されます。逆に言いますと、この場合の「毒」は「薬」を含んでいますから「心身に影響を及ぼすものの総称」とでも言える概念なのですね。 医療の黎明期から残されている伝説を見ますと、東洋でも西洋でも、自らを実験台として薬を発見した聖人ないし半神の話が出てきます。他の多くの伝説と同様に、この話にもいくばくかの真実が含まれ
2つ前のエントリーと合わせて、主観的で相対的な価値判断のお話しと捉えてよろしいのかな?そもそも「ぼくは真央のジャンプが好きじゃない。跳ぶ前の姿勢も、跳んだあとの流れも」と述べておられるようですから。 >素人は刺激の強いものに反応する、と云う感覚はわかる。でも、オリンピックの真央の演技がすごいものに見えて、ヨナ・キムの演技が平凡で「普通」なものに見えたのなら、それはそう見える自分の目が鈍摩しているだけの話だ。 どこの世界でもそうであるように、一部に極端なファン(特にネット上ではそれが目立つ)がいることは確かですが、どちらを応援するにせよ、普通のフィギュアスケートファンで、ヨナ・キムの演技が平凡で普通なものに「見えた」人はいないと思いますよ。むしろ「素人」のわれわれにとって、いつも「強い印象」を与えるし「刺激の強さ」も生半可ではない。どうしたら観客や審判の心を引きつけるかを熟知し、それに向けて
フラワーエッセンス療法家でいらっしゃるらしいCompass Plantさんのプラシーボであろうとフラワーエッセンスを使うと云うエントリを読んだ。「代替医療のトリック」についての感想のように読める。 代替療法がもたらす変化が微細で、かつ体質などの個人差が大きいが故に、代替療法にかかわる者としてはこうした論を見ると「仕方がないけれどももどかしい」、そのような気持ちが内側から起きてきます。いや、微細な変化でこと足りるような症状に代替医療で対処することについて、とやかく云うひとはあんまりいないでしょう。インフルエンザは医療業界の陰謀だからワクチンは打つな、とかそう云うことを訴えなければ。あと、効果が微細であるにもかかわらず適切とは思えない額の費用がかかる場合にも問題視される場合はあるかと思うけど、これも経済的に余裕があるひとが他人に迷惑をかけない範囲で実践するぶんには、とくにあれこれ云われることは
yoseiさんの科学的エビデンスと云うエントリを読んだ。 針灸をして症状がなくなるのはよくあること。さらには癌が消えたり、腫瘍マーカーの数値が低くなることも臨床ではみられる。 その証拠? その症状がなくなった本人が生きた証ではないのだろうか?(改行位置を変更、リンクを取り去るなどで整形しています。以降同様) 鍼灸によって症状がなくならない場合も、同様にあるだろう。その場合、なくならなかったひとは、鍼灸に効果がない、と云うことについての生きた証と云うことになるのでは。いや、揚げ足をとってるんじゃなくて、素直に。 さらには「リコネクション」では痛みが消えたり、立てなかった人が立てたり、病気が消えるということもよく起こる。 これもその本人が生きた証。これも同様。 立てなかった人が立てたり、病気が消えるということが起きなかった場合、どのように責任を取るのか。もらったお金を返して終わり、なのだろうか
ホメオパスでいらっしゃるらしいlotusさんのマスク嫌いになりましたと云うエントリを読んだ。 簡単な予防だからだとは分かっていますが、そんなに必要なんだろうか?マスクそのものには予防としての意味合いはあまりなくて(だからその意味ではそれほど必要と云うものではなくて)、むしろ感染している人間がさらに感染を広げないために用いるもの、と認識している。インフルエンザはおもに飛沫感染だし、風邪も同様の感染ルートを辿るので。 昨今マスク姿で人前に出る、と云う行動は「インフルエンザに留意しています」と云うことを示すためのジェスチュアとしてのニュアンスがつよくなっていて、なんか「空気を読んでマスクをする」ひとが増えているなぁ、みたいに感じていたりはするので、その辺りに対する不快感は理解できなくもないのだけれど。 ちなみにぼくはいまのところ、外出時にマスクはしていない。幸運にも去年から、インフルエンザにも風
タイトルは釣りかも。 ホメオパシージャパン株式会社が運営するホメオパシーセンター東京本部で活躍されているらしいホメオパスの方が運営するブログで、第2回全国ホメオパシー利用者実態調査と云うエントリがあがっている。昨年9月から12月にかけてホメオパシージャパン株式会社が自社クライアントを対象におこなったアンケートらしい。 まぁ日頃からホメオパシージャパン商品利用者を対象としているためか、あまり辛らつな意見は見受けられませんでした。と云う断り書きはあるのだけれど。 アンケートはとらのこ会報「オアシス」と同送、講演会参加者、ホメオパシックファーマシー店頭等にて配布回収されたもので、有効回答者数は1142人です。回答者は96%と圧倒的に女性が多く、男性はわずか4%です。こう云う偏りはあるよなぁ、みたいには感じる。ホメオパシー支持を表明するネット上の言説は大半が女性によるものだ。なかにはこどもへのイン
kikulogのホメオパシーはインフルエンザに効きません(追記あり5/6)と云うエントリのコメント欄に、「フランスから」と云うハンドルネームの方がいらしていて、フランスにおけるホメオパシーの現状についてとても興味深いコメントをされている。(コメント番号240番より登場)。こっちやこっちで書いたこととも、関連してくるように思う。 フランスはハーネマンの創始したホメオパシーを最初に受け入れた国らしい(ほんとうかどうかわからない。上記のエントリのコメント251番でうさぎ林檎さんがお書きの内容はこれとは違う)。ハーネマンはフランスで没しているようだ。 「フランスから」さんによるとフランスではホメオパスになるのは医師に限られているらしく、また医師の教育課程にホメオパシーが組み込まれている、とのこと。医師の出すレメディ(どうやら薬局でふつうに販売されているものと医師の処方箋が必要なものとの両方があるも
江本勝氏近辺の言説に触れていてどうしても気になっていた部分があって、それをHitomi-MaZendaさんの言霊の国 ・ 日本 ♪と云うエントリを読んで思い出した。 水を入れたボトルに「ありがとう」という文字を貼っておくと、その 水は美しい結晶になるのに、「ばかやろう」「ムカつく」などの汚い マイナスの言葉を書いて貼っておくと、結晶が跡形もなく消えて、 見るも無残になります。 これを見た人は、「人間の体の6割は水でできているんだから、プラス の言葉、美しい言葉を話そう」と誰もが感じると思います。(フォント指定系のタグを除去して整形しています。以下の引用部分も同様) まぁこの辺はだいたい江本氏の主張を肯定的に受け止めるかたに一般的に見られる(と云うか判で押したように異口同音に表明する)内容で。「ポエムでファンタジー」と本人が云っている「水の結晶実験」の結果を事実であると受け止めたうえで、「か
JBpressの長野修氏によるホメオパシー記事のふたつめ、何のためのホメオパシーか 西洋医学が見放した人を前に、それでもノーと言えるかが公開された(ひとつめの記事は自然治癒力を高める「ホメオパシー」欧米からやって来た代替医療が日本で静かなブームと云うタイトルで9/2付で公開されている)。もうそこそこ話題になっているけれど、これらの内容が容認しがたいので言及してみる。語調がいつもと違うかもしれないけど、ご容赦を。 ホメオパシーの問題点と云うのは複数の角度から挙げられていて、そのあたりはここのサイドバーからもリンクしているlets_skepticさんのホメオパシーFAQに詳しい。賛否両論含めた議論の場としては上に挙げた長野氏の9/2付の記事を題材にしたkikulogのホメオパシーは世界で最も安全な医療?と云うエントリが現時点で活発。 細かい議論はこれらを参照していただくとして、ホメオパシーの持
しかし、メカさんが考えている「思想の部分に切り込む」どういうことなのか、引用元のテクストを読んでもはっきりしない。 それで認識が違うと言われても、じゃあ説明してください、としかならない。 「思想の部分に切り込む」のなら科学者じゃなくたってできるし、文系のどこかの分野の人の方が得意かもしれない。「思想の部分に切り込む」ことのニーズを呈示できれば、科学以外の分野の人にもっと入ってもらえるかもしれない。 そんなわけで「思想の部分に切り込む」の具体的内容について追加説明がほしいところなんだけど……。 by apj (2009-08-22 01:06) 「思想」を信条、主義、スタンスという意味に広げれば、批判的思考や科学的懐疑主義は思想の一種ですよね。そして疑似科学批判を行っている人たちは、議論の端々で、あるいはまとまったエントリとして懐疑主義について述べているのではないでしょうか。ただ懐疑主義的な
どらねこさんの一連のマクロビオティック関連のエントリがいったん結びとなったようで、マクロビ関連エントリまとめと云うエントリでまとめられている。最終的にQ&Aと云うかたちで集約された講習会でこんな話し聞いてきたのだけど(前編)・(後編)の2つのエントリは労作だと思う。少し前に言及したOSATOさんによる「水からの伝言」の読み解きしかり、こう云うていねいなテクストをアクセス可能にしてもらえるのはほんとうにありがたい。 うちから街の中心部までのあいだに、ヴェジタリアンフードやマクロビオティックを標榜する食べ物屋さんがふたつほどある。どちらも入店したことはないのだけれど、そう云うお店があること自体はいいことなんだろうな、と思っている(片方はおいしそうなので、いちど食事をしてみたいと思ったりもする。もう片方はストリクトなマクロビオティックを実践しているようなので、休日の食事にはどうかなぁ、とか思った
2度読み返したらちょっとレビューが遅くなってしまった。 この種の本がどの本屋に置かれるのか、どのコーナーに置かれるのか、と云うのはそれなりに難しい問題で、以前そのへんはわれらが聖典を本屋で探しまわると云うエントリでネタにしたことがあったんだけど、この本については友人との待ち合わせに利用した最寄りの本屋のひとつであっさりと発見。ここは壁一面に一般向け学術解説書みたいな種類の本をまとめて置いてあって、そこには科学書から思想書までが並んでいるんだけれど、そこに平置きにしてありました。置いてある場所は以前謎解き 超常現象を見つけた場所と同じあたり。直線距離で1メートルすこしのあたりに江本勝氏の著作やニューエイジ系の書物が並んでるのはなんだかなぁ、とか思ったけれど、考えようによっては悪くない。ともあれ、みつどんさんのように購入に苦労すると云うようなことはなかったんだけれど、昨日ちょっと気になって市内
こんにちは、poohさん。 >でも、こう云う部分での専門家による貢献を求めること自体が、それほどの高望みなのかなぁ。 ニセ科学批判を始めたばかりの頃に言っていたたとえ話の一つに、「火事場の長いハシコ゜」なんてのがあります。長いハシゴをもって火事場に通りかかったら2階の窓から人が助けを呼んでいる。そりゃあ、ハシゴをかけてあげなきゃ不人情です。でも、ハシゴをかけたら、「登ってきて、連れて降りてくれ」となったら、勘弁してくれとなる。なんてね(笑)。 最初の頃、「その話は科学的におかしいよ」と言うだけでは満足して貰えずに、「科学的に正しくないと言うことを徹底的に証明してみせろ」みたいな言われ方をするのに面食らってつくった、たとえ話なんですけどね。みんなが「ハシゴを持っているなら、かけるだけじゃなくて登って連れて降りろ」と言うなら、ハシゴを持っていても隠して逃げてしまうよ、なんて言っていた。 という
OSATOさんによる「水からの伝言」の丁寧な再読み解き、「『水』を読む」シリーズが「水」を読む(9)最終回〜これから〜で完結した(一連のシリーズエントリは「水読」カテゴリに現在のところまとめられている)。 ニセ科学に関しては、ぼくはとりわけその「蔓延」の部分、受容される側の問題について視点を置いてきた。これは、まずはぼくがアカデミシャンではない、と云う立ち位置から選択しえた視点でもあって、ぼく固有の問題意識のありかからとってきたスタンスでもある。なので、読み解き、と云う部分についてはスタンスを異にするかたがたによる果実を利用させていただく、と云う方法をとってきた。 今般のOSATOさんの一連のエントリは、(おそらくは)ぼくに近いスタンスから、実際の読み解き、と云う方法をとっている。まずはそこに、敬意を表させていただくとして。 あの結晶写真は、オウムの「空中浮揚」の写真と同じなのだと私は思い
こちらのエントリにblupyさんが権威の個人化と云うエントリで言及されているので、いちおうお返事。まぁblupyさんご本人も無視しようかと思ってたとおっしゃっているくらいなので、なにかしら本腰を入れて議論するようなことでもないんだろうと思うんだけど、黙っていることそのものをなにかしら斟酌されるようなことがあると愉快ではないので。 ちょっと前置き。ぼくは自分のことを「ニセ科学批判者」であると自己規定していない。と云うか「ニセ科学批判者」と云う用語そのものに以前から疑義があるので、引用部分とかコメント欄での議論を除外すればこの用語をたぶん1年ぐらい使用していないと思う(この疑義はapjさんの提示されている「ニセ科学批判」と云う用語へのそれとは違うんだけど、たぶんまったく無関係と云うことでもない)。で、以下は(直接の言及対象とされている)自分自身の言動に基づいて書くけれど、背景としてはニセ科学の
サイエンスカフェ・ポータルのK_Tachibana さんがお書きになった【イベントレポート】理研ゲノム医科学研究センターシンポジウムと「オーダーメイド医療を考える」シンポジウムをハシゴしてきたと云うエントリの中で、興味深い一節があった。 個人的には,理研ゲノム医科学研究センターシンポジウムでの鎌谷直之さんの話が, 非常に興味深かったです.彼は,遺伝学と統計学が弱体な日本の問題点として,次の ことを挙げていました. 1)100%でないと「意味がない」と主張する (医学,生物学に統計学は要らない) 2)少数例の印象で関連性あり,という結論をすぐ信じる (ABO型の血液型と性格) 似非科学や科学リテラシーの問題と,紙一重の話ですね.この両者のロジックは、ご指摘のとおりニセ科学を支持するような言説では非常に頻繁に使われる。典型的には「科学ですべてのことがわかるわけじゃないじゃん → 科学的じゃない
syokunin-2008さんの新興カルト宗教化した『ニセ科学批判』と云うエントリを読んだ。 この混乱がブッシュの二元論に近い『ニセ科学は悪』などと言う単純な道徳を振りかざす非科学的な『ニセ科学批判』のような新興カルト宗教が生まれる要因ともなっている。 このカルト集団は自分たちでは決して宗教であるとは思っておらず化学的であると信じているので、外からの一切の批判は受け付けない。 こと批判を一切受け付けないという『特徴』は正にカルトならではの特色であるが特にニセ科学批判には顕著に見受けられる。困った事です。なんだか循環した記述なので意味をちゃんと取ることが難しいのだけれど(外からの一切の批判は受け付けないから新興カルト宗教なのか、新興カルト宗教だから外からの一切の批判は受け付けないのかわからない)、それはまぁ措くとして、まず批判を受け付ける、と云うのが誰に対するどんな批判に対してどのような行動
WiredVisionの男と女は「美」の把握が異なる:脳の研究で違いが明らかにと云う記事を読んだ。 どうなんだろう。直感的には個人差のほうがよほど大きいような気もするけれど。美しさを感じる、感じない、と云う部分については、へんな云い方だけど学習と云うか訓練と云うか、で感受性のアンテナの到達範囲みたいなものを広げていく、みたいな部分もそうとう関係してくるだろうと思うし。 研究はまだ予備段階で、少人数のサンプルに基づくものでしかないが、きわめて興味深い。たしかに興味深いけどなんだか怪しい。 こうした反応の違いが現れたのは、被験者が美しいと考える画像の場合のみだったことから、これは単に一般的な知覚の性差が反映されたものとは考えにくい。知覚に性差がある、と云うことそのものも、なんと云うか後天的に獲得されるものかもしれないし。そう云う意味を含め、あってもおかしくはないとは思うけれど。 いや、ぼくなん
NOVTANさんの何周遅れだろうともと云うエントリを読んだ。 周回遅れ、と云う比喩はニセ科学に関する議論でもときおり出てくる。まぁ、ニセ科学に関係する議論は先頭を走っていれば偉い、とか云う性格のものではまったくないので、NOVTANさんがお書きの主旨には直接あてはまらない部分も多かったりはするけれど。 少なくとも、ちょっとでも先にスタートできた自分の有利さを自覚して、あとに入ってきた人を暖かく迎えてあげるのが良いんじゃないかと思うことしきり。でもまぁこれをやっていると「またいつまでもおんなじ話をしてやがる」とか「安全な場所からばかりものを云っている」とか云う反応が返ってくる、ってのもあったりして。でもやるんだけど。やってるうちに見えてくるものもあったりとか、ケース・スタディにしかならなくてもなんらかの小さな貢献につながったりとか、そう云う部分を期待しながら。 ついでに云うと「安全な場所」に
珍しく「ゲーム脳」に触れたエントリなんか書いたら、検索キーワード「森昭雄」なんてのでアクセスがあった。なにしろ珍しいので辿ってみたら、香川県会議員の都村たかしさんのゲーム脳勉強会と云うエントリに行き当たった。なんでも森氏を招いて自民党議員が勉強会を行ったらしい。香川県要注意。 ネットによれば、医学的、学術的には反論もあるようだが、 私の周りを見ての実感からすれば、 ゲームは子供の生育に悪影響を与えていることは明らかです。とりあえず、ここのサイドバーからもリンクされているTAKESANさんのゲーム脳Q&Aをご一読いただければ、「ゲーム脳」と云うものがどの程度の信憑性を持つものかお分かりいただけると思う(非常に平易かつ簡潔にまとめられているので、ご多忙な議員先生でもきっとさっくりとお読みいただける)。よしんば都村先生の実感に基づくゲームは子供の生育に悪影響を与えていることは明らかと云う見解が正
前のエントリのコメント欄でzororiさんへのお返事を書いていたら長くなったので、エントリとして独立させる。 個人的利益の観点からは、他に有効な治療法がないのであれば、あまり効果が期待できない治療を続けることは合理的判断だと思います。命が無くなってしまえば、治療代がもったいないなんて言ってられないのですから、患者個人としては、費用対効果の点でも十分合理的でしょう。有害な治療、あるいは全く効果がないことが確実ならば非合理的ですが。このことについては、まったく異論はない。 たぶん問題は、ぼくが「合理性」と云う言葉をあいまいに使っているところにあるのだろう、と思う。「公」の合理性と「私」の合理性、と云うのがあるんだろうな、と考えている、と云うか(きっと、これらをそれぞれ指し示す適切な用語があるんだろう。その用語を使えば、もっと伝わりやすく書けるのかも)。 医療の意義、と云うのをどう云う部分に認め
念波さんの「『ニセ科学批判』批判」問題、というかなんというか。と云うエントリを読んだ。こちらで念波さんがお書きのことは、ぼくみたいに議論の全体像のなかでは周縁部にいる人間にとってはけっこう重要なことだと思う。ので、1日迷ったけど言及することにした。 「『批判』批判」の人々の言い分にもきちんと耳を傾ける必要があるのではないか、とは、実は以前から感じていた。ニセ科学批判にコミットしている論者が一般的にそうだ、と云う話として受け止められると微妙だけれど、ぼくについて云えばけっこう以前からきちんと耳を傾ける必要は感じていて。 でもこれ、言い訳めいて聞こえるのを承知で云うと、難しいんですよ。 まず、たいていの場合「『ニセ科学批判』批判」は、批判にコミットしているすべての人間を漠然と同傾向の一団として把握して、その一団を対象にした一般論としてなされる。論者側は(一団としてみられることについて自覚的では
まだこう云うことを云う方がいらっしゃるんだ、と云うことで。お名前がないのだけれど、"Love&Thanks"と云うブログの水の氷結結晶の真偽にまつわるデタラメな人達と云うエントリに言及。 そもそも、江本氏の主張であった「水が言葉を理解する」という主張自体が怪しいというのは確かなのですが、怪しい→あるわけないという思いこみによる「決めつけ」を基に、科学的と称しながら何ら実験や検証もせずに、あり得ないと断定して居る人達の行為は、明らかなるエセ科学宗教です。どうして反証実験をしなくていいか、と云うと、江本氏の実験を除く、有史以来行われてきたすべての水に関する科学的実験が反証となっているからで。通常水に関連する科学実験は実験を行うものの思念だの水に貼付けられた文字だのと云った要素を加味しないから、それらが仮に影響するとすればすべての実験が成立しない。どんな実験をする際にも、水の入った容器に貼られた
とりあえずこの土日で、船井幸雄オープンワールド2008が実施されたらしい。newmoonakikoさんがフナイオープンワールドと云うタイトルでレポートをお書きになって、そこでの江本勝の講演に触れている。 正直どこまでが江本氏の語った内容の持つニュアンスで、どこからがnewmoonakikoさんの解釈と想いなのか微妙な部分はあるんだけど、ご本人は編集者と云うある種表現者の場所にいらっしゃる方のようなので、その部分は斟酌すべきではないんだろう、と考えて言及。 科学的根拠が権力になることにヘキヘキしている私などは、日本物理学会やマスコミに総反撃されている「水からの伝言」の著者江本勝さんには同情してしまう。あんまり総反撃されているようには見えないのだけれど、それはそれとして。科学的な根拠をにおわせる発言を繰り返しているのは江本氏の側なので、その部分に瑕疵があると判断されれば反論が来るのは当然だと思
関東地区女性校長会で江本勝が講演を行い、7,000冊の「水からの伝言」絵本が発注された件について、前のエントリで取り急ぎ触れた。このエントリからリンクした各サイトでも、この件についての議論が行われている。 「校長会」で行われた講演だから、会のメンバーの誰か(は小中学校の校長であるわけだけど)が「いい話だからみんなに聴かせたい」と思った、と云うような動機だけで催されたとは考えづらい。やはり、なにかしら小中学校の教育の現場において応用可能な示唆がある、と思っての開催だろう(ここで、FSMさんによる「HADO」の記事要約、『教育現場に水のメッセージを』(『Hado』9月号)に再度リンク)。 だとすれば、その示唆と云うのはなんだろう。単純に学校教育の一環として「水を大切にしよう」と教える材料に使える、と云うことではいくらなんでも多分ないだろうから(水は大切だが、文脈が違う。水伝は要するに「水に媚び
阿部敏郎さんの嘘と云うエントリを読んだ。 阿部敏郎さんはスピリチュアル関連のお仕事をされている。お書きのブログにも、「アセンション」をはじめとしてなんとなく見慣れた「要注意」みたいに思わせるキーワードが頻出する。ニューエイジだからと云ってつねに原理的にニセ科学と親和性が高い、と云うことはないはずなのだけれど、そう云う志の低い「俗流スピリチュアル」ばかり数多く目にしてきた身からすると、やっぱり警戒せざるを得ない。 でも、このエントリで阿部さんは「水からの伝言」に触れて、そして読者に語りかける。 科学は万能ではありませんし、物質を超えた世界も確かにあります。 でもちょっと待ってください。 間違いは間違いです。 学校の先生までそんなことを信じて生徒に言っているとか。 そのような超現象を、きちんとした検証もないまま認めてしまえば、物理や科学の根底が揺らいでしまいます。このあとで、阿部さんは「百匹目
こちらのエントリに関連するかたちで、lets_skepticさんから信奉者の説得についてと云うエントリでトラックバックをいただいた。またdlitさんも「ビリーバーは説得できない」についてと云うエントリを挙げてくださっている。同様の話題について、TAKESANさんも説得という事と云うエントリを挙げてらっしゃる。 それぞれの方がそれぞれの立ち位置からおっしゃっているのでエントリの内容は違っているけれど、どの方がお書きのことにも非常に納得できる(こう云うことを書くと身内だの一派だの云いたがる向きがあるようだけど、多分単にそれぞれ同じようなケースを積み重ねたうえで近いことを実感しているからだと思う)。実際にぼくが取っているスタンスは、dlitさんがお書きのことに近いような気がする。 だいたいニセ科学に関するぼくの側からの発話は多くの場合疑義で。それなりに詰めて考えた結果としての、疑義。 なので、最
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