内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日)[1] - 1934年(昭和9年)6月26日)は、近代日本の東洋史学者。名は虎次郎(とらじろう)。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国における唐宋変革時代区分論争などで学界を二分した。 生涯[編集] 上京まで[編集] 1866年 (慶応年間)陸奥国毛馬内村(現:秋田県鹿角市十和田毛馬内)にて、南部藩士・内藤調一(1832年 - 1908年。号は十湾)と容子の次男として生まれた[2]。本名の「虎次郎」は、父の十湾が吉田松陰に心酔していたため、吉田松陰の通称である「寅次郎」から取って命名した[3]。父・十湾[4]は折衷学派に属していた。 6歳で『大学』をわずか4ヶ月で習得し、7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳時で『日本外史』を通読し、さら