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あちこちでだいぶ語られているので、ちょっと書いてみてもいいだろう。1週間前、ぼくは公開2日目にこの映画を見た。 こうの史代の漫画は、圧倒的に情報量が多い。ぼくみたいな不注意な読み手は、さりげなく提示されるそれらの情報に引っかからず、読み流してしまいがちだ。そのことに気づいて意識的に読み方を変えたのは、「夕凪の街 桜の国」を何度かめに読み返してからだった。最初に読んだ時には、この漫画の巻末に(さりげなく、1ページだけではあるけれども)解説が添えられている意味に気づけなかった。 2年だけとは云えぼくはその昔広島の小学生で、ぼくの世代だと日常接する教師にまだ被爆者がいた。彼らが原爆についてぼくたちに語ってくれる機会も、年に数度あった。このブログの更新がまだもっと頻繁だったころ、8月6日前後にかならずなにかしら書いていたのは、それらがこれから失われていくのがわかっていた、から。原爆についての一次情
とし兵衛さんのイケダハヤト氏が「お試しあれ」と言ったホメオパシー半可通講座と云うエントリを読んだ。ここしばらくの流れがあるので、行きがかり上言及。 まぁ本来、レメディには(その原理どおりに製造されたものなら)顕著な害はない、はず。大量に使うと虫歯になったり太ったりして健康に害が、みたいなのはあるかもしれないけど。まぁNATROM先生がナイチンゲール曰く、「ホメオパシー療法は根本的な改善をもたらした」 と云うエントリでお書きのとおり。 けれども「ホメオパシーは効く」のです。 「レメディに効果がないのにホメオパシーは効く」などとたわごとを言って、お前は人をおちょくってるのかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。 TAKESAN 氏の記事でも少し説明がありますが、偽薬(プラシーボ)の効果というものがあります。 たとえ小麦粉であっても、医者がこれを飲むとよくなりますよ、といって出され
*お名前の表記に誤りがあったため、修正しました。申し訳ありませんでした(Oct.22, '16)。 こんなエントリを書いたら、言及先の木村スライムすらいむさんからリアクションめいたものがあった。「疑似科学はどうして批判されるのか?」ネット上の反応から見えた3つの理由と云う記事。 いろいろ考えていたらちょっとまとまらなくなったけど、とりあえずお返事として。以下、この方の用語である「疑似科学」と、ぼく(たち)がここで使ってきた用語である「ニセ科学」がちょっと入り混じりますが、どちらもニセ科学批判wikiにあるニセ科学とはにある定義に準じて使っています。 記事の冒頭にぼくのエントリへのリンクなんかがあって(MechaAGさん、と云う方のエントリへのリンクと並んで。この方、メカAGさんかな? 懐かしいかも)、それからその3つの理由と云うのが並べられていて。まぁここに並んでいるのはわりとよく云われて
木村すらいむさんの疑似科学を否定しようとする「科学的」な目線が息苦しいと云う記事を読んだ。 まぁタイトルが出落ちだよなぁ、みたいには思うのだけれど。 理工系の人・科学を信じている人って、非科学的なものを非科学的であるという理由だけで淘汰しようとすることが多い。ここのところは木村すらいむさんの書き方におそらく戦術があって、まるで非科学的なものをすべて淘汰しようとしているように読めるようにしてある。この文章は水素水と云うニセ科学商品について書かれたものとして始まっていて、非科学的なものすべてについての謂では本来ないはず。まぁこのあたり、文章の技術として飛躍によって故意にミスティカシオンを誘っているのだろうけどね。 水素水をニセ科学であるとして糾弾し、淘汰しようとしている人たちは、それが、非科学的であり、かつ、科学的な根拠があるかのように装い、購買者の「科学的な根拠がある」と云う誤認を故意に誘う
前のエントリで書いたことについて、さつきさんからpoorさんへのお返事(「解題」の解題)と云うお返事をいただいたので、ちょっと書いてみる。ちなみになんだか逐語的なお返事だったので、ちょっとこっちの書きかたも散漫になるかも。 ニセ科学批判者、と云うことばが使われていた時期があって。まぁ当時はほかに適切な用語が思いつかれていなかった、と云う事情もあったのだけれど、ぼくを含めて違和感を持つ人間も相応にいて。ニセ科学に対して批判的な言説をなすことが自分自身を(あるいは他者を)ある分類に押し込める、と云うのもどうかなぁ、と云う感覚。べつだん用語化しなくてもいいじゃん、なんかべつの意味合いも帯びてきちゃうこともあるみたいだし、そう云う立ち位置にいる論者が特定のひとつのスタンスに立っているわけではないし、なんて感じて、ちょっと長いけど「ニセ科学に対して批判的な言説をものす論者」みたいな書きかたもしていた
ここをあまり更新しなくなってからもうだいぶ長くなる。なので、ここでなにかを書くことがいくらかの注目を集めることは(以前と比較して)相当に少なくなった。なので、すこし気負わずに書いてみよう。 さつきさんの「ニセ科学撲滅運動」が「ニセ科学」に堕した5年 と云うエントリを読んだ。 命名をする。略語を与える。キャッチフレーズをつくる。――こう云う行為を行った瞬間に、そのことばはそれが本来指し示すべく意図された、本来はある程度の広がりと複雑な背景を持つ文脈をある程度離れ、独自のニュアンスを獲得しはじめる。 このことが命名をしたものにとって望ましいことである場合も、そうではない場合も両方ある。 たとえば「ニセ科学」と云う言葉は、そもそもが価値判断を含んだ言葉で、最初から取扱注意なところがある。なので、指し示す射程が広がらないよう、比較的注意深く論じられてきた経緯が存在する。もちろん論者によって、そのあ
ublftboさん(てかTAKESANさん、のほうが呼び慣れてるけど)の大雑把な菊池さんと云うエントリを読んだ。基本的には、お書きのことに同意。 ちょっと前のエントリのコメント欄で技術開発者さんとお話ししたこととも絡んではくるんだけど。 SNSにはそれぞれ性格があって。例えばFacebookは、仕様にある程度の同調圧力が仕込まれている。ある投稿に同意を示すことが極端に簡単だし、逆に不同意を示すと、それはまずもとの投稿者の「友人」の目に届く。だれしもが自分の意見への反論には(それがどれだけ正当な意見で傾聴すべきものだと理解していても)まず不快感を感じるし、おおやけの場かつ自分の身近な人間の目に触れるところで反論されることそのものを恥とか人格否定に受け止めてしまうひとも少なからずいる。じゃあFacebookのなかじゃなくてもっと別の場所でやればいい、と云う話にもなるけど、それは単純に迂遠だ。
「科学者ヘイト」 - Togetterまとめを読んだ。 まず片瀬さんがひどいめに遭ったのは知っているし、そのことでどれだけ傷ついたかも知っている(と云うか、そのへんはこちらのエントリのコメント欄で直接お話をしている)。語義通りのヘイトを向けられる状況があった、と云う認識に異論はない。片瀬さんに貼り付けられたいろんなレッテルのなかでもたぶんいちばんひどい「エア御用」と云うことばについては、こっちやこっちやこっちで書いている。 そのこと自体は、等閑視されるべきことだとは思わない。とは云えぼくもニセ科学の問題について論じてきた人間としての立場から、上に挙げたエントリでは片瀬さんにあまりやさしい言葉はかけていないけどね。 でまぁ、前置きは前置きとして。 科学者である片瀬さんに向けられたヘイトを、それゆえに「科学者ヘイト」と呼ぶのは、適切ではないと思う。それは、主語が拡大されすぎている。 ヘイトを含
たいていのファンタスィ、そしておそらくたいていのRPGにおいては、「知る」ことをエンジンにして冒険が駆動されていく。 地形や伝説を知ることにより宝物を見つけ、相手を知ることにより戦いに勝ち、魔法の原理を知ることにより呪いを解く。そうして、主人公たちは勝ち(あるいは負け)、理不尽な環境から開放される(あるいはとどめおかれる)。もちろん勝つために、開放されるために必要なのは知識のみではなく、主人公たちのいろんなスキルや判断力、その状況で必要とされるアイテムがそろっているか、なども重要なのだけれど、すくなくともそれらを役立てるための知識を入手することはつねに必須だ。 でまぁ、これはある意味ぼくらの人生そのもので。すぐれたファンタスィやRPGがぼくらに与えてくれる感動も、これらの構造がぼくらの実生活のアレゴリーとして適切に用いられていることから来る部分が大きいと思う。 理不尽な状況に投げ込まれた、
熱心な読者、とは云えないと思うけど、ぼく個人にとっては川端裕人は古川日出男とおなじくらいに重要な作家。ここで書いた彼の著作物についての書評めいたものはこちらで読めるけれど、書評を書かなかったものを含めるとだいたいこの3倍くらいは読んでいるかな。 で、その川端さん(作家としては呼び捨てだけど、ブロガーとしてはさん付けになっちゃうね)が自著をプレゼントしてくださる企画を実施されていたので(こちらのエントリですね)、手を挙げたらサイン付きで送付いただいたのがこの本。 川端裕人の小説の重層性については、以前も書いた。これは「ニコチアナ」のような、複数の登場人物の行動を追うような物語だととりわけ顕著に感じられるのだけれど、それはただ単に多くの登場人物の行動が重なり合って物語が展開するから、と云うわけではないように、ぼくは思う。 視点の置かれかたなのか、それともいっそ文体そのものに由来するものなのか。
例によってほぼリンクしたいだけのエントリになるけど。アクアマリンふくしまの復興日記の復興ブログの終了についてと云うエントリを読んだ(7月いっぱいで公開を停止するみたいなので、ちょっと悩んだけど魚拓へもリンク)。 本題である生物多様性に関する問題、と云う部分については、残念ながらちゃんと論じるだけの素地がぼくにはないので、元のエントリに書かれていることに付け加えられることもないのだけれど(かなうものならば、梨さんの力を借りられないものか)。 「生物多様性」の問題とは別に私が問題だと思っているのは「ホタルは0.5μSv/hの放射線を浴びると光らなくなる」と主催者は主張し、ホタルが復興に結びつくと信じてプロジェクトを行っている点です。現状東北のこの界隈の人間はどんなことでもやって収益に結び付けないと喰っていけない、みたいな身もふたもない現状もあって(こっちでも書いたような話)。詳細は勘弁してもら
KoshianXさんの日本人は自らの宗教性にいいかげん気付くべきと云うエントリを読んだ。 こうした信仰は民間でなんとなく親から子へ、地域から地域へと伝播してるもので、特定の宗教団体がまとめあげてるものではない。それがゆえになんとも言えぬカオス状態になり、まったく秩序立たない宗教性がそこかしこに見られるようになっている。ここで秩序立たない宗教性と云うものはたぶんこのブログ(および議論を共有してきたひとたちが管理するいくつかの場所)では「呪術性」と呼ばれたり、「人間の基本仕様」と呼ばれたりしてきたものなのだろう、と思う。ぜんぜん厳密に用語を使ってきたわけじゃないけれど、ここではぼくはそれらのなまの要素が一定の秩序によって整理され、ある程度整備された有用性を備えた状態になったものを「宗教」と呼んできたと思うので、その意味で秩序立たない宗教性と云ういいまわしにはちょっと違和感があるのだけど、まぁそ
WEDGE Infinityに掲載された、大阪大学CSCDの平川秀幸准教授による市民が「科学」に口を出せるか 福島原発事故から考える「科学技術コミュニケーション」と云う記事を読んだ。 この記事で書かれている内容、議論は、全体としては特段おかしなものではない。必要な議論だし、必要な問題提起だと思う。それでも端々に、どんな意図があってこんな記述になっているんだろう、みたいに感じる部分がある。どのようなかたちのインタビューで、どのように編集されたものであるのか、がわからないので、ちょっとへんかも、みたいに思える部分が果たして平川准教授の責任であるのかどうかははっきりしない。はっきりしないけど、気になるのでちょっと触れてみる。 2ページ目にあるこの部分。 例えば、今回の放射能汚染で「ゼロリスク」を求めるな、という専門家がいます。市民からすると、「ゼロリスク」=「今回事故以前の状態」に戻してほしいと
onkimoさんの最近忙しくてブログを書けないのがと云うエントリを読んだ。 原則お書きになっていることに異論はなくて、だからこれから書くことは賛同でも反論でもなくて。なんと云うか、自分がどんなふうにとほほな気分になっているのか、と云う話。 その私が togetter記事に抱いた感想。それは、少数例だけから STSを使えないものとしてしまうのは、ちょっとどうかな、ということです。春日匠さんとあららさん、あと平川さんもかな、そんな少ないサンプルから STS全体を否定するのはやめた方がいいのではないか、と。これってこっちのエントリのコメント欄でTAKESANさんにも釘を刺された部分、ではあるんだけど。 でも例えばこの状況で沈黙を守っている科学技術社会論の専門家、って云うのもどうなんだろう、と思う。そう云うひとたちの、専門職としての出番はいったいいつなんだろう。 いやもちろん、こんなふうに思ってし
goyo-gakushaさんの__pon_さんがうまく整理してくれたと云うエントリを読んだ。 ちなみにこの__pon_さんと云うのは、こちらのエントリで言及したエントリをお書きのp__o__nさんとおそらく同じかた(ハンドル名とアイコンイラストと発言内容の類似から判断)。なので、ぼくのいまの時点でのこのかたに対する印象は、ニセ科学・疑似科学の害悪よりもその有効性を評価するスタンスであり、しかも自分の発言について対話することを好まない(自分の言説についてさしはさまれた疑義に対して言論で向き合おう、と云う姿勢をお持ちでない、要は云いっぱなしを好む)かた、と云うもの。なにしろご自分のハンドルネームのアンダースコアについて以外、なにも反応してくれなかったし。 先に書いておくと、原発は廃絶すべきだと思ってるけど、「廃絶しろ!」って声を上げていれば明日にはなくなってるようなものには思えないので、(うか
sionsuzukazeさん(でいいのかな)の陰謀論とエア御用論と云うエントリを読んだ。 まぁこの「エア御用」と云うことばについては、それがその呼称を当てられた対象者を漠然と誹謗する以外の機能をもたないことばである、と云う点について、黒猫亭さんが「エア御用」考と云うエントリで述べてらっしゃるのだけれど。 批判、であればその批判が正当かどうか判断するにあたって依拠する基準が提示されている必要が当然あるのだけれど、要するにそこを明確に示すことを回避することで批判のかたちを借りた誹謗を汎用的におこなうことができるように設定され、運用されていることば(原発業界御用学者リストのエア御用とは?のページを読んでも、特定の意図にもとづいていくらでも拡張できるような散漫な定義が並んでいるだけ)。例えば、政府の各種諮問会や委員会における「民間委員」と呼ばれるものは、多くの場合「まるでお飾り」であることは過去に
kasokenさんのモヒカン族と科学原理主義と云うエントリを読んだ。 ちなみにぼくはこのかたの著書を(自腹で買って)読んでいて、そのときのレビューはこちら。 「いわゆるモヒカン族と科学原理主義(ここでは疑似科学叩きに懸命な人としておく)は異なるクラスターだという感覚があるのだけど、自分にはその違いの要素が見いだせない」まずなんで疑似科学叩きに懸命な人を科学原理主義と呼ばなきゃいけないのか、なんのためにそう称するのかがよくわからない(でもどうしてもそうお呼びになりたいようで、難しいから安易に使ってはいけないとかいちおう、括弧付きにしておくとかしきりにエクスキューズをつけながら最後までお使いになっている)。よくわからないけれど、科学原理主義と云うことばは(「科学教徒」とおなじく)漠然とした揶揄をこめてレッテルを貼る以外の用例をみたことがないので、疑似科学叩きと云うフレーズと組にしておいてそう云
今週末の仙台はジャズフェス、なんだけれど、その真っ最中にまさにその会場(とは云え街の中心部はもれなく会場になるわけだけど)で、反原発のデモが予定されているらしい。それもふたつも。こいつらとこいつら。 お願いです。勘弁してください。 そりゃ今年のジャズフェスも例年のごとく70万人やそこらの人出はあるだろうさ。東北六魂祭の顛末からしても、もっと大勢のひとたちが見に来るかもしれない。あえてこの日、この場所を選ぶのは、そこを当て込んでのことなんだろう。そこはわからなくもない。 でも、そのひとたちになにを伝えたいんだ? この日に音楽を奏でること、それを聴くことを楽しみにしてきたひとたちに。そしてその場を今年もつくることに努力してきたひとたちに(一般的な反応についてはTogetterにリンク)。 前者はどうやら主催が、いまだに東北大学に巣食っているらしい某極左団体らしい。後者はなんか、ラヴ・アンド・ピ
九州大学の古賀徹准教授の非科学的な非科学狩りと云うエントリを読んだ。 先に言い訳しておくと、ちょっと感情的になりそうなのであまり親切に、丁寧に書けないと思う。 科学的に効果が証明されていない物質を摂取することで、より適切な手段がとられないなど、別の害が生じる可能性は存在する。しかしそれは、二つの手段のうちどれが可能性としてより適切かという比較の問題である。前者より効果的だと予測される手段があるのにそれが採用されていないという批判なら分かるが、前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判は、多くの場合それ自体非科学的だといえよう。このひとは、ではどうすれば二つの手段のうちどれが可能性としてより適切かという比較の基準を共有可能にすることができる、と考えているのだろう。「非科学的」だからその手段をとるべきでないと云う基準を置くことは、まさに個人的な経験の範囲を超えて共有することので
正直に云うと、書けなくなっている。と云うか、身近にあって話題的に個人的な感想の域を出ずにすむものについてはいくらか書けたりはするのだけど、すこしそこから離れて、「情報の受け手」としてのスタンスでなんらかの意見を述べる、みたいなものは難しい。複数の原因があって、いまいる自分がそれほどパワフルではない、と云う話なのだけれど、口を開くことで背負いきれないものが生じる可能性のあることがらについては、結局こわくて口をつぐむことになる。 まぁ、ぼくごときが口をつぐんでいても大勢に影響はないのだけれど、そんな状況のなかで榎木英介さんのコミュニケーションを担うのは誰かと云うエントリを読んだ。 この状況で口を開くのはおそろしい。その意味で、例えばこの状況をビジネスチャンスとして活用する気概と極太の神経を見せつけてくれるニセ科学商売のみなさまには若干感服しないでもないけど、まぁそれはこの分野の周辺に遍在する本
斉藤和義とか云うミュージシャンがうたっている「ずっとウソだった」と云う曲を聴いた。 個人的にはロックを聴く機会と云うのはずいぶんと減っていて。 自分の出身地の悪口を云うようでなんか居心地がわるいんだけど、そもそもロックみたいなかっこわるい音楽を聴きつづけなきゃいけない理由なんて云うのはひとはそれほど持ち合わせてはいない。それでもそのなかに時折垣間みることのできる、なんと云うか刹那のかっこよさ、みたいなのを探すのがおおむねロックを聞く理由だったのだけど、それも(とりわけBlankey Jet Cityが解散して以来)とりたてて個人的には必要なものではなくなっていて。まぁそれでも本籍地には違いないので、ロック的なイディオム、みたいなものにはそうとうに敏感なのだけれど。 なにが云いたいかと云うと、世に云われる「これはロックだぜ!」みたいなのは、もう特段褒め言葉には聴こえない、と云うこと。この云い
仙台市在住らしいJumiさんの放射線から身を守るために味噌を食べよう!と云うエントリを読んだ。 今回の東日本大震災に便乗して各ホメオパシー業者がどんな行動に出ているか、と云うことについては、mochimasaさんが震災に便乗するホメオパシー提唱者たちと云うエントリで概観している。これは3/12付のそうとう早い段階でのエントリなので実際の行動には触れていないけれど、日本ホメオパシー医学協会の報告によると、由井寅子氏ご本人が4/2の土曜日に仙台に来て、若林区の津波被災地で砂糖玉撒いたり記念撮影したりポエムを読んだりしてたみたい(このポエムが、さすがの悪趣味なぼくでも引用をためらうような代物)。 でもってそのあとホメオパシー信奉者を集めて講演会があったらしくて、その内容についてのブログエントリがだんだんあげられ始めている。上でリンクしたJumiさんのエントリはそのひとつ。 さて、タイトルの放射線
ニューエイジやある種の市民運動がニセ科学やある種の代替医療と親和性が高い、と云うのは、この問題に一定以上の期間コミットしている論者ならなんとなく実感している部分かと思う。ついでに陰謀論もセットになってたりしますね(そう云えば3月13日には、きくちゆみ vs. 菊池誠のガチ討論が期待される911事件を検証する公開討論会も予定されているのだった。ぼくとしてはきくまこができるだけ小綺麗にして討論に臨んでくれることを希望するのみ)。 どうもなんかそう云う言説がちょっと目につくなぁ、みたいに思っていたら、てんつくマンとか云う元お笑い芸人が、そのあたりに触れたメールマガジンを配信していたみたい。内容はメールマガジン配信サイトのバックナンバー、てんつくラブレター~衝撃的な情報の巻~とてんつくラブレター~医療改革パート2のネタの巻~でその内容が読める。 このてんつくマンって云うのは典型的な「善意と熱意があ
ホメオパス助産師のK2シロップ不投与による乳児死亡事件に関する民事訴訟が和解に至った、と云う報道があった。 たいていこう云うコミットしてきた議論について触れるときには、自分が過去にどんなことを云ってきたかを示すために関連する自分のエントリへのリンクを置くのだけれど、この訴訟そのものに触れたエントリはどうやら書いてないみたいだ(多くのひとがお書きになっていたので、ぼくはいいかな、とか思ったんだろうな。事件そのものについては琴子の母さんのエントリに言及してこちらで触れたりしてるけれども)。 生後2カ月の長女が死亡したのは、ホメオパシーという民間療法をする助産師が適切な助産業務を怠ったためだとして、山口市の女性(33)が助産師を相手取り、約5600万円の損害賠償を求めた訴訟で、助産師側が女性に和解金を支払うことで合意したことが21日、分かった。和解金は数千万円とみられる。訴訟に及んでの、原告の女
ホメオパスの片上敦子さんの、久しぶりに体験談です!と云うエントリを読んだ。このかた、以前に一連のバッシングについて(^ー^)と云うエントリでホメオパシーへの批判に対して悲しいかな世の中お金の力は強いです。とか書いていたひと。 で、その体験談ってのがエントリの最初に書いてある。7歳の女の子がホメオパシーで予防接種デトックスした、と云う内容。で、ここではその内容は引用しない。なぜかって? 読むだけでもつらいんですよ。感覚的に。 非常においららしくなくてお読みのかたには笑われてしまいそうだけど、こう云うのに対する耐性はそもそも低いらしい。この女の子にみられる症状がなんなのかぼくにはわからないけど(だからたいしたことではない可能性ももちろんあるけど。連続9日の高熱や鼻血や耳からの膿がたいしたことではないようにはぼくには思えない)、たぶん状況としては今日のNATROM先生のエントリにある広義の医療ネ
ソフィア&レインさんのホメオパシーは宗教ではないと云うエントリを読んだ。 宗教、と云うものの定義は文脈によってさまざまあると思うけれど、「科学と宗教」と云う対立軸を仮に置いて比較した場合、あるものが宗教である、とされるのは、根底にある不合理を許容する、と云う要素がある場合だと思う。なので、宗教には(最終的には)証拠は必要ない。単に、信じる、だけで事足りる。そしてそれは宗教と云うものの瑕疵ではないし、それゆえに必要とされることもあれば、役に立つこともあるのだと思う。だから「宗教っぽい」みたいな言い回しが否定的な意味を帯びるのは、それはそもそも宗教的であってはいけない、宗教っぽかったらまずいもの、に対してだけで。医療とかね。 ホメオパシーがカルトだと思われている方は多いようですね。 カルトという言葉をニュースで使っているのでしょうかホメオパシーをカルトと断ずるような報道を、ぼくはまだ見かけたこ
なんかホメオパシー関連のエントリがここのところ多くて、自分でもどうだかなぁ、と云う気になってきたので、まとめでもないけど伝えたいことを。ホメオパシーを利用しているかた、利用しようかなぁとか思っているかたを架空の「あなた」として、そのひとに向けて「考えてほしいこと」を語ってみる。 ホメオパシーは「効く」こともあります。じっさいにご利用のかたで、ホメオパシー(レメディ)が「効いた」と云う体験をしてらっしゃるかたは、すくなからずいらっしゃるのだと思います。体験、と云うか、実感ですね。でもこれは、レメディが体調になんらかの効果を及ぼして、実感できるような結果になった、とは必ずしも限らないのです。 ひとつには、実感、と云うもののあやふやさ、があります。どんな症状もずっと同じ状態が続くわけではなく、振り幅の大小はあるにせよ改善と悪化を繰り返します。改善の過程でレメディを摂ったら「効いた」と感じるでしょ
薬剤師兼セラピスト、でいらっしゃるらしいあやさんの、代替療法と云うエントリを読んだ。 そこで代替療法を行う場合は、素人が行うのではなく、プラクティショナー(専門家)に必ず見てもらう必要があると思います。 勝手に使うと大変なことになる場合があります。 プラクティショナー(専門家)は、その分野に関してしっかりした知識があるはずです。ある程度の医学的知識もあると思います。 そのためにプラクティショナー(専門家)がいるのですから。おっしゃることはわかる。 ぼくたちの生活は、そこに専門家の介在がないと成立しない。と云うか、各自がおのおの専門家であり、その専門性に応じて役割を分担することで総体としてコストを下げ、生活の水準を底上げする、と云うのがぼくらの暮らす社会のしくみだ。 じゃ、その専門家の専門性の裏付け、と云うのはどこから生じてくるのか。 何度か書いているので細かいことは書かないけれど、こと医療
# 誤記があったためタイトルを修正しました。 和田みき子さんのホメオパシー問題についてと云うエントリを読んだ。このかたは助産師さんで、『1920年代の都市における巡回産婆事業――経済学者、猪間驥一の調査研究を通して――』 と云う論文で第4回河上肇賞の奨励賞を受賞してらっしゃるよう(なので昔の、いわゆる「自然なお産」の実情についても造詣の深いかたのよう)。 ここのところの朝日新聞を中心としたホメオパシー報道で、きっかけとなった(と云ってもいいと思う)助産師のみなさんとか助産師会がどう思ってるのかな、みたいには思っていたんだけど。 私自身はすでに開業をやめ、日本助産師会の会員でもないのですが、この問題は助産師全体の問題として受け止めており、東京都助産師会(この4月から法人化して、「日本助産師会東京都支部」から独立した組織となった)のトップにある人と、この間、意見交換をしてきました。 彼女も、ホ
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