京都市が隠し続けたスラム街 ほんの10年位前まで、京都市には行政に見捨てられた人たちの住む地域「0番地」があった。現在では屈辱的な0番地という見えない存在ではなく、40番地という地名がつけられているが、住人の多くが在日韓国・朝鮮人であり、その殆どが強制連行の被害者たちだった。 日本の敗戦後、多くの韓国・朝鮮人が祖国に戻ったものの、戦火で帰る場所を失った人たちもまた多かったのである。そうした人々が鴨川沿いにバラックを立てて住み着き、いつのまにか0番地と呼ばれるようになっていた。 冒頭に紹介した写真を見れば一目瞭然、戦後の荒れ果てた状態がそのまま続いて今に至っている。行政の恩恵がないために、下水どころか生活廃水もし尿も垂れ流しである。 現在、崇仁協議会の運動が実り、40番地の住人たちの立ち退きが始まっている。彼らを収容するために、川沿いには3つの団地建設がはじまり、1つはすでに完成した。ところ