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『わが映画人生 岡本喜八監督編』一部抜粋 1998年神奈川県川崎市多摩区生田の自宅にて 構成 信夫ひろ子 担当 中村幻児・山名兌二 採録 工藤雅典 岡本喜八監督 1924年2月17日 鳥取県米子市生まれ インタビュアー 恩地日出夫監督 恩地:お生まれは米子ですよね。 岡本:そう。鳥取の西端。 恩地:明治大学を出て東宝に入ったんですよね。 岡本:うーん。明治に入った頃、映画を見始めたんだが、戦時中で、教護連盟というのがあって。 恩地:あっ。学生は映画を見ちゃいけなかったんだ。 岡本:そう、自分の学校の教師は分かるけど、中学や、女学校の教師は分からないじゃない。それで、ご用になって、退学処分だという。 恩地:映画館に入っただけで。 岡本:それでも、なんとか罪一等を減じてもらって。 恩地:卒業できたんですか? 岡本:そう。 恩地:卒業して、助監督になったのが昭和18年(1943年)ですよね。何歳
もともと儲かる産業ではなかったのですが、コダックは圧倒的な軍需によって支えられて来たんだそうです。それが無くなってしまい、フジフィルムにも追い上げを喰らい(アメリカでのフジのシェアは約40%まで行きました)写真用のフィルムも売れなくなり、コダックは会社更生法を申請しました。すると国家産業の危機だというわけで、全米が愛国精神を発揮してコダックを使うようになり、フジのシェアはゼロになってしまったのです。 映画用のフィルムは撮影用のネガでは全然儲かりません。何百何千本の上映用プリントでなんとか補っていたんです。それを一挙に失ったフジは産業として成り立たなくなってしまい、生産終了に追い込まれました。一方、コダックはシェア100%になったといえ、プリントがDCPなどのデジタル上映の普及で不要になっていくので、いつまで持ちこたえられるのか予断は許されません。
SKサイタマノカントク 「SRサイタマノラッパー」より (C)ノライヌフィルム/ロサ映画社 上京して、東京で暮らしてると、埼玉県が田舎扱いされてる事を知りました。でも、自分のような本当の田舎出身者から見ると、埼玉県は都会の方であります。でも、東京都心と比べれば、やはり田舎であり、農地も多い。 私事ですが、2年前に埼玉県民(所沢)になってしまいました。27年東京都民だっただけに、少し田舎に行ってしまったようで、何となく抵抗がありました。(尊敬する宮崎駿監督在住の地であり、トトロの里だからと、自分を納得させてます)。 埼玉に越して間もなく、ゆうばり映画祭で「SRサイタマノラッパー」という映画がグランプリを取ったという情報が入って来ました。埼玉県民となってしまったからには、埼玉県に活気があってほしいという気持ちになった矢先の出来事でした。何となく嬉しい感じでしたが、時は過ぎ、1年位経って、監督
〈資 料〉表現規制とのたたかい 「青少年社会環境対策基本法」に対する見解と反対声明公表に際して 2001年6月 協同組合日本映画監督協会 協同組合日本映画監督協会 顧問 柿田 清二 著「日本映画監督協会の五〇年」より <戦 前> 統制の強化 映画は早くから国家検閲、取締りの対象とされてきました。はじめは明治24年(1891)の警察令による観物場取締規則によっておりました。明治44年(1911)に『ジゴマ』が「犯罪の手段方法を誘致助長するきらいのあるもの」として、45年(1912)頃に『春風閣』『人の花』『二美人』『薄馬鹿大将』等が「姦通に関するモチーフを用いたもの、もしくはそれに関することがらをテーマとしたもの」として、いずれも上映禁止処分を受けています。このように初期には姦通や犯罪の手口といったものが取締りの対象とされていましたが、大正6年(1917)警視庁令による活動写真取締規則を
映画監督になる方法 私はこうして監督になりました -------------------------------------------------------------------------------- 今の時代、映画監督になるには道はひとつではない。かつては、助監督から経験を積んで上りつめていく...というのが一般的だったと思う。が、今はなんでもありだ。 テレビ出身、CM出身、自主映画出身、このほかにも、俳優、タレント、脚本家、小説家、舞台演出家...とにかく、ある意味、誰でもが監督になれる時代になった。これがいいことか悪いことかはわからない。門戸が開かれたという意味ではよいことだろうけれども、確実な方法が失われたとも言えて、真剣に監督を目指すひとにとっては、悩ましい問題なのではないだろうか。 そこで、さまざまな出自を持つ監督に集まっていただき、どのようにして監督になったか、ま
<1995・阪神淡路大震災を巡って> 中川敬・大森一樹 対談 (聞き手・佐藤真 会場仕切り・成田裕介) 大森一樹(おおもりかずき)さん プロフィール 52年大阪市生まれ。77年第三回城戸賞を『オレンジロード急行』で受賞し、翌年同作品にてメジャー映画監督デビュー。80年京都府立医科大学卒業。83年医師国家試験合格。86年『恋する女たち』にて文化庁優秀映画賞、第11回日本アカデミー賞優秀脚本賞・優秀監督賞、受賞。88年文部省芸術選奨新人賞受賞。96年『わが心の銀河鉄道~宮沢賢治物語』にて第20回日本アカデミー賞優秀監督賞、受賞。05年より大阪芸術大学芸術学部映像学科、同大学院、教授。兵庫県芦屋市在住。 (公式HP http://www.firstwood.com/) 中川敬(なかがわたかし)さん プロフィール ニューエストモデルを経て、93年にソウル・フラ
「CGの来世~山崎貴監督編~」 SF映画が好きな少年でしたが、中学の時に登場した「スター・ウォーズ」が一番衝撃的でした。「2001年宇宙の旅」を除き、それまでのSF映画には無かった見事な特撮映像にもハマり、何度も観たものです。 当時はデジタル技術がまだ発展途上だったので、フィルムによる撮影・合成が主体でした。モーションコントロールカメラというコンピューター制御のカメラですが、撮影するのはミニチュアであり、合成もフィルムとフィルムを重ねるオプチカルプリンター。しかし、現在の合成はほとんどがコンピューターによるデジタル合成で、PCレベルでもかなりな事が出来るようになりました。 CG、デジタル技術を先頭になって発展させて来たのは、やはり「スター・ウォーズ」のルーカス監督の特撮工房ILMです。特にCGの発展における記念碑的な映画は全てILMによるものです。まず、1989年の「アビス」での水の表
緒方明 1959年生まれ 佐賀県出身。 福岡大学在学中に石井聰亙と出会い映画監督を志し上京。 『狂い咲きサンダーロード』『シャッフル』『爆裂都市』などの石井聰亙作品の助監督を務める傍ら、自主映画『東京白菜関K者』を監督。この作品はぴあフィルムフェスティバル'81にて大島渚や長谷川和彦の支持を受け入選。その後、高橋伴明や大森一樹などの助監督を務め86年にフリーディレクターとして独立。CMやミュージックビデオを多数演出。90年代にはTVドキュメンタリーを中心に活躍。(『ETV特集』『驚きももの木20世紀』など)演出作品はドラマ、ミュージックビデオなど百本を超える。2000年、『独立少年合唱団』でスクリーンデビュー。この作品で第50回ベルリン国際映画祭コンペ部門で新人監督賞にあたる『アルフレートバウアー賞』を日本人初の受賞。他に毎日映画コンクール新人賞。芸術選奨新人賞、日本映画監督協会新人賞
アニメ監督ってなんだ! 〜杉井ギサブロー監督/りんたろう監督〜対談 2007/03/01 日本映画監督協会にて(司会:康村諒 撮影:日笠宣子) ☆プロフィール 杉井ギサブロー 40.8.20生 59東映動画に入社、アニメの基本を学ぶ。61手塚治虫率いる虫プロ創立に参加。「鉄腕アトム」演出、「悟空の大冒険」「どろろ」などTVアニメの総監督。(T)「まんが日本昔ばなし」「ナイン」「タッチ」(映)「銀河鉄道の夜」「源氏物語」「ストリートファイター」「あらしのよるに(T)97「ルパン三世」00「陽だまりの樹」02「キャプテン翼」(VP)「羊のうた」。 りんたろう 41.1.22生 (ア)「鉄腕アトム」で監督デビュー。以降、劇場作品、ビデオ作品、TV作品の監督に従事、現在にいたる。 【アニメ:創成期と現在】 杉井:僕らは東映(東映動画/現・東映アニメーション株式会社)でこの世界に入った。東映は大川
毎月20日ごろ 特集更新 2007/4/1 特集更新 2006/12/19 エッセー調整完了 20006/11/03 毎日更新!「映画公開って何だ!」設置 2006/10/31 作品インタビュー調整完了 2006/09/30 リニューアルオープン
「監督は映画の著作権者である」〜法改正に向けての監督協会の主張〜 1998年8月 協同組合日本映画監督協会 ご挨拶 わが国の著作権法で、映画だけが非常に特異な扱いになっていることはご承知のとおりです。私ども映画監督は、現行法成立当時からそうした特異な扱いに対して強く反対してきました。それからすでに28年間が経過し、映画をめぐる状況は大きく変化しました。映画についての規定を見直すべき時がきたと、私どもは考えます。 文化としての映画が持つ、大きな意味を再確認したいと考えます。私は、映画を見て、見知らぬ人々の心のありようを理解したという多くの人々に出会っています。私自身が、まさにそのとおりでした。 そうした映画の未来、なかんずく日本映画の活性化のためにこそ、実際に映画の創作に携わる者の権利を明らかにする必要があります。権利というのは、単に経済的な権利だけを意味しません。創作者の発言の
日本映画監督協会著作権委員会 梶間俊一 今回の監督協会70周年記念映画「映画監督って何だ!」(脚本、監督伊藤俊也)は、何よりも、映画監督に著作権がないことを広く知らしめたと云う一点において、大変意義深いものがあります。「七人の侍」や「東京物語」の著作権が、黒澤明監督や小津安二郎監督ではなく、映画の製作会社にあると知って驚かれた方が沢山いると思われます。 記念映画の中でも、作家の村上龍氏(監督協会員)が、インタビューに応えて率直にその驚きを語っています。それは何故か。我々の映画の著作権に関する情宣活動が不足していたことも要因のひとつです。 だが、しかし、それ以前に、多くの人々(村上氏も含め)が、作家や音楽家と同様に、当然、映画監督にも著作権があるものだと思っていたのです。 ■ 映画監督に何故著作権がないのか 現実には、映画監督は映画の著作者ですが、著作権者ではありません。著作者人格権
監督協会とは 時代とともに映画の役割は変わってきましたが、日本映画監督協会は1936年の創立以来、映画・映像文化の発展と、監督の地位向上に尽力してきました。監督の権利を守り、自由な創作活動を支援するための様々な取り組みを通じ、映画やビジュアル作品を愛するすべての人々と手を取り合って新しい時代への道を切り拓いていきます。 理事長挨拶 本木 克英 1963年富山市生まれ。早稲田大学卒業後、1987年松竹入社。勅使河原宏ら巨匠に師事し、94年米留学。98年「てなもんや商社」で監督デビュー。以後、喜劇を中心に数多くの作品を手がける。代表作に「釣りバカ日誌」シリーズ、「犬と私の10の約束」、「超高速!参勤交代」他。17年松竹退社後「空飛ぶタイヤ」「少年たち」「大コメ騒動」、「シャイロックの子供たち」(23年) 、最新作「カーリングの神様」(2024年秋公開予定)がある。 発足と沿革 1936年(昭和
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