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シェアハウスについて考えたこと - phaの日記 見て。 いや、まあ、 大学の自治寮なんかは、人が入れ替わりつつも自治精神みたいなのをずっと引き継ぎつづていて、ああいうのができないかと思ったりしたんだけど、 大学の施設ということで金銭的に余裕がある 大学生に住人が限られることである程度の秩序を保ちやすい という面も大きかったなあ、と思う。 クラブやサークルの部室とかもそういう面があって、学校を出てから新しくそういうの作るといろいろ大変だなーと思う。 シェアハウスについて考えたこと - phaの日記 まあ、吉田寮の昔の話しますね。 自治のコストは結構掛かる。 自治寮っつっても、寮母さん分の経費はかかってたし(まあ100人超える所なので二三人は仕方なし)、根本的には、修繕費かかってます。 網戸もタダじゃないしガラスもそう。床板も補修するのには材料費かかってます。 人件費は圧倒的にかかってないで
もう今年で4年間くらいシェアハウスやゲストハウスに住み続けている。一人暮らしではなくそういった共同生活的な家に住んでいると「人との交流が好きなんですね」と言われたりするのだが、実際は人と触れ合うのはそんなに好きではないし、むしろ苦手だ。基本的に単独行動が好きだし、人の集まっている場所に2、3時間もいると調子を崩してすぐに帰りたくなるし(そのせいで学校や会社には適応できなかった)、たくさん人と話すとそのあと2日くらい寝込むし、自分には一般的にみんな持っているような協調性とか社会性とかがかなり欠けていると思っている。では何故シェアハウスに住んでいるかというと、それは多分「人と直接コミュニケーションせずに孤独にならない」ということを目指しているからだ。 誰かに対して「会おう」とか「遊ぼう」とか自分から働きかけるのが昔から苦手だ。他人と会っていても何か喋ってコミュニケーションし続けなきゃいけないよ
本日,未明,公陳丸の体調が急変した。老齢で体力は落ちていたが,食欲は3日前まではそこそこはあった。急に内蔵不全が進み,昨日の点滴や抗生剤の注射などの治療も虚しく,1ヶ月移譲前から,ワイフと一つ部屋,僅かなペントスペース付きのワンルームマンションで彼とワイフと同居していたときと同じ状況に戻し,最期,ワイフに看取られて,静かに旅立った。 ワイフと彼の軀を整え,一通り算段して,一旦,うとうとしていた早朝,チコではなく次男の泣き声で再び目が覚めた。そうか,お母さんに教えて貰ったか。長男には,ぎりぎり彼が逝ってしまう前に先に教えて覚悟させてあった。末っ子は,ショックを受けていたが,長男同様,既に受け入れている状況。 ずっと,彼が戻ってこないなんてことはないと信じるために,全員普段通り普通にやっていたが,彼は,次の旅先を決めてしまったようだ。 彼を連れたワイフが私と出会い,息子たちが次々生まれて家族に
愛するパートナーの記憶が1日しか持たず、毎日消えていくとしたら――。そうした辛い現実に直面したとき、人はどのようなことを想いながら、パートナーを支えていくのだろうか。 英リンカンシャー州スポールディングに住む47歳のミシェル・フィルポッツさんは、過去に2度の交通事故に遭った影響で脳にダメージを負った。最初は1985年のバイク事故、2度目は1990年の自動車事故。その結果、1994年までの記憶はしっかりと残っているものの、以降については一切記憶がなくなってしまう。彼女は前向性健忘症という症状に陥り、新しい物事を記憶する能力を失ってしまったためだ。 彼女が異変に気が付いたのは、2度目の事故に遭った後から。当時、弁護士事務所で働いていたミシェルさんは1日中同じ文書のコピーを繰り返し、家に帰されたという。それからはぼんやりすることが多く、発作にも襲われるようになり、1993年には仕事を辞めざるを得
我が家は関東大震災の直後に建てられた。親父が亡くなって、すこし落ち着いたころだと思う。そんな古い家に我慢できずに、僕は母に言った。「こんな古い家なんて売りに出してさ。新しい町でやりなおそう。鎌倉って高く売れるらしいしさ」。母は、そんなうまくいかないでしょ、といって聞く耳を持たなかった。そのときは笑い話の枠を越えずに終わった。けれども僕は本気だった。一家の大黒柱を失って不安でたまらなかったのだ。将来を考える余裕はなかった。古い家は、これくらいのことで情けないとでも言っているようだった。不甲斐ない僕に圧力をかけてくるように思えた。人生が川なら、僕は、その深さを恐れて、何もできず、いや、何もしなかったのだ。ただ、闇雲に、楽な方法を探していたのだ。重圧を、古い家を川底に沈めれば、足が届くようになると錯覚して。 ある晩、僕がアルバイトから帰ってくると、食卓のうえに手紙が置いてあった。母はパートに行っ
土曜、早朝、電話がなる。早朝や深夜の電話は不幸な知らせが多いので出来ればとりたくない。次は誰の結婚式だ。それとも、飲み代の取立てか。いやんいやん。って駄々こねていれば電話が静かになるわけでもないので、観念し、もしもし、電話をとる。声の主は、大学以来の友人、横田。夏にあったときは、携帯電話の工場で働いていたはずだ。「もう俺はだめだ。田舎に帰ることにした」、横田は言った。部屋の片付けを終え、明後日に発つ、今日会おう、僕の都合に構わず一方的に告げ、電話は切れる。僕の手のなかにある携帯電話も横田が組み立てたものかもしれない。 青森出身の横田とは大学の文芸サークルで出会った。同じ法学部法律学科。入学三ヶ月でそっち方面の才能のなさに気付き脱出路を探った僕とはちがい、横田は成績もそこそこ優秀で、卒業後も就職せずにそっち方面の勉強とアルバイトの生活を続けていた。十数年が経った。司法試験合格の知らせは届いて
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