タグ

historyと政治に関するbattaのブックマーク (4)

  • バイデン氏、直前まで葛藤 原爆資料館訪問、米世論を懸念:時事ドットコム

    バイデン氏、直前まで葛藤 原爆資料館訪問、米世論を懸念 2023年05月20日07時06分配信 平和記念公園の慰霊碑へ向かう(左から)湯崎英彦広島県知事、スナク英首相、フォンデアライエン欧州委員長、トルドー加首相、メローニ伊首相、バイデン米大統領、ミシェル欧州理事会議長、岸田文雄首相、マクロン仏大統領、ショルツ独首相=19日、広島市中区(代表撮影) バイデン米大統領は19日、先進7カ国(G7)各国の首脳と共に広島の平和記念資料館(原爆資料館)を訪れ、犠牲者に祈りをささげた。原爆を投下した唯一の国のトップによる訪問。水面下では、日米の政府間で直前までぎりぎりの攻防があった。 バイデン米大統領、核廃絶へ「共に進む」 原爆資料館での記帳公表―広島サミット 「大統領は長時間の視察はできない」。今年初め、日側がG7首脳陣を資料館の細部まで案内する計画を伝えると、ホワイトハウス側はこう反対した。焼け

    バイデン氏、直前まで葛藤 原爆資料館訪問、米世論を懸念:時事ドットコム
  • 『田中正造の生涯』林 竹二 著

    田中正造の評伝。 田中正造は、幕末に栃木県の小中村(現 栃木県佐野市)の百姓の家に生まれる。百姓といっても名主を務めるような家で、父の跡を継いで名主になり、正造はこの小さな村の名主を12年務めた。 彼は小中村の「政治」に責任を負って、藩レベルの政治とは異質のまとめ役をこなした。それは、自治的な慣行や寄合における合意を尊重する、ボトムアップ式のものだった。彼は名主ではあったが身分意識は薄く、村人の代表として領主との対立を辞さず、領内7ヶ村の農民の抵抗運動を組織して、暗君(失政の領主)を退陣させる実績を残した。そのために正造は投獄されたが、これが、権力に決して屈しない、正造の戦いの始まりだった。 正造は、明治11年に政治に一身を捧げようと決心する。きっかけは、土地の投機に成功して3千円という大金を手に入れたことだった。この金は正造に「公共のために尽くす自由」を与えた。正造は、なんと35年間の予

    『田中正造の生涯』林 竹二 著
  • 「ルー・リードがいたから、私は大統領になった」

    翻訳担当の阿部です。 もしホワイトハウスが自分のために晩餐会を開いてくれるのであれば、ぜひ私の友人ルー・リードもホワイトハウスに呼んで彼の演奏を聴きたい──。 いまから15年ほど前、そんなリクエストを米国の大統領に出した、ある国の大統領がいました。1989年から92年までチェコスロバキア大統領、そして93年から03年までチェコ大統領を務めたヴァーツラフ・ハヴェルです。 ホワイトハウス側は動揺しました。というのも当時、米国大統領だったビル・クリントンは、モニカ・ルインスキーとの不倫スキャンダルで世界的に注目されていた時期だったからです。ホワイトハウスの職員は、ルー・リードの曲の歌詞にオーラル・セックスに関する表現がないかどうかを気にしだしたといいますが、クリントンはハヴェルのリクエストを快諾。1998年9月、ホワイトハウスで催されたハヴェル大統領のための晩餐会でリードの演奏が実現することにな

    「ルー・リードがいたから、私は大統領になった」
  • ベアテ・シロタ・ゴードンさんロングインタビュー

    「あの日」を回想して思うこと。 GENERATION TIMES編集長 伊藤剛 実に6年ぶりに「あの日」のインタビュー原稿を読み直しました。読み終わって心の中に浮かんだのは、「感謝」と「後悔」という二つの言葉。感謝というのは、言うまでもなく、見ず知らずの自分に対して、とても素直に、時に笑いも交えながら、最後は思いの丈をぶつけるかのような熱を持ってベアテさんが話してくれたこと。後悔というのは、もう二度と彼女に質問をすることができないという圧倒的な事実に対して。今なら、今だからこそ、唯一の生き証人であったベアテさんに聞いておくべきだったことがまだまだある気がしてなりません。あの日の自分の未熟さへの強い後悔です。 ベアテさんにお会いしてから、今もなお余韻のように僕の心象風景として残っていることは、彼女の「ふつうさ」です。それは、僕自身が勝手に抱いていた「GHQ」とか「憲法」というものへの強い偏見

    ベアテ・シロタ・ゴードンさんロングインタビュー
  • 1