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asahiとworld-war-2に関するnabinnoのブックマーク (5)

  • 朝日新聞作成の教材 日本軍の残虐性強調 指導要領逸脱の指摘も(1/2ページ)

    朝日新聞が今夏、沖縄戦について「日軍は住民を守らなかったと語りつがれている」などとする中学・高校生向けの教材を作成して学校に配布し、教育関係者から「偏向的な内容で子供たちに誤解を与える」と批判の声が上がっていることが25日、分かった。戦争の悲惨さを伝える一方、日軍の残虐性を強調する記述が多く、学習指導要領の趣旨を逸脱しているとの指摘もある。朝日新聞はこの教材を38万部作成したが、学校現場に適切かどうか議論を呼びそうだ。 朝日新聞が作成したのは、教育特集「知る沖縄戦」。中学生以上を対象にした新聞スタイルの学習資料で、昭和20年の沖縄戦について、県内の戦争体験者らへのインタビューを交えて解説している。 だが、全体的に日軍への批判的記述が目立ち、次のようなことが書かれている。 「沖縄戦の教訓として『軍隊は住民を守らなかった』と語りつがれている」 「(避難壕(ごう)の中で)日兵は『子どもを

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  • 朝日新聞デジタル:日系収容所、鮮やか日本文化 大戦中のカラー写真発見 - 国際

    関連トピックス日相撲協会強制収容施設内の盆踊りのため、着物姿で集まった若い女性たち。1943、44年に盆踊りが開かれたが、どちらの時かは不明=米ワイオミング州ハートマウンテン、ビル・マンボさん撮影強制収容施設内であった相撲大会の様子=米ワイオミング州ハートマウンテン、ビル・マンボさん撮影強制収容施設内を撮影するのに使ったカメラで、自分を写すビル・マンボさん  第2次世界大戦中、米国内に作られた日系人強制収容施設を内部から写したカラー写真が大量に見つかり、8月に米国でとして出版された。白黒でしか分からなかった収容施設の生活ぶりがカラーで鮮明に伝わってくるのと同時に、盆踊りや相撲など、施設内で息づいていた日文化が色濃く浮かび上がる。  写真は、1942年にカリフォルニア州の自宅からワイオミング州ハートマウンテンの施設に移された日系2世のビル・マンボさんが撮影していた。開戦後、カメラは「戦

  • 終戦の日に新聞が書くべきこと - H-Yamaguchi.net

    2012年8月15日の朝日新聞夕刊「素粒子」欄にこんな文章が出ていた。 67年前、この日まで神話に浸っていた。多くの命を犠牲にしない道はあったはず。そして戦後また神話にすがり。 まるで他人事だ。戦後の話はともかく、当時その「神話」を広め、世論を煽り立てたのは誰だったのか。まさか知らないってことはなかろう。こういう短文コラムですべての要素をカバーするのはもとより無理だし、何か書くたびに自省の文言を入れてこられてもうざいとは思うが、こういう日だからこそ書いてるんだろうから、当時「土決戦、一億の肩に懸る 挙国全戦力投入も可能」みたいな記事を書いた新聞ならではの、こういう日だからこその自省のことばが少しくらい入っていてもバチはあたるまい。というか、そういうのなしにしれっと「神話に浸っていた」とか書かれても説得力ないよね。 終戦の日であるわけだし、一応念のため、朝刊も見てみたんだが、社説のテーマは

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  • 朝日新聞デジタル:戦没者追悼式、野田首相の式辞全文 - 社会

    全国戦没者追悼式で式辞を述べる野田佳彦首相=15日午前11時57分、東京都千代田区の日武道館、山口明夏撮影  天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族並びに各界代表多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式をここに挙行いたします。  先の大戦では、300万余の方々が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、異郷の地で亡くなられました。改めて、心からご冥福をお祈りいたします。  また、最愛の肉親を失った悲しみに耐え、苦難を乗り越えてこられたご遺族の皆様に、深く敬意を表します。  先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省し、犠牲となられた方々とそのご遺族に、謹んで哀悼の意を表します。  今日の我が国の平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた方々の尊い犠牲の上に築かれています。  私たちは、過去の悲惨な戦

  • 笠信太郎 - Wikipedia

    笠信太郎 笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年〈明治33年〉12月11日 - 1967年〈昭和42年〉12月4日)は、日のジャーナリスト。社長不在時代の朝日新聞で常務取締役論説主幹を務め、信夫韓一郎、永井大三とトロイカ体制をしき、60年安保では最初から日米新安保条約への改定に賛成して、反米親ソの安保反対陣営から激しく攻撃された。また、昭和研究会メンバーなども務め、政界のフィクサーや、CIA協力者としても活動した。 経歴[編集] 化粧品店を営む笠与平・峯子の長男として、福岡市上土居町(現・博多区店屋町)に生まれる。幼名は与三郎。1918年福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現・一橋大学)科を卒業[1]。1926年同研究科を退学する。三浦新七ゼミ出身[2]。マルクス経済学者の杉栄一は大学予科時代からの友人で、後年兼松講堂で行われた杉の一

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