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認識論と自己決定に関するnoitseuQのブックマーク (2)

  • 日本ペンクラブ電子文藝館

    序に代えて 太陽が照れば塵(ちり)も輝く。 (「格言と反省」から) * 考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇(あが)めることである。  (「格言と反省」から) * 人間のあやまちこそ人間をほんとうに愛すべきものにする。  (「格言と反省」から) * 鉄の忍耐、石の辛抱。 (一七八〇年五月末の日記から) * 真理に対する愛は、至る処(ところ)に善いものを見いだし、これを貴ぶことを知るという点に現れる。  (「格言と反省」から) 人間と人間性について 人間こそ、人間にとって最も興味あるものであり、おそらくはまた人間だけが人間に興味を感じさせるものであろう。  (「ヴィルヘルムマイスターの修業時代」第二巻第四章から) * 各個人に、彼をひきつけ、彼を喜ばせ、有用だと思われることに従事する自由が残されているがよい。しかし、人類の来の研究対象は人間であ

    noitseuQ
    noitseuQ 2023/10/24
    どんなにたびたび他人を誤解するかということを意識したら、だれも集会であまり多くを語らないだろう。(「親和力」)  人間の作品においても、自然の作品においても、本来特に注目に値するのは、その意図である。
  • 「他人に迷惑をかけない限り自由」とは「何も自由ではない」に等しい|まとも書房/哲学者ホモ・ネーモ

    「他人に迷惑をかける」なんて、自由自在に解釈できる。 「金髪に染めた大人は見ていて不愉快」 「若者が夜に遊び回るのは、子どもの教育に悪い」 「大手企業に就職をしなければ、親に心配をかける」 「スーツを着ないことは、取引先に不快感を与える」うん。すべて「迷惑」で解釈できる。これがまかり通るならば、いったい何が自由だというのだろうか? 当に自由を求めるのなら、原則は次のようであるべきだと思う。 他人に迷惑をかけようがなんだろうが、自由。うん。最高だ。 そもそも、「他人に迷惑をかけない限り」という前提がおかしい。 なぜ、人は自由になった途端に、好き好んで他人に迷惑をかけると想定しているのだろうか? 僕は完全に自由になったとしても、他人に迷惑をかけたいとは思わない。 別に誰も殴らないし、何も盗まないし、そこそこ他人を思いやって生きていくと思う。 たいていの人は、僕と同じではないだろうか? (そり

    「他人に迷惑をかけない限り自由」とは「何も自由ではない」に等しい|まとも書房/哲学者ホモ・ネーモ
    noitseuQ
    noitseuQ 2023/09/27
    僕は完全に自由になったとしても、他人に迷惑をかけたいとは思わない。たいていの人は、僕と同じではないだろうか?(そりゃあごく一部のサイコパスは好き放題やるだろうが、どうせ今の社会も合法的に好き放題…ry)
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