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マリー・アントワネットと子どもたち(1785年頃、アドルフ・ウルリッヒ・ベルトミュラー画) 実家からも見捨てられ 1793年1月、夫ルイ16世が処刑されたことによって、元王妃マリー・アントワネットは、「未亡人カペー」となりました。 国王をギロチンに送った国民公会も、この時点では、彼女まで処刑しようとはしていませんでした。 むしろ、戦争中の敵、ハプスブルク家オーストリアの人質になるかも、くらいに考えていたのです。 しかし、彼女の甥、皇帝フランツ2世は、無情にも、叔母を助けるいかなる手立ても打とうとしませんでした。 わずかに、王家の復活に望みをかける貴族が、彼女とその息子「ルイ17世」を救い出そうと陰謀を巡らしましたが、失敗に終わったどころか、逆効果となりました。 王は処刑しましたが、後継者がまだいる重大さに、革命政府は気づいてしまったのです。 引き離された息子 王太子ルイ=シャルル(ルイ17
ルイ16世の裁判 運命の、国王裁判 1792年末から、国民公会では、元国王、ルイ16世の処遇についての議論が戦わされていました。 国民公会は間接選挙ながら男子の普通選挙で選ばれた議員で構成され、立法機関であるとともに、諸委員会には執行権もあり、行政機関でもありました。 この、三権分立になっていない体制が、権力の集中を生み出し、恐怖政治を可能にしたのです。 議会は、国王を擁護する王党派とフイヤン派、裁判に慎重なジロンド派、処刑を求める山岳派(ジャコバン派)に分かれていましたが、若いジャコバン派の活動家、サン・ジュストが『国王であること自体が罪なのだ』と演説すると、大勢は国王有罪に傾いてゆきます。 1793年1月15日より、「市民ルイ・カペー」の処遇についての投票がはじまります。 1回目の投票は「有罪であるか否か」で、定数749の議員のうち、賛成693、反対28(欠席23・棄権5)で、結果は有
ミシェル・バーテルミー・オリヴィエ『コンティ公のお茶会』(1766年) フランス王と因縁の騎士団 フィリップ4世 〝元〟国王一家が幽閉された「タンプル塔」は、中世、十字軍に伴って結成された騎士修道会のひとつ、「テンプル騎士団」の城でした。 第1回十字軍が聖地エルサレムの占領に成功したあと、巡礼者を保護するためにフランスの騎士たちで結成。 本部が、かつてソロモンの神殿があったと伝わる「神殿の丘」におかれたため、「神殿騎士団」「聖堂騎士団」ということで、その名がつきました。 その後、聖地はイスラム教徒に奪回され、厳しい情勢が続きました。 テンプル騎士団は、聖地奪回のためには資金が必要、ということで、所領をどんどん広げていきます。 また、金融機関としての側面ももち、巡礼者が大金をもつのは危険なので、ヨーロッパで現在の通帳のようなものを発行し、中東についたら騎士団の役所で現金が引き出せる、というサ
スイス:ルツェルンの「瀕死のライオン像」 どんどん過激になる革命 国王一家が変装して国から逃亡するという、前代未聞のヴァレンヌ事件は、王の運命を決めただけでなく、歴史の画期となりました。 この事件がなければ、フランスは今でも王国だったかもしれません。 EU体制となった今でも、ヨーロッパには数多くの王国があります。 英国(EUから出てしまいましたが)、オランダ、ベルギー、スペイン、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー。 小さい君主国、ルクセンブルク、モナコ、リヒテンシュタインもあります。 この逃亡事件で信を失ったのは王家だけでありません。 国民議会を構成していた貴族や裕福な市民は、王権に制限をかけ、王が絶対権力を奮って自分たちの権益を侵害することさえなくなれば満足で、王政そのものまで無くすことは考えていませんでした。 しかし、この逃亡は、もともと権益など持っていない労働者階級の怒りに火をつけ
「ヴァレンヌ事件」パリに連れ戻されるルイ16世一家 王妃の密かな決意とは 1789年10月5日に起こった「ヴェルサイユ行進」で、パリに連れてこられたフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット一家。 かつて絶対王権を奮った太陽王ルイ14世の居城、華麗なるヴェルサイユ宮殿から、パリ市内の旧王宮、蜘蛛の巣の張ったチュイルリー宮殿に、国王が民衆によって「拉致監禁」されたのは、フランス始まって以来の大事件でした。 誇り高いハプスブルク家の出身、マリー・アントワネットにとって、これは耐え難い屈辱でした。 これまで、母帝、兄帝や忠臣たちの忠告もきかず、やりたい放題で、放蕩三昧、贅沢三昧だった彼女は、それこそ王家の権威を失墜させていたのに、急に、その権威を守るために必死になってきたのです。 革命という危機は、ある意味、この女性を大きく成長させ、大人にしたとも言えます。 彼女は屈辱の中で、ベルギーに
フランス人権宣言(ジャン=ジャック・フランソワ・ル・バルビエ画) 人類が到達した、偉大なる宣言 1789年7月14日。 パリ市民が、絶対王政の圧政の象徴であったバスティーユ監獄を陥落させ、フランス革命の火ぶたが切って落とされました。 7月14日は、フランス共和国の建国記念日であり、「パリ祭」として今でも祝われています。 ただ、バスティーユ襲撃は、まだ法的な意義、評価がされない間は単なる反乱、暴動であり、パリの争乱はフランス各地に広がってゆきました。 地方の農民や都市民が在地の第一、第二身分を襲うという、無秩序なパニック状態となってしまいました。 「大恐怖」といわれています。 立憲国民議会はこの事態を収拾するため、8月4日夜に「封建的特権の廃止」を宣言。 中世以来の領主裁判権やカトリック教会の十分の一税を廃止、租税負担の平等、市民への公職開放、農地を領主から小作民に買い戻すこと、などが定めら
バスティーユ襲撃(ジャン=ピエール・ウーエル画) 財政破綻しても、免税の人々 第三身分に乗っかる第一、第二身分 いよいよ、世界史上の一大画期、「フランス大革命」の足音が迫ってきます。 世界史の教科書と同じ話になってしまいますが、当時のフランス絶対王政は、のちに旧制度(アンシャンレジーム)と呼ばれます。 中世以来のフランスは、第一身分(聖職者)、第ニ身分(貴族)、第三身分(平民)にはっきり分かれた「身分制社会」でした。 そして、第一、第二身分は免税特権を持っています。 18世紀後半、フランス王国は財政破綻に瀕していました。 革命直前の1788年には、国の負債は利子の返済だけで歳出の半分に達していたのです。 負債の原因は、度重なる戦争による軍事費でした。 覇権を英国と争い、百年にわたって戦いと講和を繰り返す「第二次百年戦争」は、結果的には総じて敗けでした。 海外植民地を失いこそすれ、領土や賠償
「首飾り事件」の首飾りのデザイン画 「首飾り事件」の発覚 1785年夏、王妃マリー・アントワネットは、ボーマルシェ作の喜劇『セビリアの理髪師』を、プチ・トリアノン宮殿の自分専用の劇場で、自ら上演するのに夢中になっていました。 ベルタン嬢にコスチュームを作らせ、コメディ・フランセーズの演出家を呼んで、演技指導を受け、稽古に励んでいました。 ところがある日、首席侍女のカンパン夫人が稽古に遅刻してきました。 どうしたの、と問うと、トラブル発生です、という報告。 出入りのユダヤ人宝石商人ベーマーがやって来て、『王妃が分割払いで購入した非常に高価なダイヤモンドの首飾りの支払いがないので、このままでは破産です』と泣きついてきて、王妃様に謁見を求めています、とのこと。 マリー・アントワネットは首をかしげます。 そんな首飾りなんか買った覚えがないのです。 そういえば、ベーマーは以前、ルイ15世がデュ・バリ
『セビリアの理髪師』の一場面 「フィガロ三部作」の第一作 1772年、ボーマルシェは、かつて妹の名誉を救うために滞在し、元婚約者と裁判で闘った地、スペインでの体験をもとに、オペラ・コミック『セビリアの理髪師 または無益の用心』を書きました。 これがイタリア劇団から上演を断られたあと、喜劇として作り直し、コメディ・フランセーズに持ち込みました。 いったん上演が決まったものの、ボーマルシェはショーヌ公爵やグズマン判事との係争を抱え、当局からトラブルメーカーと目されて上演は禁止。 その後、王の密使としての仕事が忙しく、この作品は放っておかれましたが、1775年にようやく初演ができました。 なかなか上演できなかった〝訳あり〟の前評判もあって、客入りは上々でしたが、初演は失敗。 ボーマルシェは、上演の間際になって、なぜか突然4幕の原作を5幕に改変したところ、冗長になってしまい、観客が飽きてしまったの
ヨークタウンの戦いでフランス軍(左)、アメリカ軍(右)に降伏する英国コーンウォリス将軍 風雲急を告げる新大陸 王や王妃のスキャンダル暴露防止のため、王の密使となって度々英国に乗り込んで活動したボーマルシェ。 彼が次にのめり込んだのは、なんとアメリカ独立の支援でした。 『セビリアの理髪師』『フィガロの結婚』の作者が、ここまで歴史に食い込んでいたとはあまり知られていないでしょう。 当時、フランスは七年戦争で英国に負け、特にアメリカ新大陸の植民地をかなり英国に奪われてしまいました。 また、ドーバー海峡に面したフランス領、ダンケルク要塞の破却も、パリ講和条約で決められ、さらに英国監視官の常駐まで認めさせられていました。 山師ボーマルシェは、フランスの国益=自分の利益と考えていたので、なんとか英国に打撃を与えたいと考えていました。 1773年、茶法によって、英国東インド会社が直接アメリカ植民地に紅茶
ボーマルシェ 国王最後の愛人のスキャンダル グズマン判事と自分との裁判について、そのいきさつや経過を逐一出版して、世論を味方につけたボーマルシェ。 結果、パリ高等法院で勝訴を勝ち取ります。 そして一躍、ジャーナリストのような有名人となります。 そんなボーマルシェに、なんと国王ルイ15世から密命が下ります。 王は、出版という危険な手段で世論を操作するボーマルシェに危険を感じていましたが、逆にその力を利用しようと考えたのです。 すでに晩年となっていたルイ15世は、デュ・バリー夫人を最後の愛妾にしていましたが、ロンドンに亡命したモランドというフランス人が、ふたりのスキャンダルを書いた文書を出版する、と、夫人を脅してきたのです。 フランス王の愛妾は「公妾」という公然のものでしたので、そんな「文春砲」など怖くないはずですが、猥褻な内容らしく、娼婦出身の夫人ではありますが、自分の名誉のためにも「何とか
プチ・トリアノンの「王妃の劇場」 王妃の作った「演劇部」 1779年、王妃マリー・アントワネットはお芝居づいていました。 パリのオペラ座でやっている演劇やオペラを、自分とその取り巻きで上演しようというのです。 さながら、自ら部長を務める「宮廷演劇部」を創る、といった感じです。 音楽好きのハプスブルク家では、先祖の〝バロック大帝〟レオポルト1世が自らオペラを作曲、オーケストラを指揮、また時には舞台に立つほどで、その子孫たちも、祝い事などでの余興で演技をすることはよくありました。 皇帝ヨーゼフ2世の再婚の祝典オペラでは、弟レオポルト2世が指揮し、妹マリー・アントワネットも舞台に出ました。 そして拍手喝采を浴びた体験が忘れられず、演劇の本場フランスでもやってみたい、と思ったのでしょう。 そして、自分の城、プチ・トリアノン宮殿に、これまた自分専用の劇場を造ろう、と思いつきます。 ヨーゼフ2世再婚記
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『自画像』(1781年) 宮廷画家が語る、王妃の気さくな優しさ エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが最初に王妃マリー・アントワネットの前に通されたとき、彼女は緊張に震えました。 しかし、王妃が優しく話しかけてくれたお陰で、緊張はすぐに解けたそうです。*1 ルイーズ(ヴィジェ・ルブラン)は回顧録で『お妃様に会ったことのない人に、優雅さと高貴さが完璧な調和をなしているその美しさを伝えることはむずかしい。』と述懐しています。 1783年から87年にかけて、ルイーズは王妃の肖像画を4枚書きましたが、王妃は彼女が美しい声の持ち主であることを知ると、当時オペラ・コミックの大家としてヒット作をガンガン飛ばしていた作曲家、グレトリの作品を一緒に歌ったということです。 あるとき、妊娠中のルイーズは王妃の絵を描く約束の日に、つわりがひどく、ヴェルサイユに行けなかったことがあ
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『白いサテンのパニエ入りのドレスに身を包むマリー・アントワネット王妃』(1778年) 仕切り直した王妃の肖像画 ジャン=バティスト・アンドレ・ゴーティエ=ダゴティが描いたマリー・アントワネットの肖像画『盛装するマリー・アントワネット王妃』が、王に対して不敬であると、散々な評判だったことは前回取り上げました。 宮廷では、新しく王妃の肖像画を制作することにし、画家として、女性画家のエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)に白羽の矢を立てました。 出来た作品は、『白いサテンのパニエ入りのドレスに身を包むマリー・アントワネット王妃』。 この絵の王妃は、大きなダチョウの羽のついた帽子を被り、パニエの入った白いサテンのドレスを着ています。 画面右手には、正義の偶像が刻まれた台の上、王妃の頭上のずっと高いところにルイ16世の胸像が置かれて
ルイ16世、マリー・アントワネットの長女、マリー・テレーズ・シャルロット(通称マダム・ロワイヤル) 実を結んだ、兄の忠告 マリー・アントワネットの物語に戻ります。 兄の神聖ローマ皇帝、ヨーゼフ2世がパリに来訪し、妹である王妃マリー・アントワネットには贅沢三昧、娯楽三昧の生活を改めるように、とお説教。 その夫、義弟であるフランス王ルイ16世には、子供を作れるよう、手術を受けるように勧めて、帰国します。 妹への説教はあまり効果はありませんでしたが、義弟への勧告はすぐに功を奏しました。 素直な国王は、義兄のセンシティブな忠告に従い、ついに手術を受けたのです。 その結果、この新婚7年目の夫婦は、ようやく完全な夫婦となりました。 この、本来は夫婦だけの秘密事項は、各国大使によって全ヨーロッパに伝えられました。 その日付は1777年8月25日ということまで明らかになっています。 しかし、夫婦のすれ違い
母を殺したオレステスを責める復讐の女神 トロイア戦争の結末 マリー・アントワネットゆかりのオペラ、グルックの『トーリードのイフィジェニー』。 ギリシャ神話に基づいた物語は、いよいよクライマックスです。 イピゲネイア(イフィジェニー)の実家、ミケーネ王家では、彼女が遠く離れたタウリス(トーリード)にいる間に、凄惨な事件が起きていました。 まだ、イピゲネイアは知る由もありませんが、悪夢から、不吉な予感に苛まれています。 いったい何が起きたのでしょうか。 イピゲネイアが犠牲になることによって、ギリシャ軍の大船団は、トロイアに向けて出帆することができました。 しかし、トロイア戦争は実に10年もかかったのです。 それは、オリンポスの神々が、てんでバラバラに、ギリシャ側、トロイア側に味方したり、途中で見限ったりしたのも原因のひとつでした。 日本の応仁の乱で、足利将軍が風向きによって、西軍についたり東軍
プチ・トリアノン宮殿 夫王から「宮殿」のプレゼント 即位からしばらくして、20歳のフランス国王ルイ16世は、19歳の王妃マリー・アントワネットに、プレゼントをあげます。 それは、ひとつの「宮殿」。 プチ・トリアノンです。 ただ、宮殿といっても、大きさはそれほど豪壮なものではなく、8つの居室にダイニングルーム、大小の客間、寝室に浴室、そして小さな図書室といった間取りで、現代のセレブでも持っているような「豪邸」といった規模です。 もともとは、先代のルイ15世が公妾ポンパドゥール夫人のために建設し始めましたが、完成前に夫人は逝去してしまい、新たに愛妾となったデュ・バリー夫人に与えられました。 居住のための宮殿というよりは、王が愛人との情事を楽しむために作られた、ラブホテルのような施設でした。 例えば、食事の際に召使いを遠ざけるため、地下の台所から、セッティングされたテーブルがそのままダイニングル
イピゲネイアに扮したマリー・アントワネット 王妃になった喜びを隠せない娘 先代のフランス王、ルイ15世が世を去り、ついに王妃となったマリー・アントワネット。 義祖父の死を、オーストリアにいる母帝マリア・テレジアに知らせる手紙には、前半には悲しみが綴られているものの、後半は、晴れて王妃となった喜びが隠し切れていません。 マリー・アントワネットからマリア・テレジアへ 1774年5月14日 愛するお母様 私たちの不幸にまつわるもろもろの事柄につきましては、メルシーがご報告いたしたことと存じます。この恐ろしい病気は、幸いなことに最後まで陛下の理性を曇らせることはなく、ご臨終は神への帰依の心を強固にさせるものでございました。新国王は国民の心をつかんでおいでと見受けられます。祖父様が世を去る二日前に、世継ぎの王太子は20万ふらんを貧者に分け与えるよう指示なさいましたが、これがまことに良い印象をあたえま
新国王・王妃を祝う装飾画 国王崩御、国王ばんざい! グルックの新作オペラ、『オーリードのイフィジェニー』が上演された1774年4月19日。 それから20日ほど過ぎた5月10日午後3時15分。 国王ルイ15世が天然痘で薨去します。 誰もが固唾をのんで、時計を見つめながら待っていた瞬間でした。 ひとつの時代が終わり、新しい時代がやってきた―――! 人々は、遺骸のまだ温かい先王の部屋から雪崩を打って飛び出し、ドヤドヤと、控えの間に詰めかけます。 その小さな部屋には、王太子と王太子妃が控えています。 扉が開け放たれ、最初に入ってきたのは、女官長ノアイユ伯爵夫人。 ふたりの前に跪き、『国王崩御、国王ばんざい!』と挨拶します。 これで、新王ルイ16世と、新王妃マリー・アントワネットが誕生しました。 太鼓が連打され、何百人もの将校や廷臣たちも叫びます。 『国王崩御、国王ばんざい!』 これは、代替わりの慣
フランソワ=ユベール・ドゥルエ『フランス国王ルイ15世』(1773年) オペラ初演8日後のできごと グルックの新作オペラ、『オーリードのイフィジェニー』が、王太子妃マリー・アントワネットの強い後ろ盾のもと、半ば強引に初演され、半ば強引に「大成功」とされ、音楽史上に「オペラ改革」の画期として刻まれた日が、1774年4月19日。 そして、その8日後の4月27日。 国王ルイ15世が、狩猟中に急に脱力感と激しい頭痛に襲われます。 ヴェルサイユに戻り、ベッドに入った国王の脈を、多くの侍医がかわるがわる診ます。 これといって病名は特定できませんでしたが、夜になって、王の顔に赤い斑点を見つけます。 当時、死の疫病として恐れられていた天然痘でした。 天然痘はかつてハプスブルク家も襲い、マリー・アントワネットがフランスに嫁ぐことになったのも、姉たちがこの伝染病で亡くなり、順番が回ってきたからでした。 公妾の
『アガメムノンの黄金のマスク』シュリーマンがミケーネ遺跡で発掘、アガメムノン王の遺骸にかぶせられたマスクと考えたが、実際にはアガメムノンの時代より300年以上古いもの。 グルックの偉大さとは それでは、グルックのオペラ、『オーリードのイフィジェニー』の幕を開けましょう。 この画期的な「改革オペラ」には、娯楽要素は少なく、それぞれの登場人物の内面の苦悩、葛藤を表現することに主眼が置かれています。 イタリア・オペラのように、きっぱりと歌とせりふ、すなわちアリアとレチタティーヴォは分かたれておらず、全ての言葉にオーケストラによって劇的な伴奏がつけられている「音楽ドラマ」になっているのです。 グルックの音楽史における功績については、音楽学者アルフレート・アインシュタイン (1880-1952)が1952年に著した名著、『音楽史』に次のように書かれています。(一部現代語風にしています) オペラの真の
マリー・アントワネットに新作『オーリードのイフィジェニー』の楽譜を手渡すグルック パリでぶち上げた、オペラ改革! 前回まで、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』を聴きました。 これは現在ポピュラーに上演される、グルックの唯一の作品といってよいでしょう。 クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)は古典音楽の巨匠と讃えられ、「オペラ改革」を成し遂げた音楽史上の偉人ですが、その作品の多くはほとんど演奏されておらず、よほどのクラシックファンでもあまり聴いたことがないと思われます。 このブログでは、彼の音楽がマリー・アントワネットとの関りの中で果たした、大きな歴史的役割に思いを馳せながら、味わってみたいと思います。 『オルフェオとエウリディーチェ』は、1774年に王妃マリー・アントワネットの肝いりでパリで上演されましたが、新作ではなく、もともと1762年にウィーンで上演さ
カール・グース『オルフェウスとエウリディケ』 エウリディーチェを失って、どうしよう 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第3幕の後半、最終回です。 亡き愛妻エウリディケを取り戻すべく、冥界に降りたオルフェウス。 その音楽の力で冥界の神や怪物たちの心を融かし、『地上の人間界に戻るまで、決して妻の顔を見てはならない』という条件つきで、妻を返してもらいました。 しかし、地上に向かう途上、自分を抱きしめるどころか目も合わせない夫に、妻は疑念と不信感を募らせます。 追及と泣き落としに耐えかねたオルフェウスは、ついに振り返って妻の顔を見てしまいます。 すると、掟を破った罰で、エウリディケは再び死んでしまいます。 これまでの苦労は水の泡。 愛ゆえに妻を取り戻し、愛ゆえに再び失ってしまったオルフェウス。 やるせない気持ちを歌うのが、このオペラで一番有名なアリア、『ケファロ・センツァ・エ
音楽の力を讃える音楽 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕の後半です。 亡き愛妻エウリディケを取り戻すべく、生きた人間が決して行ってはいけない冥界に降りていったオルフェウス。 襲いかかる恐ろしい復讐の女神たち、地獄の怪物、亡霊たちを、悲しみに満ちた歌で鎮めます。 心無き者の心さえ動かす、音楽の力。 この神話は、遥か古代から、音楽が神秘の力を持っていたことを示す物語です。 そして現代人も、音楽の力によって生かされている、といっても過言ではないでしょう。 これは音楽によって音楽を讃えるオペラなのです。 死者の楽園、エリュシオンの野 さて、地獄から脱したオルフェウスは、いつしか楽園にいました。 花々が咲き乱れ、心地よいそよ風に木立は揺れ、緑あやなす野原が広がります。 そこでは、美しい精霊たちが歌い、踊り、戯れています。 ここは、エリュシオンの野と呼ばれ、冥界の中で、死者
ダンテの『神曲 地獄編』に描かれたコキュートス 三途の川を渡った吟遊詩人 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第2幕の前半です。 愛妻エウリディケを失い、絶望のどん底にいたオルフェウス。 最高の妻を与えておきながら、幸せの絶頂で奪った神の非情を恨みます。 そこに、愛の神アモールが降臨し、『冥界に下って、自分の得意とする歌で地獄を和らげれば、あるいは妻を取り戻せるかもしれない。しかし、彼女に会えたとしても、地上に戻るまでその顔を見てはならない。』と託宣します。 オルフェウスは、地獄の恐ろしさと、誓いを守れるだろうか、という不安に震えつつも、妻を取り戻せるならどんなことにも耐えてみせよう、と地獄に下っていくところで第1幕が終わります。 第2幕は、地獄の場面。 ギリシャ神話では、日本で言うところの「三途の川」が5つあり、人間界と冥界を隔てています。 その川は、ステュクス、プレ
カラヴァッジョ『愛の勝利』 神を呪う、神の子 今回は、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第1幕の後半です。 結婚したばかりの愛妻、エウリディケを失った、オルフェウス。 エウリディケを悼み、オルフェウスを慰めようとする友人の羊飼いやニンフたちを遠ざけ、独り新妻の墓の前で悲嘆に暮れます。 彼女への追慕の情は募るばかり。 諦めようとしても諦めきれません。 ついに、彼は怒りを発し、このような酷い運命を課した神々を恨み、非難します。 彼は、神の血を引いていますが、神ではなく、不死でもなく、人間なのです。 愛する人をすぐ奪うくらいなら、なぜ与えたのか。 あの若さで死に至らしめるなんて、酷すぎる。 黄泉の国(冥界)にまで追いかけていって、エウリディケを取り戻してやるぞ! 大胆な英雄たちのように! 愛する人を取り戻すため、地獄にまで降りていく覚悟を示します。 大胆な英雄たち、というのは、アテ
古代ギリシャの壺に描かれたオルフェウス 音楽の神、オルフェウス神話 オルフェウスの母カリオペ それでは、マリー・アントワネットのピアノ教師でもあった、グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』第1幕の幕を開けます。 題材は、よく知られたギリシャ神話、『オルフェウス伝説』です。 オルフェウスは、ギリシャ語に近い発音でオルペウスとも呼ばれます。 太陽神アポロンと、芸術の女神たち、ムーサ(英語でミューズ)のひとり、カリオペとの子ですが、アポロンは名義上の父で、トラキア王オイアグロスとの子、との説もあります。 ともあれ、太陽神であるとともに、音楽の神でもあるアポロンと、ミューズ9人姉妹の長女で、最も賢く、「叙事詩」を司るカリオペとの子ですから、音楽の名手となりました。 吟遊詩人として名を馳せ、彼が竪琴を掻き鳴らしながら歌うと、森の動物たちのみならず、木々や岩までもが耳を傾けた、とされています
グルック 貴族を遠ざけ、平民を近づけた王妃 フランス王太子妃、のちの王妃マリー・アントワネットは、アットホームなところのある実家のハプスブルク家とは違った、堅苦しいフランス王家の宮廷儀礼、無意味に思えるしきたりに反発します。 もっと自分の思うようにやりたい、という自由への欲求がつのります。 彼女は、宮廷ルールや慣例を次第に無視し、才能ある平民を近づけ、自分のやりたいことを実現していきます。 それは、自己顕示欲と特権への執着しかない、貴族や廷臣たちへの反発でもありました。 そして、平民の髪結いレオナールや、モード商ベルタン嬢を取り立て、ファッション界を自分の力でリードしていきます。 音楽家もほとんど平民出身ですが、髪結いに比べたらはるかに地位は高く、何世紀も前から宮廷に出入りが許されていました。 しかし、エステルハージ侯爵家に30年仕えたハイドンのように、身分としては基本的には従僕と変わらな
流行の髪形「サンティマン・プフ」 マリー・アントワネットの口癖から生まれた髪型 シャルトル公爵夫人のウェディングドレスを手がけたことで、一躍有名となったモード商、ローズ・ベルタン嬢。 夫人に気に入られた彼女は、その後援のもと、サントノレ通りについに自分の店を開店します。 店の名は、「オ・グラン・モゴル」。 インドを支配していた〝ムガール帝国〟という大仰な名ですが、当時のオリエンタリズム(東洋趣味)に乗っているとともに、彼女の野心も感じられます。 お店はパレ・ロワイヤルの向かい、シャルトル公爵夫人の邸宅のすぐ近くです 公爵夫人は、才能ある若手の平民を自分のプロデュースで世に出すことによって、パリの流行をリードしていったのです。 名だたる貴賓が次々と店の顧客になってゆきました。 最終的な狙いは、王太子妃マリー・アントワネットです。 ちょうどその頃、王太子妃は「ケサコ?」という言葉が口癖になって
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