おはラッキー! 正直に言おう。 「らき☆すた」がアニメ化したときに、自分は興味がありませんでした。マンガも別になあ、と言う感じでパラ見でした。多分流し読みしかしてません。 しかしなんだ。あの衝撃的なOPと、オタ以外ついてこなくても別にいいよ的な突っ走りっぷり、そして「のんびりグダグダで何が悪い?」とアキラ様に言われたときのようなパワー。負けた。今となってはかかさずアニメを見るのはもちろん、マンガ版を熟読しております。 …なんていう自分と同じ道をたどっている人は多いと思います。どうですか。 ハルヒがサブカル内の形式を作った一つの現象となったとすれば、「らき☆すた」は現象とは言えないかもしれないけれど、異様な熱気に包まれているのは確かです。 似たような感覚は「ぱにぽにだっしゅ!」の時にもあったのですが、それほどストーリーもないし、凝ったネタの盛り合わせがあるわけでもない。「あずまんが大王」ほど
「こんなにスポーツ出来るのに、何で運動部とかに入らないの?」 「だって部活に入るとさぁ……ゴールデンタイムのアニメが見れないじゃん」 『あずまんが大王』が「ありそうでありえない日常」を描いたとすれば、この『らき☆すた』は「本当にありそうな日常」を描いている、と感じさせる点で異質な作品であると言えるのかもしれません。「チョココロネは頭と尻尾のどっちから食べる?」なんて「たい焼きは頭と尻尾のどっちから食べる?」と同じレベルの、ごく日常的な会話ではありませんか。 このような固有性のない繰り返される日常を「物語」として成立させているのは形式であると言えます。そもそも京アニの作画が賞賛される原因として、単純に作画が優れていることと共に、形式を知覚させること、「ここは作画に注目だ」と視聴者に教えるような作品構造をとっていることが挙げられるでしょう。『らき☆すた』においてはOPとだけではなく本編において
新番組と書いてぬかるみと読む。 らき☆すた。OP、ニコニコ動画での再生数とコメント数に吹いた。それも当然、ハルヒEDのハイパー化ともいうべき過剰な音楽性と運動性、ロングショットでのダンスや的確な日常芝居と、ほんのわずかな時間の中にファンが京都アニメーションに期待するもののすべてが込められている。最も訴求力の高い表現を冒頭に濃縮するというのは非常に正しい戦略だ。一方EDは、1枚の背景で表現されるカラオケボックスの部屋の外に漏れ聞こえるアニカラ(新曲ですらない。しかも選曲がアレ)を流し続けるのみという過剰な簡素さだ。その簡素さから、かえってアニメーションの運動性が強調されてもいる。これまでの京アニ作品ではあまり見られなかった引き算の芸だ(例の長門の長回し読書はそれだけに印象的ではあった)。 ハルヒでは「シリーズ演出」を名乗ることで「作家のアニメではない」ことを主張した山本寛の作家性は「運動性の
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