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モンキーターンの作中で有名な技(?)としてダンプというのがある。要するに艇を艇にぶつけるということだが、これによって自分の舳先の方向を変えたり相手の方向を変えたりというような技である。実際のところ競艇選手じゃないのでこんなことを考えても仕方ないっちゃ仕方ないのだが、しかしこの技の意味するところというのは非常に興味深いものがある、などとふと思った。 他の艇に体当たりして自分や事態を有利に持っていく、というといかにも豪気で一本気な感じの技に見えるものの、その実相手の技量に大きく依存している性質があり、ある意味では相手とその技量をかなり信用していないとなかなかできない技でもある。だから一見すると「我が道を行く」の典型だとか覇者はこうするものみたく見えるが、実際はものすごく相手への依存度が高い技であると言える。競艇では下手すると相手を転覆させて失格になりかねないし怪我をさせかねないものでもある。ふ
あーメンドくせえな、もっとラクして生きてえなと誰もが思う、しかし人は苦労するし苦労しつつ人生を生きることになる。で、50年とか70年とか過ぎたころに恐らくは誰しもがこれはというような何かを抱えることになる。思いついたり身に付いたりしてふと気づけば身に付いた能力や一際輝く技術などがあることにふと気付く。何しろ事業や仕事に携わって云10年なんだからそれなりに経験値も気づけば貯まっているということが起きる。 そこで基本的には親から子へと技術や能力、ノウハウの継承や伝承といったことが行われることになる。そうしたい親側の気持ちと、あーラクしてえなという子側の気持ちが一致する。その時に起きることというのが「エリート」というものであり、姿を現すのがエリート思想であり、そういったものに纏わる様々な願望の塊だと言える。当然そうした「気付き」というのは誰もが生きながら自分で経験値を貯めつつ自分で会得していくの
ということで続きだが、「差別ダメ絶対」で差別というものに全く向き合ってこない習慣のあった我々が陥ったのは、実質的に学歴差別という普遍的でその構成員全員に当てはまるべき事態だったというのが実情ではないかということだ。自分より下となれば安心感を得、逆にこいつ自分より上かよとなれば急に被害をくらったかのような不快な気分になり、不快であるからこそこいつをどうにかしてやっつけてやらなければ気が済まないとなる。 差別したらし返す、されたらよりキツい差別をし返す、差別感情を向けられたとなれば加害してもいい権利を得たかのようになる、みなす。そういう不毛な状態を迎えたのではないかということである。 その結果、上に見られたいし他者を見下したいが、かといって下に見られれば誰もが不快になるという状態だった。中卒は誰もが言わないが「中卒かよ……」という実質的で明らかにストレートな差別状態だったし、かといって院卒は「
先日Quoraで非常に興味深い質問を見つけた。 https://jp.quora.com/%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%A6%E5%8C%BA%E5%88%A5%E3%81%A0-%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%86%E4%BA%BA%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8C-%E7%B5%90%E5%B1%80%E8%A8%80%E8%91%89 差別ではなく区別だという言葉は言い方を変えただけですかという質問に対し、解答者は 「必要な差別はある」という事例を返す。 日本人は部屋を貸してもキレイに使うし基本的に安心して貸せるが、しかし外国人はそこで何を仕出かすかわからない。従って日本人よりも高めに家賃等を設定すると。でもそれが根も葉
という言葉をなんとなく知っていたが、ふと思い当たって長々と考えて見たが。 古代人というやつはなんというかとんでもなくすげえなと思わされた。なんと肝が据わっていることか、そして事態を冷静に見て、自分にとってプラスになるならば徹底的に活用してしまおうとなんとあっさり考えてしまうことか。深みらしきものもないが、こうした態度と姿勢そのものがいかにもあっさりしていて、逆にそうした事態を前にしてあっさりした姿勢でやり取りできるものなのかと考えさせられる。それに比べて現代人なんて小手先のワザばかり長けているだの小波がきたら即あっぷあっぷするさまだの、古代人に比べてちょっと脆すぎる感じがある。失ったものの多さを考えてはいちいち数え上げて嘆いてばかりいるより、得たものの方に目をやっていかに成長できたかを考える方が余程前向きだとおもわされたし、そういう功利的、怜悧(れいり)といってもよいようなものを学ぶ必要性
詳しくはツイッターで呟いたので省略するが、まあ凄腕で知られる社長ってのがいたらしい。実力派のイケイケのガンガンで、地元では企業らしい企業もないので素晴らしい地元貢献もしていると。ただあまりにも優秀すぎるためか、周囲というか出来ない人にはキツく当たる人でもあったらしいが、直接会ったことがないのでそこら辺の事情がどうだったかまでは知りようがないので後は憶測である。 ・好循環ってのは明らかにある。頑張る、自分も含めた周囲が良くなる、良くなるからまた頑張れる、そしてまた周囲が良くなると。そういう循環というものとその形というのは明らかに非常にわかりやすい形で好循環を作っているものだと言える。しかし誰もがそんな好循環をそう簡単に構築できるわけではない。 するとその代替としての悪循環の回路を作り出すことになる。 死屍累々で、その人に関わったみんなが死ぬのだが、しかし ①みんな死んだのに自分だけ生き残った
今日枝を剪定ばさみで切ろうとしたら謝って自分の指を切ってしまったという。かなり深めに切ったが、ほぼ痛みはなくサクッと切れてしまった。 まるで枝と間違えてソーセージでも間違えて挟んだか?というぐらいに。片手の中指の真ん中あたりをつまんでみたらそこそこ肉が伸びると思うが、これが丸々すっぱりと切れてしまった。伊達に日本刀の技術使われてないな、というのをまさか自分の身体を通して体験することになろうとは。 当然ものすごく血が出たが、しかし皮膚がきれいに切れていたので、指を折って皮膚を曲げるとぴたりとくっついて、それによって血が止まったという。そのまま5分10分程度置いておいたらきれいに止まったのでそこからいろいろ処置をした。 最初は焦っていたが、余裕が出てくるとなんかどうでもいいことを考え始めたのでそのお話。 通販番組。 朗読推奨。 「みてくださいこれ、剪定ばさみ! これなんと、刃の部分に使われてい
負の感情に向き合うってのは誰もやってないことのようだしそういうことは一生やらない方がいいような気もしているが、まあやらないよりはやった方が現状マシなのでやってみることにする。 いつかも書いた気がするが、敵味方を分けるものってのは喜びを共有できるか、いやな現象をどこまで共有できるかが味方であり、その逆が敵であると見ることもできるように思う。 司馬懿は諸葛亮が死んだと聞いたらこれ好機と喜んで攻め寄せたが、諸葛亮はそのことも見越しており逆に驚かされて、しまった計略だったかと命からがら陣に逃げ戻ったということがある。いわゆる「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事である。偉大な味方が死ねば嘆き悲しむしかないが、偉大な敵が死んだならば、これ幸いと攻めるしかない。ある意味味方とは正比例の関係、敵とは反比例の関係にあると言えるだろう。まあ最近は複雑化しているから、味方が出世したら憎らしく思い、足を引っ張り
意外なことに結構久々の投稿らしい。最近いろいろ滅入ってたからなあ。タルムードもけっこううまくいってなくてこのままいったもんか、どうしたもんかなーとかいろいろ考えたりしてて。 ついでに最近けっこう特に深い鬱でげんなりしていたが、ふと思ったのが良くなるったってプラスが増えるかマイナスが減るかの話でしかないから、マイナスというものを誰かが引き受ける、あるいは誰かが犠牲になることによって世界が良くなるとしたらそれは許容されるべき必要悪ではないか?ということをふと思った。それがたまたまオレにとってはオレが犠牲となるだけの話だっただけであって。誰かが死んで世界が良くなるとすれば、それは絶対に許容されるべきとは言わないが、まあそこそこ許容されるべき問題なのではないか、一考されるべき問題なのではということ。その役目をオレはもう十分引き受けたし、多分そうした役回りを次誰かが引き受けるんだろうということだし、
※いったんここで最終回とします。instructiveの意味がインストラクター的なものという話は前にしましたが、まあざっと分かったのでもう十分かなと。 本題に入らないとあまり意味がないということですね。 ※前回ロドキンソン氏がユダ・ハ・ナシはすごかったと述べて終わってます。当時とてつもなく膨大な量があってテクノロジーもあるわけではない、大変だったろうことをやり遂げたのだと。 ・ミシュナと6つのセクション いずれにしても、ラビは自分の集めた資料をテーマと主題ごとに6つに分割またはカタログ化したのである。それはさらに、注文ごとに7~ 12の論文へ分けられることとなった、つまりは合計63個の論文へと分類されたのだった。最終的には、1つの区域内に74から126の範囲の個別の細分または章があるために、ミシュナの章の総数は4225にもなるのである。 次の数世紀にわたってこれらの細分化がコメントされてい
※ということで挿入で終わってますが、話としてはスペインの学者とフランスの学者で見解が異なっているという話でした。スペインでは書かれたものを元としてミシュナは構成されたはずだと言っているし、フランスの方ではいや大切なことは書かれないわけだからつまり口伝のみだと。そういう論争があった後に後世の学者は、書かれてないと改変されたりがあるから忘れたりしないように一応メモしたりしとくのは重要なんじゃないかというような案が現代にはあるというところで終わってます。 それでも、ユダ・ハ・ナシが目の前に抱えていた仕事を視覚化することは事実上不可能だった。というのはそれは何千ページものメモ、口頭伝承などを背後に何らかの論理を持った包括的な順序に整理することを意味するからだ。生のデータと当時のテクノロジーの不足を考慮すると、彼は超人的な能力を持っていたに違いない。そして、そこに多くの矛盾や無関係があるという事実は
・「ミシュナ」 先に述べたように、タルムードはミシュナとゲマラの2つの部分に分かれている。これは作曲され、より正確に整理され、西暦200年ごろ紙に書き留められたものであり、これに関してはラビとしても知られるラビであるユダ・ハ・ナシの多大な恩恵によるものだといえる。 タルムードの心臓部と魂がミシュナであることに疑いの余地はない。しかし、その構成要素がいつ書き留められたかについては、解説者の意見は異なる。スペインの学者たちは、この文書はイスラエルで「学習のための家」が始まって以来、R.ユダの現れるずっと前から所有されていたノートから記録されたと主張している。そして、「原始的ミシュナ」とでも呼ばれるべきものは、寺院がまだ存在していた間に、ヒレルとシャンマイの生徒たちによって書かれたと言ってもいる。 その後、ラビであるアキヴァが初めて伝統的な事項の包括的かつ系統的な収集に着手したようだが、膨大な量
※この本、instructive talmudという本で、このインストラクティブという形容詞は「教育的な、教育上の、ためになる、有益な、教訓的な」的な意味で、つまり「有益な、ためになるタルムード」とか言いたいんだろうなと思ってましたが、まあ薄々は感じてましたがインストラクティブってインストラクターってのとかなり近い意味合いなんだろうなと。つまり辞書には書いてありませんが、「タルムードを読むにあたってのインストラクターとなるような本」というニュアンスの方が今やってること的にはかなり正しいんだろうなと思ってますし、まあこういうことをやってることが急がば回れで案外そのうち役に立つこともあるのかもしれないってことで。 ・「メキルタ」 この用語にはさまざまな意味があるが、専門的には「測定」または「規則」と訳される。つまりこれは出エジプト記までのものについてのハラハ的ミドラーシュ(ハラハという法全体を
思いついたことをメモに書いておけば忘れないから大丈夫と言いたいが、毎日毎日思いついていると数が増えて段々思い付きが下へと流れていき、久しぶりに引っ張り出すと何を言いたかったのかすっかり忘れているのが地味に問題。音声で速攻で書き下ろせればいいものの音声認識は現状へっぽこなのでデタラメばかりで全く役に立たない。悩ましい。 ①神風特攻隊 神風特攻隊っていうのが究極の愚策であるということを指摘した例はあまり知らないが、これを愚策だと言うことに関してはこれは完全なタブーだったのではないかということを思った。軍人出身なので内部は当然禁忌もいいところである。国のため、日本のため家族や故郷のために特攻して死んでいくという美談は涙なしでは語れない。というストーリーは当然あるわけだが、見方を変えるとアメリカ相手にまだまだ戦い続けねばならないのに貴重な戦力をむざむざと特攻で死なせるというのは、これは矛盾していな
・「口伝法と成分法」 前述したように、タルムードに割り当てられたカテゴリーは口伝法として知られている。これの(口伝法の)すべての構成要素が現在、何らかの形で紙に記載されているという事実はあるが、それが直ちに命名法を変更するというようなものではない。ミシュナは、紀元前200年から西暦200年にかけて、パリサイ人と口伝で彼らに従ったラビたちによって大部分が発展したが、西暦200年頃にユダ・ハ・ナシによって編集された。その後、PTが書き留められるまでにはさらに200年、BTに関しては300年かかった。 一方、モーセ五書に含まれる法律は成文法として知られている。実践するユダヤ教の分野(正統派、保守派、改革派など)に応じて、重み付けは異なる……そこにいくつかの例外はあるのだが。通常、保守運動と改革運動では成文法がより重要となるが、正統派においては口伝法と成文法が同等とみなされる。 ・「ミドラーシュ」
邪悪とかオカルトチックで宗教的な言葉はできるだけ使いたがらないのが主義だが、それでもこうした言葉を避けては言い尽くせないものも中にはある。ということで邪悪。 ・人というものはそもそも邪悪な性質というものを数多く備えている生き物だといえるしそういう歴史もある。 例えばインディアンと戦っている白人が、毎夜奇襲を仕掛けてくるインディアンの行動を把握して、奇襲のさらに裏をかいてインディアン居留地を全滅させる行動を取ったことなどは有名だろう。奇襲を仕掛けてくるのは基本的に男である。従って居留地を守るのは女・子ども・老人となる。そうしたものを全滅させた後に残るものを考えてみると、いくら精悍な男たち英雄が残ろうと、もはや大した意味などないといえる。あるいは復讐に燃えるものもいただろう、あるいは家族が皆殺しになって心が荒廃した者もいただろう。効果的な作戦や戦略というものがそういう意味で効果的であった以上は
タルムードの構造について ・タルムードの構成要素 ほとんどの人にとって、タルムードはミシュナとゲマラ (ミシュナ:「繰り返しによる学習」、ゲマラ:「終える、完了する」) の2つのパートから構成されているように見えるのだが、これはあまりに単純化しすぎである。実際のところ、ミシュナは完成するまでに何世紀にもわたって書き留められたり、口頭で伝えられたりした他の作品を統合したものである。これと同様に、ゲマラ自体も後の時代に賢者の影響を受け「完成」とみなされる前には、内容の変更は認められなかったと言っても過言ではない。 平均的な読者というものがタルムードの進化に精通していないと仮定すると、それはイェシヴァで日々タルムードを学んでいる正統派の信者を含めてもいいだろうが、たとえて言えば車のさまざまな部品がどのように作動するかについてまったく理解せずに車を運転する場合のようなものだろう。例えばエンジン、ト
※余談ですが、機械翻訳使ってると何が問題なのかってどこからどこまでがどこにかかるかという当たり前のことが機械には分からない問題がまだまだかなりありますね。 A man, hobby was fishing, had a car. 「ある男というのが、釣り好きだったんだが、車を持ってました」 みたいなのがあるとして(ややこしいけどこういう文章かなりあるしSのものすごく長い文章はざらにある)釣りが好きってのはどう考えても彼にかかるわけだけど、機械翻訳していると 「ある男は、釣りが好きな車を持ってました」 みたいに訳し始めることがあっていやいや明らかにおかしいだろうと。そういうのは修正してます。釣りが好きな車ってなんだよって話ですが、釣りに向いた車とかもあるでしょうからそういう判別が機械にとってはまだ難しいってのはありそうです。 ・ローマと第二神殿の破壊 新千年紀の2世紀前のこと、ローマ帝国はあ
はて、知識とはなんぞやと。そんなことをふと思ったという話。 ・例えば運転免許なんてものがあるのだが、基礎的なことや初歩的なことなどを知識として頭に入れていき、実技を通して高度なことや実践的な内容、最新の交通事情や法規事情を知っていき最終的にはその資格を取得するということになる、いやなるにはなるんだけど、じゃあ高度な次元の内容や重箱の隅をつつくような内容をこれでもかと知っていったとして、初歩の内容が不要になるかといえばまあそんなことはないわけで。 超高度な内容を会得したそのオレ様にとって基礎や初歩は不要だ、そんなみみっちいことに関わってられるか、したがって「飲酒運転は場合によってはしても仕方ない→〇だ」なんてことには本来ならないのだ。 つまり何かって、階段10段で考えた際に10段行ったら1段目なんてレベルの低い問題は免除だなんてことにはならない。ところがこの世界は起きる、起きていいと思うし起
※パリサイ派とサドカイ派の話の続きです。 パリサイ派は口伝法も含めた全てを遵守しようというのに対し、サドカイ派は成文法のみ、書かれたもののみを遵守すべきだという対立があったという話でした。 しかし、サドカイ人は富と地位の中にあり、心の中ではヘレニズム文化(つまりギリシャ文化)に傾いていてパレスチナで影響力を持っており、さらに悪いことには、ユダヤ人の敵であるサマリア人がここに加わったのである。 その狙いとはつまり、ユダヤ教を完全に根絶することである。 そこには明らかな意図がうかがわれた……口承の伝統を遵守するパリサイ人とともにそれを破壊するという意図が。 このようにして、ユダヤ、特にエルサレムは陰謀や権力闘争などの温床となったのである……ギリシャ人やヘレネ人に同調する人々と、ユダヤ国家としての完全な自由を望む人々の間でのものと同様にである。こうしたことが宗教の支配をめぐる「内戦」につながるこ
※これもしかしてタルムードじゃなくて実は内容が旧約聖書とかじゃないのか?と思い、ふと他のタルムードと比較してみたんですが、全部書いてある内容が全く違っており(笑)、まあいっそ全部やれば問題ないかと開き直ってやろうと思ってます。いっそこれだけ膨大な英語の内容をああでもないこうでもないとやることで英語の能力は多少はまあ磨かれることもあるかもしれない、そうしたらラッキー程度で思ってます。しかしタルムードやってるというよりは歴史をなぞってる感じなんだが。おかしいなあ。まあいいか。 まあ要するにタルムードを作る上での前提として、ユダヤというのは度重なる外圧と内圧とがあり、絶滅の危機に瀕したり現実的な小競り合いがあったり廃教の危機があったりしながらも生きながらえてきたし、それどころか危機を通して知恵を蓄えつつより洗練され豊かなものになっていったということなんだろうな程度でいいのではと思ってます。 時々
※かなり原文にはないような意訳してますが、日本語ってのは「~た」みたいな単純な過去形の羅列よりは「~だった」「~したのだった」的な言い回しを使うとしっくりまとまるのでそういう感じでやってます。そういう使い回しをみたら、ああここやってるわと思ってください。 ・ヨシュアから、バビロン捕囚からの帰還まで 先に述べたように、イスラエルの子らを率いてヨルダン川を渡ってカナンに到達したのはヨシュアであり、数年以内に彼らはそこに住んでいた国々を征服し、追放したのだった。しかしヨシュアが死ぬと人々は神に背を向け、偶像やバリム(邪神)を崇拝したため、神は救世主または裁判官が彼らを救うために派遣されるまで、一度に何年もの間彼らを周囲の国々に征服した。 一時的に彼らは神の元に戻ったのだが、再び反乱を起こした。 このパターンは3世紀にわたって繰り返された。 結局、民は最後の士師(支配者、為政者)であるところのサム
※ここも多分そこまでおもしろい場所でもないし、まあテキトーに流すところだと思うのでしばらくこの調子でやります。時々これはこうかなと思ったところにはコメント入れてます。 カナンに戻るとヨセフの兄弟たちは、彼(ヨセフか)がヤコブに気に入られていたため、彼に異常に嫉妬するようになった。 それで17歳のとき、ヤコブはヨセフに、兄弟たち(羊の子)の様子を報告するように頼んだ。彼らはヨセフが来るのを見るとすぐに、彼を殺そうと決めた。 しかし、エジプトに向かうイシュマエル人の一団が通りかかったとき、ルーベンは彼らに「(自らの)手を血で汚す」のではなく、彼を奴隷として売る(売ってしまう)ように説得したのだった。 こうして、ヨセフはファラオの大臣の一人に売られ、(その時神も一緒だったのだが、)彼が30歳の時にファラオの前に現れ、ファラオの魔術師の誰も解読できなかった厄介な夢を解き明かした。その夢というのは、
※一応書いときますが、全くおもしろくない部分が続くので流し読みくらいが推奨です。 よくあるような聖書のくだりっぽくて何がおもしろいかよくわからん部分が続きますが、まあいずれおもしろい部分が出てくるんだろうと思って訳しつつ書いてます。 聖書のユダヤ教の簡単な歴史 自分のように隣人を愛せ レビ記 19:18 創造からモーセまで 創世記1章では、聖書は神が6日間で成し遂げた私たちの宇宙の創造について説明している。 6日目に、神は男性と女性、つまりアダムとイブを創造し、彼らの物質的なニーズをすべて満たす庭園、つまりエデンの園に彼らを置いた。その後、神は休み、7日目を神聖化し、それを安息日と呼んだ。当時は宗教が存在せず、ユダヤ人もキリスト教徒もイスラム教徒も存在しなかった。 すべては数千年後に誕生した。 そして戒めは一つだけだった。アダムは善悪の知識の木の実を食べてはいけないと言われた。 しかし、蛇
食中毒中に思ったこと二つ目。 玉子について。あの寿司ネタの玉子である。玉子ほど不遇なネタもないんじゃないだろうか、などということを思っていた。マグロだのなんだのとネタは多数あるけれど、玉子だけはほとんど存在意義がない。 以前に大学の頃、友達と寿司屋に行っていろいろ食べていたら玉子が流れてきて、それを取ったことがある。 すると友達、 「え、玉子?」と一言。 「うん。どうした?(何か問題が?)」 「いや、だってもったいないやん」 それだけの会話でそれ以上思い出せないが、ただ友達がこの会話で言いたかったことは非常によくわかる。 要するにはるばる寿司屋くんだりまで来たのだから、玉子じゃなくてもっと食べるネタあるでしょうと言いたかったのだ。胃袋だって限界があるものを、わざわざ玉子なんてネタをその貴重な胃袋のスペースを埋めるために使っては、他のものが入らんではないか。同じ値段でマグロだってあればサーモ
そういうわけで昨日食虫毒らしきものにかかってHP10くらいに回復した時のこと。とりあえず座るも、身体がガクガクガクガクと小刻みに震えてまともに座れないのでまた横になった。 横になって、ああとりあえずもう死ぬことはあるまい、とりあえずHP20まで回復だとか考えていたら、ふと「そうだ、タルムードをしよう」と思ったのだった。 タルムード https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%89 実は前々から探していたのだが全く縁がなく、解説本以外出会ったことがなかったのだが、kindleで探せば英語版はあるのでは?と思った。で確かに探すと英語版であったのだ。 300円ちょっとで5000ページほどである……(笑)まあ実はずっと前から戦国策途中なのだが(笑)、戦国策は多分誰かがやるしなんならもう解説は多数で
なんか急に腹痛になり、こりゃヤバい、しかもなんか相当ヤバイ、こりゃあ吐くなとトイレに向かっている最中に段々立てなくなっていき気を失ったという。 薄れゆく意識の中で、あー、そういやなんか昔もそういうことがあったなあ、25年くらい前だったか、あの時も食虫毒だった気がするが、今回もそっくりだから恐らくは食中毒なんだろう、いやしかし何か悪いもん食べたっけなあとか。 あーこれけっこう重症だな、多分ドラクエで考えればHP1ってのはこういう感じなんだろう、これぞまさに瀕死の重傷、HP0にならなくてラッキー、ざまあみやがれとか。 多分大丈夫だと思うが、もしも死ぬとすれば60%くらいは死ぬだろうか、多分40%くらいは多分生き残るんだろうとか。 え、もしかしてあれか、今話題の小〇製薬なのか?オレ何か食べたっけとか。 とにかく今は倒れ込みながら体力を温存、回復してなるべく死なないようにするのが大切だとか。 倒れ
https://www.youtube.com/watch?v=gr3WUUgx6Fs 先日も貼ったけど今回も。この人の動画おもしろい。 この人がイタリアを北から南までただ食べていくだけの動画。実ははっきり言って興味全くなかったのだが(笑)、なんとなく開いてみたら思った以上におもしろく、個人的に前々からあった何とも言えない漠然とした何かモヤモヤがあって、それが一体何なのか??というのをこの動画はかなり示してくれたように思う。 特におもしろかったのはトマトのくだりで、様々で多種多様なトマトがありながらそのすべてが個性的であり、例えば酸味が強いものや甘みが強いものなどいろいろあるのだろうけれど、そのすべてに意味があり、そしてそれらすべてが違った場所で違った料理に使われていると。他にも、やれピザの生地はきちんと人が自分の手でこねて作らなければならないだの35センチ以下でないとピザとは認められない
それをはっきりと説明することは大変に難しいのだけれど。 かつてあった「それ」の栄光みたいなものがあり、かつて栄えていた「それ」の面影というかそういう印象を読み取ることがけっこうある。そういうものというのは目の前にあるその対象の持つ、そしてその現に放っている印象よりもはるかに強かったりするのだが。それをなんというかは知らないが、言葉にすれば郷愁とか過去の栄光、かつてあった何かを偲ぶということ、回顧……まあそういう言葉で表されるところの何かであり、そういう印象というのは感じ始めてみるとものすごく強いもので、印象は鮮やかだったりする。その過去に対する印象というのは恐らくとてつもなく強いものであり、まあ郷愁が一番強いと思うので郷愁と呼ぶとするが。一度そういうものを感じ始めると、郷愁からの郷愁……という意味で連鎖することがある。そしてその連鎖に引きずられる。 これも郷愁あれも郷愁、ああ懐かしいねえ。
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