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「存在を読む」ということ/「ぬるき」と「たぎる」 - Feel in my bones
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「存在を読む」ということ/「ぬるき」と「たぎる」 - Feel in my bones
昨日帰郷。家を出たときは、前登志夫『存在の秋』(講談社文藝文庫、2006)を持って出た。書かれている... 昨日帰郷。家を出たときは、前登志夫『存在の秋』(講談社文藝文庫、2006)を持って出た。書かれている世界と私の日常との間にはやはりかなりの懸隔があり、近づくのが難しい部分がある。しかし、吉野という場所の霊的な凄さとでも言ったらいいか、そういうものが強く感じられる本である。 「わたしの晴耕雨読の間の抜けているのは、はじめからわかっている。だが、かつがつ山の暮らしを守ることによって、わたし自身に出会う場所がおのずから見えてくる。半人前のわたしの耕は、存在を読むことであろうか。」 存在を読む。これだけではそれがどういうことを意味するのか、まだよくわからない。ただ、存在を読むのが歌人なんだろう、というふうには思う。 「日本の古い文化の栄えた故郷である飛鳥には、ふしぎに何も残されていない。仏像も、お寺も、宮殿も、みんな滅びてしまった。今では、飛鳥川やいくつかの丘や、古墳や、田圃や、石が残っているだけ