八王子は江戸時代から甲州街道の要衝地であり、物資の集散地として多くの人が行き交う宿場町としてにぎわった。明治維新を迎えて社会や産業構造が変化してもむしろ発展していく。その背景には、明治新政府が外貨獲得のために生糸の輸出を奨励したことがある。 養蚕業・製糸業が盛んな八王子は、富岡製糸場が立地する上州と開港場の横浜を結ぶルート上にあった。また、甲州・信州から横浜へと向かう際にも経由地だった。そうした要因から、生糸・絹の取引で活況を呈した。 東京よりも「横浜寄り」だった八王子 明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。東京府(現・東京都)に移管された理由は定かではない。町田や八王子の三多摩は、自由民権運動が盛んで反政府的な地域だった。その対応がおっくうになった神奈川県知事が東京府へ譲渡したとも、東京府の水源となっている多摩川流域が神奈川県に属する