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architectureとhistoryに関するconsigliereのブックマーク (53)

  • 発掘まだ4割、謎多き古代の首都中枢「平城宮跡」(1/2ページ)

    世界遺産で特別史跡の平城宮跡(奈良市)は令和4年、国史跡に指定され、100年という節目を迎える。平城宮は1300年前の首都・平城京の中枢で、現在でいえば皇居や国会議事堂、霞が関の官庁街を集めたような所だ。実態の解明は古代律令国家のあり方を知るうえでも意義が大きいが、約60年にわたり奈良文化財研究所(同市)による継続調査が行われているが、いまだベールに包まれた部分は多い。調査の進捗(しんちょく)はどうなっているのか。(岩口利一) 約1万人が「出勤」 平城宮には、平城京に住む役人ら約1万人が出勤し、政務空間の朝堂(ちょうどう)院や役所で、仕事に従事していたとされる。 当時の官庁組織は「二官八省」と総称され、太政(だいじょう)官と神祇(じんぎ)官、中務(なかつかさ)、式部、治部(じぶ)、民部、兵部(ひょうぶ)、刑部(ぎょうぶ)、大蔵、宮内の各省が存在していた。 これまでの発掘調査では、軍事に関わ

    発掘まだ4割、謎多き古代の首都中枢「平城宮跡」(1/2ページ)
  • 信長の小牧山城に最古級庭園か 玉石出土「軍事空間にわび」 | 共同通信

    織田信長が築いた愛知県小牧市の小牧山城(国指定史跡)で、丸い「玉石」を敷き詰めた遺構が出土した。同市教育委員会が6日までに発表した。枯山水のような庭園と推測され、市教委は「庭を設ける信長の城造りの源流」としている。 城郭庭園は、信長が小牧山城から移った岐阜城(岐阜市)に造ったのが最古とされており、定説を覆す可能性がある。 市教委によると、遺構は小牧山の山頂東側で発見。直径5~15cmの玉石が幅2~3m、長さ約9.2mにわたって敷き詰められていた。 滋賀県立大の中井均教授(日城郭史)は「城郭という軍事空間に相反するわびの空間を作り出している」と指摘する。

    信長の小牧山城に最古級庭園か 玉石出土「軍事空間にわび」 | 共同通信
  • 初期博多港の石積み70メートル 交易を大宰府が管理?:朝日新聞デジタル

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    初期博多港の石積み70メートル 交易を大宰府が管理?:朝日新聞デジタル
  • 古墳の石材→城の石垣に?石室に破壊跡 地元には伝承が:朝日新聞デジタル

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    古墳の石材→城の石垣に?石室に破壊跡 地元には伝承が:朝日新聞デジタル
  • 国登録文化財が次々解体 残る本館、まもなく見納め 【消えゆく太宰の宿 船橋・玉川旅館】(上)(千葉日報オンライン) - Yahoo!ニュース

  • 柱が島木が歴史の証人 厳島神社の大鳥居修繕 | 中国新聞デジタル

    約70年ぶりの大規模な修繕工事が進む…

    柱が島木が歴史の証人 厳島神社の大鳥居修繕 | 中国新聞デジタル
  • なんばパークス南で謎の遺跡発見!その正体を追う - 昭和考古学とブログエッセイの旅

    大阪の難波にある「なんばパークス」の南端、少し前の記憶がある人は大きな平面駐車場として覚えている人がいるかと思います。もっと具体的に言えば、「ヤマダ電機LABI1なんば店」の横、南海電車との間のスペースです。 そこに、タイ資の「センタラグランドホテル大阪(仮称)」が作られるようです。 出典:難波中二丁目における開発について 建設工事が始まり、基礎固めのために地面を掘ってみたところ、おそらく誰も予想もしなかった意外なものが「発掘」されることに。 画像提供:【速報】再開発しているなんばパークス南端から謎の遺跡が出土……(207様ブログ) なんじゃこりゃ!!! 空の上から松田優作の有名なセリフが聞こえてくるような「遺跡」が。それも町のど真ん中に…。 果たしてこれは何時代のものか、いつのものか…江戸時代?いや平安時代か、いや数万年前の超古代文明…なわけないか。 実は私、こういう「遺跡もん」が大好

    なんばパークス南で謎の遺跡発見!その正体を追う - 昭和考古学とブログエッセイの旅
  • 国宝「光浄院客殿」伝統的技法による修復工事が初公開 大津 | NHKニュース

    大津市の三井寺にある国宝の建物の修復工事の様子が公開され、訪れた人たちが薄く割った板を屋根に重ねる伝統技法の「こけらぶき」と呼ばれるふき替え作業を見学しました。 17日は工事の様子が初めて公開され、県内外から訪れた14人が足場に上って、高さ5メートルの屋根の上から見学しました。 客殿の屋根のふき替えには、厚さ3ミリに割ったサワラの木の板を重ね、腐しにくい竹のくぎで止める「こけらぶき」という伝統的な技法が用いられています。 訪れた人たちは滋賀県教育委員会の職員から、ふき替えにおよそ10万枚の板が使われていることなどの説明を受けたり、くぎを打ち込む職人の作業を写真に収めたりしていました。 愛知県から来た50代の男性は「偶然に見ることができて幸運でした。設計図もない中で、緻密な作業を行う伝統の技はすばらしいと感銘を受けました」と話していました。 滋賀県教育委員会文化財保護課の尾山義高さんは「1

    国宝「光浄院客殿」伝統的技法による修復工事が初公開 大津 | NHKニュース
  • 平重盛邸から池跡が初めて出土 清盛の長男

    平安時代末期の12世紀末に、父・平清盛とともに平家の全盛時代を築いた平重盛の邸宅「小松殿」跡(京都市南区)から、池跡が出土した。小松殿からの遺構出土は初めて。自然の湿地の周囲に土を盛って造成した簡素なつくりで、鎌倉時代前期に埋め立てられていたことも判明した。調査した民間会社「文化財サービス」は「平家の盛衰をそのまま反映した池」と評価する。 建物建設に伴い平安京の左京八条二坊五町の一部約215平方メートルを調査したところ、調査地の東端から池跡が東西約15メートル、南北約10メートルにわたり出土した。一緒に出た土器、瓦などから池は平安時代末の12世紀末に完成し、鎌倉時代前期の13世紀初めごろに埋められたらしい。 平重盛は清盛の長男。武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した。小松殿は、清水寺(京都市東山区)に近い小松谷に別の住まいを構えたことが由来になってい

    平重盛邸から池跡が初めて出土 清盛の長男
  • 熊本城 築城当時の石垣見つかる 地震再建工事の石垣解体で | NHKニュース

    地震で大きな被害を受け、再建に向けた工事が行われている熊城で、およそ400年前に加藤清正が築城した当時のものとみられる石垣が見つかりました。熊市は「築城の歴史を示す貴重な資料だ」としています。 熊地震で石垣が大きく崩れた飯田丸五階櫓は再建に向けて石垣の解体が進められています。 市によりますと、先月中旬、解体の過程でもともと見えていた石垣の内側から別の石垣が見つかったということです。 この石垣は長さが14メートルあり、一つ一つの石の形が整っておらず、およそ400年前に加藤清正が築城した大天守の石垣の積み方と似ているということです。 このため市は、この石垣が築城当時のものとみていて「築城の歴史を示す貴重な資料だ」としています。 また、19日は、先月中旬から始まった小天守の石垣の積み直しも公開され、作業員が専用の工具を使って石を削り、元の形になるよう微調整していました。 熊城総合事務

    熊本城 築城当時の石垣見つかる 地震再建工事の石垣解体で | NHKニュース
  • 聖心女子大学キャンパス内の旧久邇宮邸(通称「パレス」等)が、国の重要文化財に指定へ

    聖心女子大学 聖心女子大学キャンパス内の旧久邇宮邸(通称「パレス」等)が、国の重要文化財に指定へ 大学ニュース / 施設設備 / 地域貢献 2017.10.21 06:00 聖心女子大学(東京都渋谷区)内にある登録有形文化財の旧久邇宮邸御常御殿、ほかの歴史的建造物が、国の重要文化財に指定されることになりました。 いずれも大正期に建造され、和風を基調とした宮家の邸としては唯一現存する貴重な建築物。同大では創立以来、今日に至るまで、これらの文化財を課外活動や授業などの場として活用してきましたが、年に数回の一般公開も引き続き実施していくこととしています。 聖心女子大学構内の旧久邇宮邸御常御殿(通称「パレス」)は、登録有形文化財として、これまで大切に保存するとともに、学生の課外活動や授業などの場として活用してきましたが、この度、国の重要文化財に指定されることになりました。 指定の名称は「旧久邇宮

    聖心女子大学キャンパス内の旧久邇宮邸(通称「パレス」等)が、国の重要文化財に指定へ
  • 「高田世界館」日本最古の映画館の、解体の危機から再生に至るまで

    最近の映画館は、アミューズメント施設化が進んでいるようである。座席が揺れたり風が吹いたりする最新設備の映画館も魅力的だが、一世紀前からほぼそのまま残りいまも現役で上映する映画館があることをご存じだろうか。多くの人々が過ごした歴史ある空間で見る映画は、ここでしかできない体験となるかもしれない。 新潟県上越市にある「高田世界館」は、1911年(明治44年)建築。当時、軍隊が近隣に誘致され、約2,000人の人が移り住んできた。急激に増えた人口に対応しようと、問屋街だったまちは急ピッチで商業開発が進む。牛鍋屋や旅館など、相次いで新しい店が増えた。そんな中、娯楽の需要に応える施設として芝居小屋「高田座」ができた。(現、高田世界館)当時の新聞には『ルネッサンス式白亜の大劇場』と記されたそうだ。芝居小屋として営業をしたのは5年だけで、すぐに映画館に業態を変更。「世界館」と名称も変更するのだが、いまも建物

    「高田世界館」日本最古の映画館の、解体の危機から再生に至るまで
  • 新羅時代の王宮に人柱? 人骨2体発見、韓国では初:朝日新聞デジタル

    5世紀前後の韓国・新羅時代の王宮の基礎部分から人柱とみられる人骨2体が見つかった。韓国文化財庁が16日、発表した。同庁は、韓国で人柱を考古学的に発見した初めての事例としている。 人骨が見つかったのは、韓国南東部、慶尚北道慶州(キョンサンプクトキョンジュ)の月城(ウォルソン)史跡。5世紀前後、盛り土で造られた西側の城壁の基礎部分に、寄り添うように横たわっていた。仰向けの人骨は男性で、横向きの人骨の性別は確認中という。顔のあたりに樹皮が付着していた。 同庁によれば、人柱の習慣は、紀元前17~同11世紀ごろの中国で確認されていた。韓国では建物や堤防を造る際に人柱が供されたという言い伝えがあったが、実際に確認されたのは初めてという。 同庁関係者は人骨の状態につい…

    新羅時代の王宮に人柱? 人骨2体発見、韓国では初:朝日新聞デジタル
  • 城郭研究者必携の本が出来ました (サンライズ出版 岩根治美) | 版元ドットコム

    近江には1300以上の城跡があります。1997年、サンライズが最初に作ったお城のは『近江の城−城が語る湖国の戦国史』(中井均著)でした。 それから20年、当初は滋賀県内の城郭のを出していたのですが、いつしか県外のお城にまで範囲を広めるようになり、今春、遂に『織豊系城郭とは何か−その成果と課題』という全国レベルのを発刊することができました。 このの企画は1984年関西で結成された「城郭談話会」から30周年記念として出したいというお話を2013年に受け、2015年3月に刊行の予定でした。 ところが、原稿の遅延、掲載論考や城郭の追加などで2年遅れとなってしまいました。一時が、難産の末、立派なものに仕上がったことに安堵しています。 執筆陣は城郭研究の重鎮・村田修三氏、「織豊系城郭」という言葉を最初に用いた千田嘉博氏、礎石建物・瓦・石垣の3点セットが織豊系城郭の特質であるという中井均氏を始め

    consigliere
    consigliere 2017/04/19
    『織豊系城郭とは何か−その成果と課題』
  • 明治の文豪も訪ねた満洲三大温泉はいま | ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

    日露戦争後、関東州と南満州鉄道附属地を手に入れた日は、満鉄主導で現在の東北地方の開発を進めましたが、いかにも日らしいと思うのが、各地に温泉を開発し、行楽地にしたことです。 なかでも有名だったのが、湯崗子温泉(鞍山)、熊岳城温泉(営口)、五龍背温泉(丹東)でした。当時は「満州三大温泉」と呼ばれていました。 これら満州の温泉を世に広めるのに一躍買ったのが、明治の文豪たちです。 最初の話題提供者は、『満韓ところどころ』を書いた夏目漱石。彼が訪ねたのは日露戦争後わずか 4年目( 1909(明治 42)年)で、満鉄沿線は開発途上でした。それでも、漱石は熊岳城温泉と湯崗子温泉を訪ねており、兵士の療養小屋に毛の生えた程度の温泉宿の様子を「すこぶる殺風景」と評しています。 時代は移って大正期に入ると、紀行作家として有名な田山花袋のベストセラー『温泉めぐり』や『満鮮の行楽』などの読み物の中に、満洲三大温

    明治の文豪も訪ねた満洲三大温泉はいま | ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌
  • 薬師寺東塔は奈良時代の建設 新築?移築?論争決着へ:朝日新聞デジタル

    「凍れる音楽」と称される奈良・薬師寺の東塔(国宝、高さ約34メートル)が、奈良時代の730年ごろに建てられたことが分かった。寺と奈良文化財研究所(奈文研)が19日、年輪年代測定の中間結果を発表した。東塔をめぐっては、飛鳥時代の藤原京(694~710年)からの「移築説」と平城京遷都後の現在地での「新築説」があったが、新築説が確定的となる。 東塔では、2009年から約110年ぶりの解体修理が進行中。奈文研は取り外された初層(1階)の天井板2点に対し年輪年代測定を実施し、伐採年が729年と730年と判明。塔中央の心柱についても測定し、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。伐採年が710年の平城遷都前の飛鳥時代までさかのぼる結果は、確認されていない。 薬師寺は680年、天武(てんむ)天皇が皇后(後の持統〈じとう〉天皇)の病気平癒を願い、奈良県橿原市の藤原京内(現・

    薬師寺東塔は奈良時代の建設 新築?移築?論争決着へ:朝日新聞デジタル
  • 菅原道真晩年の屋敷跡か 太宰府市、祭祀用遺物も出土 [福岡県] - 西日本新聞

    「南館」で菅原道真が晩年を過ごした時期と重なる掘っ立て柱建物跡が見つかった発掘現場=25日午後、福岡県太宰府市の榎社境内 写真を見る かめ(土師器)の中に重ねるように入れられていた坏。祭祀に用いられた可能性があるという 写真を見る 写真を見る 福岡県太宰府市教育委員会は25日、10世紀初めに都から左遷された菅原道真が過ごした「南館」があったとされる榎社(同市朱雀)境内の発掘調査で、9世紀後半~10世紀前半の掘っ立て柱建物跡や溝跡が見つかったと発表した。溝から、かめに坏(つき)を重ねて入れた祭祀(さいし)用とみられる遺物も出土。市教委は「菅公(道真)がこの地で最晩年を過ごした時期(901~03年)と重なる注目すべき遺構」としている。  市教委は6月から調査を進め、平安時代の掘っ立て柱建物跡3棟などを確認。うち1棟は出土土器から9世紀後半~10世紀初頭と判明した。これまでにも南館跡の一部とみら

    菅原道真晩年の屋敷跡か 太宰府市、祭祀用遺物も出土 [福岡県] - 西日本新聞
    consigliere
    consigliere 2016/08/26
    「「草堂」とも表記し瓦ぶきでなかったことをうかがわせる」
  • (141)東大寺東塔跡の調査(上) - なぶんけんブログ

    基壇 古代では最大級 奈文研では、2015年に、東大寺・奈良県立橿原考古学研究所とともに発掘調査団を組織して、東大寺の東塔跡の発掘調査をおこないました。 奈良時代の東大寺には、東塔と西塔という二つの巨大な七重塔が建っていました。1180年の平重衡の焼き討ちによって、これらの塔も焼けてしまいましたが、その後、少なくとも東塔は再建されたことが文献からわかっています。 発掘調査では、この鎌倉時代に再建された塔跡が、まず姿を現しました。塔の基壇(基礎の土壇)は正方形で、一辺が約27メートルもあり、高さは約1・8メートル前後と推定されます。基壇の上には、径4メートルほどの大きな穴が規則的に多数あいていました。これは塔の柱の下に置かれた礎石を抜き取った穴です。 奈良時代の塔の基壇は、鎌倉時代の基壇にすっぽりと覆われ、部分的にしか確認できませんでしたが、その規模は一辺約24メートルと推定されます。古代で

    consigliere
    consigliere 2016/07/21
    「2016年度はこの奈良時代の塔を解明する発掘調査をおこなう予定」
  • 京都市南区役所:スマホで再現!蘇る 南区観光「AR羅城門」の配信について

    この度,南区役所では,南区の新たな地域資源の創出と地域活力の活性化を図るとともに,国内外から訪れる観光客の皆様に区内の魅力を発信するため,花園大学との共同研究により平安京の正門「羅城門」等をコンピュータグラフィックス(CG)で復元し,スマートフォンやタブレットなどで見ることができる南区観光「AR羅城門」を下記のとおり配信しますので,お知らせします。  なお,事業は皆様に頂いた「だいすきっ!京都。寄付金」を活用しています。                                          記 1 概要  京都市南区にある羅城門跡碑や周辺のバス停付近などにおいて,朱雀大路の南端に建てられた平安京の正門「羅城門」等を様々な角度から見ることができるよう,CGで忠実に再現することで,まるで目の前に存在しているかのような体験ができるアプリです。   2 主な機能 (1)表示内容  ス

  • 正倉院の創建、大仏開眼と同じごろ 建材の年輪から推測:朝日新聞デジタル

    聖武(しょうむ)天皇(701~756)ゆかりの宝物などを納めた奈良・正倉院(国宝)の創建時期が、東大寺の大仏開眼(752年)とほぼ同じ752~756年ごろとみられることがわかった。宮内庁正倉院事務所が21日に発表した「正倉院紀要第38号」で報告した。奈良文化財研究所の光谷拓実(みつたにたくみ)客員研究員が、建材の年輪の幅の変動をものさしにした調査で推測した。 創建時期については、大仏開眼の儀式用品や献納品を納めたと考えて753年とみる説や、聖武天皇の遺品を光明(こうみょう)皇后が献納した756年とする説など、複数ある。ただ、宝物の出し入れの記録などから、遅くとも759年には完成していたと考えられている。 光谷さんは2002年以降、北倉(ほくそう)・中倉(ちゅうそう)・南倉(なんそう)の3室に仕切られた内部の天井や床、壁など計67の部材の年輪を調査。中倉の床下の部材が、741年の数年後に伐採

    正倉院の創建、大仏開眼と同じごろ 建材の年輪から推測:朝日新聞デジタル