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言葉に関するlazycameraのブックマーク (2)

  • 卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。 | 立教新座中学校・高等学校

    諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、校教職員を代表して心より祝意を述べる。 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。 とりわけ、強く、大きく、校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうして

    卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。 | 立教新座中学校・高等学校
  • 国語教育について - 内田樹の研究室

    大学院のゼミでは国語教育について論じる。 国語力の低下が子どもたちの学力の基盤そのものを損なっていることについては、すでに何度か言及した。 何が原因なのかについては諸説があるが、「言語のとらえかた」そのものに致命的な誤りがあったのではないかというラディカルな吟味も必要だろうと私は思う。 「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。 だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。 構造主義言語学以後(つまり100年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。 先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。 とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。 私が何かを書く

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