【長文です】 1995年3月20日に起こった地下鉄サリン事件…オウム真理教が起こした未曾有のテロでした。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、今もなお、PTSDなどの後遺症で苦しむ方々の症状が少しでも改善しますようお祈り申し上げます。...
【長文です】 1995年3月20日に起こった地下鉄サリン事件…オウム真理教が起こした未曾有のテロでした。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、今もなお、PTSDなどの後遺症で苦しむ方々の症状が少しでも改善しますようお祈り申し上げます。...
絵画『死の勝利』(ピーテル・ブリューゲル、1562年)には、社会に壊滅的な打撃を与えた疫病と戦争がヨーロッパ人の想像力に残した強烈な印象が描き出されている。(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM) またたく間に世界を大きく変えてしまった新型コロナウイルス感染症。わたしたちの暮らしや社会が今後どうなるのか心配な人は多いだろう。 関連ギャラリー:黒死病からコロナまで【感染症、歴史の教訓】画像20点 だが、世界を大きく変えたパンデミックを人類が経験するのは初めてではない。その最たる例が中世の「黒死病」だ。 歴史上、黒死病の大きなパンデミックは3度あった。1665年の英国ロンドンや19世紀~20世紀にかけても猛威を振るったが、史上最悪の規模となったのは1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病だ。なんと当時の欧州の人口の3分の1が命を落としたとされる。 中世ヨーロッパ
大航海時代、ヨーロッパ人のアジア進出を阻んだ大きな壁が、蚊が媒介する感染症マラリアでした。 南米ペルーに自生するキナという植物がマラリアに効くことは17世紀から知られていましたが、成分を薬にまで精製する技術はありませんでした。 ようやく19世紀の初頭、キニーネというアルカロイド成分の分離に成功、これがマラリアの特効薬となったことを受け、東南アジアの植民地化が進みました。 ペルー原産のキナは、その後、オランダ領ジャワに移植され、20世紀初頭にはジャワ産が世界市場を独占していました。 どうしてペルー原産の植物がジャワ島に移ったかというと、あるイギリス人がペルーの山中でもっとも医薬品に向いたキナ種を探し出し、これをイギリス政府に献上したものの、政府はまったく関心を示さない。そこで、この人物はオランダ政府にこの種を買ってもらったのです。キナの将来性に気づいたオランダ政府が、ジャワに移植し、特産品と
●台脳組織摘出実験(1950年頃) 東京都立松澤病院の臺(台・うてな)弘医師(後に東京大学医学部精神科教授)が、精神分裂病患者42人(男性25人、女性17人)、対照患者(精神病質、[躁]鬱病、神経症、脳炎後性格異常、てんかん、進行麻痺など)および診断に疑義のある患者(ヒロポン中毒含む)28人(男性20人、女性8人)の計70人に対し、ロボトミー(前頭葉白質切截手術)の際(切截の前に「小尖刃刀又は小鋏を以て軟膜の一部を切り、其処から鋭匙を入れて主として皮質組織をsubpialにすくひとる」。皮質白質を合わせて約1g。摘出した脳組織の試験管内でのin vitro代謝状況を調べる。論文では1名死亡のみを記載。学会で告発後にそのほか2名の死亡例の詳細(脳の出血多い)が報告される (台弘・江副勉「精神分裂病者脳組織の含水炭素代謝に就いて」[第一報・第二報]H. Utena & T. Ezoe, "St
網野幸子 @sachiko_amiko 実父は陸軍士官学校に合格して入る年に終戦になり医学校へ入学した。終戦後問題になったのは感染症でこの勉強をしたいと思って師事する先生を探したらその先生が産婦人科医だったので産婦人科に入局した。皮肉なことに父の子どもはポリオ生ワクチンの副反応被害児になった(私の兄弟だ) 2020-06-16 03:04:41 網野幸子 @sachiko_amiko それでも父やその先輩はワクチンに対して疑義を持たなかった。それだけ生ワクチンが足りずに子ども達が命を落としたからだ。当時私たちは公団住宅に住んでいたが私でも同じ団地内で3、4人の子どもが亡くなったことを知っていた。副反応被害児になった兄弟は父が勤めていた大学病院で学生の為に供覧する 2020-06-16 03:09:42 網野幸子 @sachiko_amiko ことを頼まれて父母共に断れなかった。兄弟は1才迄
アイルランド出身の料理人メアリー・マローン。腸チフスが集団発生した際、初めて保菌者と特定された人物だ。メディアはマローンを「腸チフスのメアリー」と呼び、マローンの裁判と強制隔離は世間の注目を集めた。1909年ごろに公開されたこのイラストでは、マローンが頭蓋骨を割ってフライパンに入れている。(CHRONICLE, ALAMY) ジョージ・ソーパーはいわゆる探偵ではなかった。彼は土木技師だったが、公衆衛生の専門家のような存在になっていた。そのため1906年、米国ニューヨーク州ロングアイランドの家主が腸チフスの発生源の追跡に苦労していたとき、ソーパーに声がかかった。その夏、家主はある銀行家の家族と使用人にロングアイランドの家を貸していた。8月後半までに、この家に暮らす11人のうち6人が腸チフスに感染したのだ。 ソーパーは以前、ニューヨーク州の職員として感染症の調査を行っていた。「『エピデミック・
HeLa細胞の顕微鏡写真 HeLa細胞(ヒーラさいぼう)は、ヒト由来の最初の細胞株。不死化(英語版)した細胞株として世界各地で培養され、in vitroでの細胞を用いる試験や研究に幅広く用いられている。1951年に子宮頸癌で亡くなった30代アフリカ系アメリカ人女性ヘンリエッタ・ラックスの腫瘍病変から分離され、株化された。細胞の採取は本人に無断であったが、その没後に原患者氏名(Henrietta Leanne Lacks)から命名された[1]。 起源について[編集] 1951年、ジョンズ・ホプキンス大学病院において手術でヘンリエッタ・ラックスから切除された癌性腫瘍から取り出された癌細胞が、同大学の生物学者であるジョージ・オットー・ゲイ (George Otto Gey) によって培養され、細胞株として確立された[1][2]。 動物の生きた細胞を、実験室で培養する細胞培養(あるいは組織培養)の
本項で解説する地方病(ちほうびょう)は、日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)[† 1]の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。 「日本住血吸虫症」とは、「住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病」であり、「ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症」でもある[3]。日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名:カタヤマガイ)という淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄
映画『ボヘミアン・ラプソディ』とは英国のロックバンド『Queen』のボーカリスト、フレディ・マーキュリーの人生を描いた2018年公開の映画です。 映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式 @BohemianMovieJp 🎬映画『#ボヘミアンラプソディ』 🔱 11月9日(金)公開決定❗ 🔱 🎥予告解禁後、 🌎全世界で1000万再生を突破💥 常識を打ち破る #フレディマーキュリー の生き様と⚜伝説のバンド<#クイーン>の32曲🎤で贈るミュージック・エンタテインメント❕✨ #映画 #Queen #BohemianRhapsodyMovie pic.twitter.com/rEZrHNNeIx 2018-07-12 17:01:06 まじさん @mazy_3 『ボヘミアン・ラプソディ』で大きく史実と違うのは、フレディがAIDSだと診断されたのは、85年のライブエイドの後の87年。メンバー
1944年、西太平洋の赤道付近に位置する無人島。日本軍の憲兵が銃を向け、男性(当時24歳)に下船を命じた。「らいがうつるから、人がいる島に近付くな。お前はここで死ぬ。そのことが国のためだ」。従う以外に選択肢はない。男性は国に「破棄」されたのだった。 国はハンセン病を「国辱病」と宣伝し、「浄化」に取り組んできた。1907年に「ライ予防ニ関スル件」を制定。31年には「癩(らい)予防法」と改めて、患者を死ぬまで強制隔離する政策を推進した。 男性は1920年、沖縄本島で生まれた。18歳で出稼ぎのため、南洋諸島の一つ、クサイ島に単身渡った。「沖縄に残した父母を楽にさせたい」との思いを抱きながら土地を開墾し、仲間20人ほどと懸命に働いた。 41年12月に太平洋戦争が開戦すると、船にたけていた男性は現地で徴用され、見張り役として働いた。44年の正月、朝起きると腕に赤い斑点が出ていた。病院で「らい病」と診
「どうして70年間も、ここにいなければならなかったのか」――。岡山県にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園で暮らす元患者の中尾伸治さん(83)は疑問に感じている。病気はとっくに治っているのに、国の隔離政策で差別や偏見の目にさらされ続け、療養所で暮らさざるを得なかったからだ。そうした人たちは他にも大勢いる。入所者の思いやハンセン病を語り継ぐ意味とは……。まずは動画で見てほしい。(三重テレビ放送/Yahoo!ニュース 特集編集部) JR岡山駅から東へ車で約1時間。長島(岡山県瀬戸内市)は瀬戸内海に浮かぶ東西6キロの細長い島だ。この島にある長島愛生園は日本初の国立ハンセン病療養所として1930年に開園した。本土からの橋「邑久(おく)長島大橋」が架かったのは1988年のこと。それまでは離れ島であり、船でしかたどり着く手段がなかった。事実上、“隔絶の島”だった。
鳥打地区の遺構(2017年〈平成25年〉11月撮影) 鳥打地区の遺構(2017年11月撮影) このように象皮病の症状の有無を問わず、鳥打村住民の血中ミクロフィラリア陽性率は4割以上の高率であり、「ミクロフィラリアは見いだせなかった」とする前年の吉永・帖佐の調査結果と大きく異なっている。なお、見出したミクロフィラリア虫の種類については特に述べておらず、日本国内の他のフィラリア流行地と同様にバンクロフト糸状虫と見なしたものと考えられている[82]。望月と井上はこの結果から、象皮病の発生にはフィラリア糸状虫の関与が必要であることを主張し、連鎖球菌を主因とした京大側の結論に異論を唱えた[81]。ただし、フィラリア虫の寄生によってリンパ系の鬱滞が起こることが象皮病の主要因ではあるものの、鬱滞した部分が細菌に感染しやすくなるのも事実であって、細菌感染による丹毒様発作はあり得るとし、感染過程のある時点で
水俣病の原因となったメチル水銀中毒の仕組みを、新潟大学の研究グループが解明。原因物質を抑制する新薬の開発につながる可能性があるという。 水俣病の原因として知られるメチル水銀中毒のメカニズムを、ラットを使った実験で解明したと、新潟大学の研究グループが1月25日に発表した。新しい治療法の開発につながる可能性があるという。 メチル水銀中毒は、50~60年代に発生した水俣病、新潟水俣病の原因として知られている。小脳や後頭葉などに障害を引き起こし、体がふらついたり、視野が狭まったりなどの後遺症をもらたすが、なぜ小脳などの部位に障害が起こるのか、詳しい仕組みは分かっていなかった。 研究チームは、水俣病の重症患者の脳内にむくみや出血が見られることに注目。ラットにメチル水銀を投与したところ、小脳や後頭葉で「VEGF」と呼ばれるタンパク質が異常に増加していることを確認した。VEGFが血管の壁を破壊し、血管内
【1/10追記その2】 全く今回の記事は、私の調査不足によるところであり、猛省しております。記事を読みご不快になられた方もおられると思いますので、この場で改めてお詫び申し上げます。 皆様からの情報と、改めて調べたことを付け足して、この記事の追記をいったん終わりたいかと思います。 結論としては、「薬箱の破壊」に関する逸話は、真偽はともかく、100年以上前から既に存在していた、ということです。 元ツイートの方が資料として挙げられました、Ladybird社のナイチンゲールの伝記は、確かに当時日本で流布した伝記もののひとつです。日本での販売元のいずみ書房はふとっぱらなことに、その日本語訳をオンライン上で公開しておりますので、該当箇所を見つけることができました。長いですが引用します。 数百人の負傷兵で病院がいっぱいになると、包帯やすべての医療品が大量に必要になりました。それらの品はいつも不足していま
後で学生のチームの人たちが話してくれると思うんですけど、あんまり時間もないのでちょっと急ぎます。皆さんも本当にね、いろんなこと勉強した方が良いです。僕は小さいうちはあまり本も読まなかったし、あれだったんですけど。 自分が本当に知的なね、金儲けだけじゃなくてもう一つ、ものすごく知的な人生を歩もうとすると、自分のレベルに合わせた人しか周りに来ないから。だから色んな分野に精通して色んな事を学んで、いろいろ知っていた方が良いと思います。歴史のこともね。 ミャンマー、タイ、中国、ラオス、あの辺は昔はね、「ゴールデントライアングル」って言ったんです。なんでゴールデントライアングルって言うかといったら、麻薬作ってるんです。今でも作ってます。ケシ栽培しています。 テレビを観るために、体を売ってエイズになる少女たち 後で学生のチームの人たちが話してくれると思うんですけど、あんまり時間もないのでちょっと急ぎま
私もこのことについては昔から気になってました。 軟膏や粉薬じゃ意味がないことわざなのに、かなり古い文献にも似たような記述がある。 考えられるのは黒田如水の先祖が商っていたというメグスリノキなんですが、これは洗顔液で点眼薬ではない。 幕末のポンペ先生が1867年に弟子に伝えて大当たりしたという「精奇水」か?でもこれも軟膏らしい。 後の参天製薬になる田口參天堂が最初の点眼薬を売り出したのは、1899年の事なんです。 通常のQAは結局よくわからないので、このことわざ自体が新しいものなんじゃないかという結論でした。 しかし、ここでこだわりの人のサイトを発見できました。ことわざ研究者(ことわざ学会代表理事)北村孝一氏の「ことわざ酒房」です。 氏は例のトリビア番組で当時は「軟膏の塗り薬」で、二階から目薬は「無理な相談です」「ことわざの意味も出来ないこと、してみても無駄なこと」だという説を聞き、釈然とし
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